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よみものどっとこむ

第9回

ミニマリズムは必要ない

2017.11.08更新

読了時間

【この連載は…】めまぐるしくトレンドが変化する現代。改めて自分に必要なものは何かを見つめなおしてみませんか? 本連載では、作家・書評家の印南敦史さんが、大きなことから小さなことまで、日々の生活で気になった事柄をテーマに「なにが大切で、なにが大切でないか」を考えていきます。

少し前、「ミニマリズム」が話題になりました。いうまでもなく、モノを減らしてシンプルに生きることを提案したムーヴメント。ちなみに「なりました」とあえて過去形にしているのは、実際のところ「流行」として消費されてしまった感があることは否定できないからです。

もちろん、それは単にマスコミで大々的に取り上げられすぎたせいであり、実際のミニマリズムの本質は流行を超えたところにあるのでしょう。そういう意味でも、決してミニマリズムそのものが廃れたわけではないと思います。ミニマリストのみなさんだって、流行り廃りとは別のところで、きょうも楽しくミニマルに暮らしていらっしゃるでしょうし。

でも、全盛期ほどこの話題を持ち出す人が少なくなってきたいまだからこそ、改めてミニマリズムについて考えてみたいのです。というのも、多くの方々がわーわー盛り上がっていた当時、僕のなかにはかなり大きな違和感があったからです。

ただし最初にお断りしておきたいのは、こんなことを書いている僕は決してミニマリズム否定派ではないということです。肯定派でもないけれど、基本的に部屋のなかがモノであふれている状態には大きなストレスを感じるからです。そういう意味では、立ち位置としては肯定派にやや近いのかな?

どうあれ、かつて本とレコードがぎっしり詰まった部屋で過ごしながら違和感を覚えていた経験があるからこそ、そんな失敗を踏まえたうえで、モノだらけの部屋はもう嫌だと感じてしまうということ。

しかし、矛盾していると言われるかもしれませんが、それでも一部のミニマリストのやり方はあまり共感できません。もちろん好みの問題ですし、一部の人の話ですが。

なぜか? 簡単なことです。すべてがそうとは言わないまでも、多くのミニマリストが「行きすぎて」しまっているように見えるから。ミニマリズムに限らず、物事は往々にして行きすぎてしまうものですが、ある時期、その最前線を疾走していたのがミニマリストたちだったと思うのです。でも、それを側から見ていて、なんだか居心地の悪さを感じたのです。

「ミニマリズム」という言葉を聞いて、あなたはどんなことを想像するだろう?
何もない部屋、禁欲的、真っ白な壁、つらい倹約生活、家具がまったくない部屋で床に座る人。たいていの人は、こんなイメージが浮かぶのではないだろうか。

これは、僕がミニマリズムに関する名作と信じてやまない『より少ない生き方 ものを手放して豊かになる』(ジョシュア・ベッカー著、桜田直美訳、かんき出版)からの一説です。著者は現代のミニマリズムの煽動者として有名な人物ですが、これこそまさに、ミニマリズム、ミニマリストに対するイメージそのものではないでしょうか?

でも現実的には、そんな環境で精神を安定した状態に保ったまま生活することなど不可能。著者も、そのことを指摘しているのです。

たしかに、周囲からモノがなくなればすっきりします。それに、失ってみて初めて、「それがない状態」が思っていたほど苦しいものではなかったと気づいたりもします。そして、その境地に達すると、意識がどんどん研ぎ澄まされていくような気持ちにもなります。経験的に、その感覚はわかります。

ただ、だからといって何年も何十年も、なにもないそのままの状態で本当に生活していけるのでしょうか? 家族が増えているかもしれない5年後にも、テーブルは不要でしょうか? 個室を欲しがる思春期の子に、「なにもない部屋で床に座って仲よく暮らそう」と説得できるでしょうか? 20年後も、白いコットンシャツが数枚あれば、着るものに関して満足できるでしょうか?

