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それはきっと必要ない 曇った思考がクリアになる”絞り込む”技術 印南敦

第49回

年賀状は必要だ

2018.11.07更新

読了時間

めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。
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大げさな表現ではなく、本当に驚いているのです。
なんの話かって、時間の流れの速さのこと。

「なんだよ、そんな話かよ」と感じられても当然だと思います。それに、誰しも似たようなことは常に感じているものでもあるでしょう。つまり、「時間が経つのは速いねえ」という感覚は、特筆するまでもない当たり前すぎることなのかもしれません。

が、それでも今年は、特に速い気がしてならないのです。

いや、それだけ僕が歳をとったということなのでしょうよ。だとすれば、そこで話はシンプルに完結してしまいそうです。けれど実際のところ、「夏が終わったと思ったら、秋を飛び越えていきなり年末に向かっていた」というような感じなのです。だから戸惑ってしまうのです。

また、そのことに関連して、どうにも違和感を覚えずにはいられないのが「年賀状問題」です。なにしろ感覚的には夏が終わったばかりなのに、そう感じているとき、頭のどこか別のところでは「そろそろ年賀状の準備しなきゃ……」というモヤモヤした焦りが確実に生まれているわけです。

頭のなかで時間軸がズレまくっているようなものなので、そのミスマッチ感が、たまらなく気持ち悪い。

文句を言ってもはじまりませんので、そろそろ準備をしなきゃいけないなと思っているのですが。

でも実際問題として、年賀状を出す人は年々減っているようですね。11月1日付の朝日新聞にも、こんな記事がありました。

2019年用の年賀はがきの販売が1日、全国の郵便局で本格的に始まった。10月1日に先行販売された東京五輪・パラリンピックへの寄付金付き年賀はがきを含め、当初の発行枚数は前年比7・2%減の約24億枚。枚数は減少傾向が続き、過去最高だった04年用(44億5千万枚)の半分近い水準まで減っている。(朝日新聞DIGITAL 2018年11月1日12時40分配信分)

過去最高の販売枚数を打ち出したのが、14年前の2004年とはちょっと意外でもあります。誰もがなんの疑問を感じることもなく年賀状をやりとりしていた高度成長期あたりの年賀状事情には、好調なイメージがあるからです。

けれど、実際にはそうではないようです。1964年の発行部数が10億万枚で、1973年に20億枚を超えたのだというのですから。しかも2004年のころには、すでに年賀状を出さない人がかなり増えていたように記憶しているので、ちょっと意外な数字だと感じてしまうのです。

しかし、いずれにしても年賀状を出す人が減少していることは間違いありません。その傾向は、今後も続いていくのでしょう。今年の販売開始記念イベントでは芸能人やスポーツ選手などが登場して「年賀はがきの魅力を語り合った」らしいのですが、そんなことをやっただけで売上枚数が増えるとも思えませんしね。

とはいっても、だからといって年賀状そのものを否定したいというわけではないのです。それどころか個人的には、「なくなってほしくない」と考えています。単純な話で、お正月に届く年賀状を眺める楽しさを体験しながら育ってきたからです。

やはり、子どものころの記憶が大きいと思います。たとえば小学生時代には、一枚の年賀状を書くために信じられないほどの労力を費やしたのではないでしょうか?

大人の感覚からすればそれは無駄な時間だったのかもしれないけれど、相手のことを考えながら書く時間が楽しかったし、自分自身がそういうことをしていたからこそ、友だちから手書きの年賀状が届くと、やはりうれしかったわけです。

けれど、そこには多少の矛盾もあるのです。大人になったいまもすべて手書きかといえば、決してそうではないからです。毎年、300枚くらいの年賀状を出さなければならないので、もう20年くらい前から印刷した年賀状を送っているのです。

