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よみものどっとこむ

第7回

蔵書は必要ない(その2)

2017.10.25更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

前回、「読んだ本をとっておくことは必ずしも必要ない」というお話をしました。趣味で集めている古書や、思い入れのある小説などは話が別。しかし新刊や、書店で購入できる範囲の本は、読み終えたからといっていつまでも大切に持っておく必要はないという考え方です。

その理由については前回を参照していただきたいのですが、あれから改めて思ったことがありました。なぜ、「本をとっておく必要はない」と考えるようになったのか? そのことを突き詰めていくと、それは僕自身の過去の経験につながっていくということに気づいたのです。

そこで番外編的ではありますが、今回はそのことについて書こうと思います。思いっきり私ごとで恐縮なのですが。

もうずいぶん前に死んだ父は、かつて編集者でした。雑誌をつくったり書籍の担当になったり、いろんなことをしたようです。そのため我が家は、本や雑誌であふれていました。リビングの壁一面は本棚でしたし、向かいの壁にも本の山。物置にも玄関にも、いたるところに本が積まれていました。

いま思えば、「乱雑」という意味においてとんでもない環境だったのかもしれません。でも、物心ついたころにはすでにそんな感じでしたから、特に違和感はありませんでした。それが普通だと思っていたのです。

ところで僕が高校2年だった年のちょうどいまごろの季節に、家が火事になりました。原因は、祖母のたばこの火の不始末。吸い終わったたばこの吸い殻を紙に包んでくずかごに捨て、そのまま外出したというのですから、いかにもやらかしてくれた感じです。

その日のことはよく覚えています。体調が悪かったわけでもないのに、学校にいてもなんだか落ち着かなかったのです。もちろん理由はないのですが、おそらく虫の知らせというやつだったんだろうと思います。事実、3時間目を終えた時点で限界に達し、「印南、バックレかよー」という同級生の声を背に早退したら、今朝まであったはずの家が燃えていたのです。

あのときは、ポカーンと口を半開きにして燃える家を眺める野次馬の群れを、心の底から軽蔑したなー。

ってな話はともかく、二階にあった祖母の部屋が出火元である以上、隣に部屋があった僕はすべてをあきらめなければなりませんでした。事実、鎮火したあと確認してみたら、コツコツ集めたレコードも、バイトをして買ったギターも、それから、お金で買えない小さいころの写真も、すべてが燃えカスになっていました。

ところで、あのときは印象的だったことが2つあります。まずひとつは、どこかの野次馬が「息子さんがたばこ吸ってて火事になったらしいよ」とデマを流し、なんだか知らないけど僕が犯人扱いされたこと。なお、他にも「あの家ではお嫁さんがおばあさんにごはんをつくってあげないから、仕方なく二階で天ぷらを揚げていたおばあさんが誤って鍋をひっくり返して火事になった」というトンデモなデマが流れたりもして、それはそれはものすごい想像力だなと感じたものです。

話がそれましたが、もうひとつ印象的だったのは、2階を焼き尽くした火が階下に広がらなかった「理由」です。火は上に行くものだから、と考えたくもなるでしょうが、そういう理由ではありません。なにしろ火の勢いはすさまじく、下の階までを燃やしたとしてもまったく不思議ではないほどだったのですから。

では、なぜ火は一階まで行かなかったのでしょうか? 理由は簡単。階段の端まで積み上げられていた本の山が、火の勢いを食い止めたのです。本は紙ですからよく燃えそうなのですが、積まれているとなかなか燃えにくいのだそうです。我が家を襲った火事を通じ、僕はひとつ知識を身につけることになりました(そんな知識いらねー)。

でも結局は、焼けずにすんだ本の大半も価値を失うことになりました。消火作業時に、たっぷりと水を吸ってしまったからです。難を逃れた本(数千冊はあったと思います)は父が死んでから処分したのですが、誠実な古書店主に査定をお願いしたものの、結局はそれほどの価値がつきませんでした。別にそれで財産を築こうとは思っていたわけではありませんから、それはそれでいいんですけどね。

もう、モノを所有することに執着する時代は終わっています。もちろん、好きで集めるという以前に、集めることそれ自体が目的になっている人はいるでしょう。そういう人は集めればいいけれど、でも、それが前時代的な感覚であることは否めないと思うのです。否定したいというわけではなく、客観的な意味でね。

だから、ここ数年の自分のなかから、モノを集めたいという欲求が加速度的に減っていることにも納得できるわけです。自分がどうということではなく、それが時代の流れ。そういう方向に社会全体が向かっているということです。そしてその先に、“現代的な心地よさ”があるということ。つまり、そういう時代なのです、たぶん。

ただ、その一方で僕個人に焦点を当てた場合、時代の影響以前のなにかがあるような気がします。つまり、過去に一度、火事ですべてを失ってしまったこと。それ以前の僕は「集める」ことへの執着が強かったのですが、集めたものすべてを失ったとき、集めるという行為に対する虚しさを実感せざるを得なかったのです。

だからどうだということではなく、「そういうことだ」という話。オチはないのだけれど、逆にいえば、あれがあったからこそ、いま、「持たないこと、減らすことの価値」を理解できるのではないかという思いもあるのです。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

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