僕は、そこに疑問を感じるのです。

なにもない白い部屋で床に座る生活も、一時的には快適、というより、非日常的であるからこそ新鮮かもしれません。しかし、そこが引っかかるのです。

人間の生活が非日常的であるはずがないし、人間である以上は、なにひとつモノが増えず、景色も変わらないような部屋で80歳まで生活し続けることは不可能なのではないかと思うから。

なぜって、生きている以上、モノは必然的に増えていくのです。それが普通なのです。だから、まず「ミニマルであること」をムキになって維持することよりも大切なのは、「生きてりゃ増えていくもんだ」ということを受け入れること。

そして、そこから「では、どうすべきか」と考えることが大切なのではないでしょうか? いってみれば、増えていくことを否定するのではなく、「そこから、どれをどう削ぎ落とすか」という発想を持つべきだということ。そこからどう進むべきかを、どのような配分で暮らすかを、考えていくことが大切だと思うわけです。

現時点で100のモノがあったとしましょう。そのなかで、「これだけは処分するわけにはいかない」と思えるものがどれくらいあるでしょうか? そのことについて、とことん考えるのです。で、少しでも「あってもなくてもいいなー」と感じたものは、積極的に捨てていくのです。

捨ててしまってもかまわないものは、演劇でいえば「その他大勢」のようなもの。演劇では、「その他大勢」がストーリーに関わってくることだってあるかもしれませんが、「自分にとってのミニマリズム環境」を構築する際のそれはムダでしかありません。なぜなら重要なのは、「そのあとに残ったもの」だからです。

目の前にある100を見ながら考え抜いて、いらないものを捨てていった結果、15のものが残ったとしましょう。「捨てよう」という気持ちがあった以上、その15は「あってはならないもの」のように見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。つまり、その場合、“その15が残った状態”が「自分にとってのミニマリズム」ということになるのです。

従来のミニマリストは、「なんだ、15もモノがあるじゃん。1まで減らせよ」と言うかもしれないけれど、自分自身にとってそれは必要なものだからです。それがあってこそ、「自分にとってのミニマリズム」は成立するということ。

おそらく、それでいいのです。真のミニマリズムとは、なんでもかんでも捨てればいいということでは決してなく、「いまの自分に不要なものはなにか? それでも必要なものはなにか?」と考える作業であるはずだからです。

たとえば僕の場合、そう考えて残ったものは、“厳選された”本とレコードです。レコードは10年以上前、「無駄だな」と思って8000枚くらい処分したことがあったのですが、それは失敗でした。処分したあとで「やはり必要だった」と思いなおし、それからまた集め始めたからです。バカみたいな話ですが、つまり僕にとって、レコードは「必要なもの」だったわけです。捨ててみて、それがわかったのです。

とはいえ、「必要なものを最低限の状態で維持する」ことが大切だという考えに変わりはありません。そのため、どこかのタイミングで必要ないと判断した本やレコードは、迷わず処分するようにしています。単純に「本とレコードは例外」としてしまうと、そこからまた無駄なものが増えていってしまうからです。

つまり、集めているそれらは、常に処分の対象でもあるのです。そうやって無駄を省いていくことを常に考えていて、その時点で「これは不要」だと思ったら、どんどん処分していく。その一方で、「これは必要」だと思えるものがあったら、それはコレクションに加える。そうすれば、ある程度は所有物の量を一定に保つことができます。

「邪道だ」と言われるかもしれませんが、少なくとも僕にとっては、それこそが本当の意味でのミニマリズムなのです。「闇雲に減らせばいい」ということではなく、「これはどうしても必要だけど、これはいらない」というように取捨選択していく。そのほうが知的だし、それこそ真のミニマリズムなのではないかと考えるのです。

さて、最後に先ほど触れた『より少ない生き方 ものを手放して豊かになる』に話を戻しましょう。先に引用した文章のあとに、次のように書かれた部分があります。

正直なところ、私はミニマリズム自体にそれほど夢中になっているわけではない。
私が目指すのは、誰もが適正量のものを持ち、そのおかげで最高の人生を生きられるようになることだ。豊かな先進国に暮らす人の98パーセントにとっては、それはものを減らすことを意味するだろう。
そこで実際問題として、所有物を減らす方法を身につける必要がある。

ここまでに書いてきた自分の考え方と重なる部分が多いので、初めてこの文章に触れたときには大きく共感しました。重要なのは「誰もが適正量のものを持ち」という部分。それがあってこそ、真のミニマリストなのではないかと考えるわけです。

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著者

印南 敦史

作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。ウェブ媒体「ライフハッカー(日本版)」で書評欄を担当することになって以来、大量の本をすばやく読む方法を発見。以後、驚異的な読書量を実現する。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。

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