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これ、なんで劇場公開しなかったんですか? スクリプトドクターが教える未公開映画の愉しみ方
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第3回

ひとの心の内面は映画に映るのか?

2016.08.16更新

読了時間

脚本家、映画監督、スクリプトドクター(脚本のお医者さん)、心理カウンセラー等、多方面で活躍する著者初の映画コラム! 日本における数ある〈劇場未公開映画〉のなかから「これ、なんで劇場公開しなかったんですか?」と思ってしまうほど見応えのある良作を取り上げ紹介。お店ですぐにレンタルできる作品を、洋画中心にセレクトしていきます。


 今回取り上げる〈劇場未公開映画〉は、『妹の体温』というノルウェー産の文芸エロスです。

 「異父兄妹による近親相姦」が題材ということもあり、いわゆる「男性視点での性的興奮」を期待する向きもあるようですが、そういった観点で鑑賞すると、ほぼ間違いなくガッカリしますので注意してください(笑)。

 たしかに性的な場面も出てきはします。

 ですが、どのシーンも美しく儚いものが中心で、興奮するどころかむしろとても心が苦しくなるような描写ばかりです。

 というのも、この映画に於ける「近親相姦」は性的な快楽が目的で発生するものではなく、むしろ「心の時間が止まってしまった者同士」による魂の救済を求める行為そのものだからです。


 なんてことを書くと、「なぁんだ、エロくないのか……」「ていうか、なんかめんどくさそう……」と思われた方もいるかもしれませんが、『妹の体温』はそんな思いを補って余りある傑作です。逆に言うと、「うーん、近親相姦モノはちょっと……」とか「それって男にとって都合の良い〈妹萌え〉みたいなものでしょ?」と敬遠してしまった女性の方などにとっては、むしろ心に刺さる一本になるかもしれません。

 個人的には現時点で本年度ベストワン映画だと感じています。これを機にひとりでも多くの方にご覧いただけたら、と願っています。

 ではでは、あらすじを紹介しますね。


 物語は主人公である20代後半の女性・シャルロッテがカウンセリングを受けている場面から始まります。彼女がどういった理由で、またどういった経緯でカウンセリングを受けるに至ったのかは明確に描かれません。

 ただ、女性カウンセラーとの親密そうなやりとりから、シャルロッテが「これまでも複数回以上、この場を訪れている」ことは明白です。

 カウンセラーと対峙したシャルロッテは、「お母さんを罰したい?」と尋ねられ、間髪入れずにハッキリと頷きます。一方で、「誰かと親しい関係になりたいとは思わない?」と訊かれると、シャルロッテはしばし躊躇したのち、静かにそれを認めます。


 一体、この女性は何なのだろう? どんな日常を過ごしているのだろう?

 主人公の身の上を描くことで、安易に主人公と観客を同化させようとはせず、むしろ「主人公の隠された部分を今後は注視してゆくように」とセットアップされた、実に巧妙なオープニングです。


 そんなシャルロッテは、日ごろ、子ども向けのダンス教室で講師をしています。生徒の子どもたちは皆素直で可愛らしく、シャルロッテに懐き、慕ってくれています。ダンス教室の同僚・マルテとの親友関係も良好ですし、マルテの弟・ダグとは恋人関係にあります。まさに順風満帆。シャルロッテは人生を謳歌しているようにも見えます。

 実際、シャルロッテは常に笑顔を絶やさぬ社交的な女性です。誰からも好かれ、誰とでも良好な関係を築くことができそうです(少なくともそう見えます)。

 では、冒頭のカウンセリングで垣間見えたシャルロッテの「心の闇」は何だったのか……?


