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それはきっと必要ない 曇った思考がクリアになる”絞り込む”技術 印南敦

第47回

薄いプライドは必要ない

2018.10.23更新

読了時間

めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。
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「あの人、プライドが高いからねー」

周囲から、そんなふうに言われる人がいるものです。そして、そういうタイプの人は多くの場合、謎の緊張感を意識させていたりもします。

なぜか? 理由はいたってシンプルです。そのような人は自尊心、すなわち「プライド」が傷つけられることを極度に嫌うため、あるいは恐れるためです。早い話、傷つけられるのが怖いから、常に自分の周囲にバリアのようなものを張っているということです。

おそらく、本人は無意識なのでしょう。しかし、無意識だからこそなおさら、結果的には周囲に気を遣わせてしまうのかもしれません。

「あの人は、プライドが高い人だ」

「だから、傷つくような言動は避けておこう」

という具合に。

でも、気を使う側の立場に立ってみたらどうでしょう?このような調子で気を遣った場合、果たしてその人のなかには、「気を遣わせる人」についてどんな印象が残るでしょうか?

たぶん、上記の「傷つくような言動は避けよう」とう思いは、次のように進んで行くことになるのではないかと思います。

「傷つくような言動は避けておこう」

「避けておくけど、なんだか疲れるな」
「そもそも、なんでそこまで気を遣わなくちゃならないの?」
「純粋に楽しくないな」

決定的なのは、最後の「純粋に楽しくないな」という思い。

気を遣うことが義務のようになってしまったとしたら、それは気を遣う側に不必要な作業を強いることになります。

いってみれば、その人にとっては、純粋に「楽しくない」。でも実際問題として、楽しくないことをわざわざする必要は誰にもありません。そのため最終的に「気を遣わせる相手からは距離を置こう」という発想に至ったとしても、まったく無理はないわけです。

つまり、「プライドが高い」と自負する人、または「プライドが高い人だという印象を与える人」は、それだけ周囲に無駄な労力を強いることになるということ。

しかも多くの場合、本人はそのことに気づいていません。だから余計に話が厄介になるのです。

なぜ、ここまで断定的に書けるのかといえば、そこにはふたつの理由があります。まずひとつ目は、僕から近しい位置にも、「自分はプライドが高いのだ」とアピールする人がいたから。そういう人の痛々しさを、嫌というほど見せつけられてきたからです。

そしてもうひとつは、かくいう僕も、若いには自分のプライドの高さを自負していたから。つまり失敗した経験があるからこそ、いろいろなことがわかるわけです。

でも僕個人に関していえば、ある時期から「プライド」に対する価値観が大きく変わりました。たしか20代の半ばか、もしくは後半あたりのことだったと思います。いま思えば、それでも充分に甘っちょろいレベルなのですが、いろいろな考え方が変わっていったことは事実なのです。

別に、なにかきっかけがあったわけではありません。ないのだけれど、きっと日常生活のなかでいろんな人たちと交流するなか、さまざまな気づきがあったということなのでしょう。つまり、誰にでもある話。

いずれにしても、ひとつ大きなことに気づいたのです。

端的にいえば、「プライドの高さを自負する人は脆(もろ)い」ということ。

プライドの高さは、あえて人にそれをアピール必要があるものではありません。しかし、少なくとも僕が接してきた人のなかには、「私はプライドが高い」ということをなんらかの手段によって伝えようとする人が少なくありませんでした。その手段が口頭であれ、行動であれ、醸し出す雰囲気であれ。

いずれにしろ、そういう人はプライドの高さを盾にしているのです。先に触れたように、「プライドが高いから、そこに触っちゃだめ」と、触れられたくないところをガードしているわけです。

そこはたいてい「痛いところ」なので、触れられると、ガラスのように繊細なアイデンティティが崩壊してしまう可能性があります。しかも、そういう人はたいてい「脆い人」なので、もしもそうなったら自我を保てなくなってしまう可能性があるのです。

自分でもそれがなんとなくわかっているから、無意識のうちにプライドという名の盾で自分をガードしてしまうということ。

ただ残念なことに、それは「プライド」ではなく「プライドもどき」です。そして「プライドもどき」は多くの場合、周囲からはお見通しです。

だから、苦笑まじりに「あの人はプライドが高いからね」と言われてしまうことになるのです。いいかたを変えれば、「『プライドが高い人』として自我を保てて散る」と思っているのは本人だけで、まわりからは「弱い人」と見られているようなものだということ。

「プライド」に関して、僕は思うことがあるのです。

本当の意味でのプライドとは、上記のような薄っぺらい盾のようなものではなく、もっと高いレベルで自我となりうるものだということ。

もし、「私はプライドが高い」と口に出す人、もしくは心のどこかにそういう意識を抱えたまま生きている人が、誰かからバカ扱いされたとしたらどうなるでしょうか?

おそらくキレるのではないかと思います。あるいはキレないにしても、傷ついてしまう可能性が非常に高い。なぜなら、バカ扱いされたことによって、プライドを傷つけられたと感じてしまうから。

でも、それは本当に「プライドが高い」ということなのでしょうか? 僕にはどうもそう思えないのです。やはり、「脆い人」に見えてしまうのです。

だとすれば、本当の意味で「プライドが高い人」とは? この問いに対して、僕はこう思うのです。

たとえば誰かにバカと言われたときに、余裕で笑って返せること。

それこそが、本当の意味でのプライドではないかと強く感じるのです。もちろんそれは、本望ではないという場合のほうが多いでしょう。そりゃそうです。バカと言われて気持ちのいい人なんか、いるわけがないのですから。

でも、自分に心の底から自信があれば、少なくとも相手が指摘してきた部分について自信を持てるのであれば、バカだなんだと言われたところで痛くも痒くもないわけです。

そこまでの余裕を持てる状態にあってこそ、本当の意味で「プライドが高い」と言えるのではないかと思うのです。

そういった核の部分があれば、あえて「私はプライドが高いから」なんてガードをする必要はなくなるわけです。

本当の意味で高いプライドを持っている人に向けて「バカ」という言葉を投げかけるとしたら、それは超合金で覆われた強固なロボットに銀玉鉄砲のタマを投げつけるようなもの。つまりはまったく影響がない。

一方、「私はプライドが高い」と主張する人に「バカ」という言葉を向けたとしたら、それは防護服を着ていない人にバズーカ砲を浴びせるようなもの。

おかしな例えではありますが、つまりはそういうことだと僕は考えるのです。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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