ただ、できる限り、手書きのひとことを加えようと努力はしています。なぜなら、一文字でも手書きの文字が入っていれば、そこから気持ちが伝わる気がするから。

我が家にも会社名義の年賀状がたくさん送られてくるのですが、たとえきれいに印刷されたオフィシャルな年賀状だったとしても、そこにササッと「またお会いしましょう」「今年もよろしくお願いします」などのひとことメッセージが添えられていると、「ああ、あの人はわざわざ手を動かしてこれを書いてくれたんだな」と思えてうれしくなります。

そこが重要だと思うのです。もちろん、「すべて手書き」が理想ではあるでしょう。でも、現実問題としてそれが難しければ、ひとことだけ添えればいい。たったそれだけでも、確実に気持ちは伝わると思うのです。だから僕は、「なるべく」そうするようにしています。

そんな理由があるからこそ、従来の年賀状は否定したくないのです。

正直なところ、毎年この時期になると、「また年賀状の時期かー、面倒だなー」とも感じます。感じますけれど、でもそれは必要なものであり、なくなってほしくもないと思っているということです。

ただし、どうしても納得できず、もらってもあまりうれしくないのが「年賀メール」です。

もうかなり前から、メールで年賀のお知らせをくださる方もいらっしゃいます。それは、僕のことを覚えていてくれて、「出そう」と思ってくださったからこそ届くものです。そういう意味では、年賀はがきと同じだろうという考え方もあるでしょう。

それはわかっていますし、考え方が古いだけなのかもしれません。しかし、それでも僕は「質感」や、それに付随する「感情の高まり」などに期待してしまうのです。年賀状の紙質、厚さ、触感、そして、家族と一緒に「ああ、あの人から来たよ」などと話しながら見せ合ったりすることなども、年賀状の重要なポイントだと思えてならないから。

「それこそが年賀状をもらううれしさだ」といっても過言ではありません。

その一方で、いまや若い人たちの間では、LINEなどSNSを通じて「あけおめ」のやりとりをするのが当たり前になってきてもいるのでしょう。そう考えると、やはり僕の考え方が古いだけだという可能性も否定できません。

ただ、あくまで推測ですが、多くの若い人たちは、「あけおめ」「ことよろ」のやりとりをすることと、年賀状とを別ものと考えているのではないかという気もします。

なぜならSNSでのそうしたやりとりは、年賀状の代わりというよりも、「お祭り」みたいなものだから。「年が明けたねー」「おめでとー」的な“掛け合い”こそが楽しいのであって、新年のお祝いを賀状に託すということとは目的そのものが違っているような気がするのです。

もちろん、「LINEして終わり」という人もいるでしょう。しかし、その一方には、きちんと年賀状を書く子もたくさんいるような気がしているのです。僕がそう感じるのは、中学生の娘が、友だちひとりひとりに手書きの年賀状を書いている姿を見ているからにすぎないのですが、うちの娘だけが特別だというわけではないはずです。

中学1年生のころ、SF作家の星新一さんの作品が大好きでした。あの1年だけでもかなりの星作品を読んだ気がするのですが、そんなこともあり、一度だけ年賀状を出しました。拙い文字と文章で、読者としての思いを伝えたのです(年賀状なのに)。

なにしろ子どもですから、「出した以上は返事が届くのではないか」という淡い期待をなかなか払拭できませんでした。もちろん、そんな都合のいい話があるはずがないということはわかっているのです。なにしろ相手は売れっ子作家なのですから。でも、やはり期待は捨てられなかったのです。

それからしばらく経った2月のなかごろ、一枚の年賀はがきが届きました。繰り返しますけど2月ですぜ。裏返すと、そこには縦書きのシンプルな直筆でこう書かれていました。

賀  星 新一

たったそれだけです。でも、すごくうれしかったのです。少なくとも僕の年賀状に目を通してくれたからこそ、そのはがきを書いてくださったのですから。

と書いて気づいたのですが、僕が手書きの年賀状に価値を感じるのは、あのときの体験の影響もあるのかもしれません。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)ほか多数。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)

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