 ところで、シャルロッテの父親はアルコール中毒が原因の病で目下入院中です。母親のアンナはシャルロッテと交代しながらも、甲斐甲斐しく看病を続けていますが、一方で仕事をしながら大学に通い、「米国文学史のフェミニズム」を研究、博士号を取ろうとしています。

 そんな向上心が強く自立した女性でもある母・アンナに対し、口では応援していると告げながらもシャルロッテはどこか納得がいっていない様子です。

 それでも笑顔を絶やさぬシャルロッテ……。


 場面は一転、親友・マルテの結婚式へと移ります。

 マルテは自分の弟と交際しているシャルロッテを「家族の一員」として招待します。ささやかながら、多くの親族や友人に囲まれ、愛に溢れた新郎新婦の姿。そんな彼らを穏やかに見つめるシャルロッテは実に幸せそうです。

 ところが、新郎が祖母から譲り受けたというネックレスをマルテにプレゼントする様を見た途端、シャルロッテは複雑な表情を見せます。


 その顔に宿るのは「嫉妬」の感情です。

 ネックレスそのものに対するものではありません。「家族の絆」が健全に受け継がれていくマルテの「人生」に対する嫉妬です。

 やがて、マルテがふと目を離した隙に、シャルロッテはあろうことか件のネックレスをこっそりと自らの鞄に忍ばせてしまうのです。


 このように映画の前半部は、「安定しているようで、どこか不安定なシャルロッテの日常」を丁寧に積み上げていきます。


 そんなある日、ダンス教室にひとりの男性が姿を現します。

 彼の名はヘンリック。

 「どういうつもりだ? どうして俺のことを嗅ぎ回る? こないだも俺の家を外から覗いていただろう?」とヘンリックはいきなりシャルロッテを詰問してきます。動揺し、曖昧な態度でしか対応できないシャルロッテを見限るように、ヘンリックはその場を去って行きます。訝ったマルテは「あの男は何者?」と尋ねます。

「義兄よ」と応えるシャルロッテ。


 実はシャルロッテには血の繋がらない異父兄がいたのです。

 ここで観客は、この映画が始まるよりも前に、シャルロッテが異父兄であるヘンリックの元を頻繁に訪れていたことを知ります。でも、それは何故なのでしょうか? そして、何のために「声もかけず」に「こっそりと」様子を探っていたのでしょうか?

 本来であれば、「オモテ」として描かれるべきシーンを「ウラ」にしているため、観客は主人公であるシャルロッテが「まだまだ観客に対して隠し事をしていること」に不信感を抱きつつ、さらに興味を増していきます。


 この辺りの運び方は実に巧妙です。

 『妹の体温』は「主人公の外側で発生する出来事の因果関係でストーリーを展開させる」いわゆるハリウッドスタイルの作劇ではなく、「主人公の内側で発生する感情の偶然性でストーリーを展開させる」ヨーロッパスタイルの作劇法を選択しています。

 通常、そういった「主人公の内面の問題を扱うタイプの映画」は、主人公がひとりで行動を取る場面を〈事前に〉観客に見せることで、観客の感情移入を促すのが定石です。

 そうすることの利点は、観客の「主人公への信用度(言い方を変えれば、観客と主人公の共犯関係)」を高められるのがひとつ。もうひとつは、その後、主人公が様々なひとたちと接する場面が出てきたとき、主人公が説明的な台詞を口にしなくても、観客は「いま、この主人公はこのように感じているはずだ」と察することが可能になる点にあります。

 ところが、この映画はまったく逆のアプローチをとっているのです。

 つまりシャルロッテが、親友のマルテやダンス教室の子どもたち、はたまた恋人のダグには見せていない「個人としての側面(=パーソナルイメージ)」を観客にのみ見せるのではなく、シャルロッテが誰にでも見せている「社会的な側面(=パブリックイメージ)」のみを観客に見せながら、徐々に話を進めていくのです。

 観客はなかなか「シャルロッテのなか」に入ることを許されないことで、ジラされてもいきます。

 こういった作劇のアプローチは、ヨーロッパ製のアート映画ではおなじみの手法ですが、ハリウッド映画や日本のブロックバスター映画を中心に鑑賞しているひとにとっては「やや読み取りづらい表現」かもしれません。

 しかし、この映画では驚くほど繊細かつ的確な描写が続くため、主人公の感情が手に取るように分かります。

 もちろん、あまりやりすぎると観客から愛想を尽かされてしまう手法ではありますが、『妹の体温』が優れているのは「絶妙なさじ加減」で観客の好奇心をつなぎ止めている点です。

 つまりは「限界」を見極めている。


 その証拠に、物語は次なるシークエンスで大きく動き始めます。

 翌日、シャルロッテはいつも通り病院の父を見舞うのですが、母・アンナが不在のなか、父が発作を起こしてしまいます。慌てて助けようとするシャルロッテですが、麻酔で朦朧とした父は「アンナはどこだ? どうしていないんだ!」と妻を求めて泣き叫び、娘の介助を退けてしまうのです。


 傷ついたシャルロッテは義兄・ヘンリックの元を訪れます。

 それまでは遠巻きに見つめるだけだった兄の世界についに足を踏み入れるシャルロッテ。

 妻子あるヘンリックの家庭に触れながら、シャルロッテは「兄が母親に捨てられた」と感じ、長年傷ついていたことを知ります。そして義理の妹であるシャルロッテのことをひがんでいた、ということも……。

 一方で、ヘンリックも「母と暮らしてきたことで幸せに決まっている」と決めつけていた妹・シャルロッテにも深い孤独があることを知ります。

 対立関係にあり、共通項などないと思われていた兄妹は、「幼いころの家族への想いや願い」という同じ傷を抱えていたことを理解し合うのです。


 このあと、「あるエピソード」をきっかけに、シャルロッテとヘンリックの心の距離は急速に縮まります。そして、ふたりは禁断の恋愛感情を抱きはじめるのですが、ここの「距離が縮まるに至るエピソード」の描き方が絶妙なので、是非実際に映画をご覧になってみてください。

 これは、いわゆる恋愛映画に於ける「恋に落ちる瞬間」のエピソードと同義のものなのですが、実はその手のシーンを組み立てるのはとても難しいのです。

 特に今回の主人公ふたりの設定は極めて特殊な関係性なので、一歩間違うと「安易」になったり、「予定調和」に陥りがちです。

 大袈裟にならず、実にさりげない芝居の組み方で、観客はごく自然にふたりの心の変化に納得させられます。

 この辺り、監督の俳優演出が実に冴えています。


 監督はノルウェーの女性監督アンナ・セウィツキー。『妹の体温』の撮影時には36歳だったとのことなので、比較的若手といっても差し支えないでしょう。

 2010年に制作された長編第一作目の“Sykt lykkelig”は、アメリカでは“happy happy”というタイトルで公開され、Blu-ray化もされていますが、日本では公開はおろかソフト化もされていません。ぼくは輸入盤のBlu-rayで鑑賞しましたが、愛情深く主人公を描きながら、観客の知的好奇心をくすぐるなかなかの良作でした。“happy happy”はサンダンス映画祭でワールドシネマ部門のグランプリを受賞。さらにはセリビア欧州映画祭の作品賞、またノルウェーのアカデミー賞と言われるアマンダ賞で主演男優賞を受賞しています。

 その後、日本に於ける「良作北欧映画の見本市」としても知られるトーキョーノーザンライツフェスティバルの2013年版で、長編第2作目の“Jørgen + Anne = sant”が『真実の恋』という邦題で上映されたことがあります(ちなみにこの映画はアマンダ賞の最優秀編集賞を受賞しています)。

 その後、何本かの短編作品を経て2015年に長編第3作として完成したのが、今回の『妹の体温』です。

 いまのところ、日本のマスメディアで取り上げられる機会はまったくと言っていいほどない作り手ですが、アンナ・セウィツキーの名は覚えておいても決して損はないと思います。


 さて、物語は幼少時の傷を心に抱えた「兄と妹」の「止まった心の時間を動かすための恋愛模様」を映し出しながら、まずはふたりにとっての幸福な時間を、やがてふたりにとって、そして周囲にひとびとにとっても不幸な時間を描写していきます。

 そして観客は、シャルロッテが誰にでも見せていた「社会的な側面(=パブリックイメージ)」から、誰にも見せていなかった「個人としての側面(=パーソナルイメージ)」を見つめる時間が増えていることに気がつかされます。

 当初はなかなか「シャルロッテのなか」に入ることを許されなかった観客は、いつしか誰よりも「彼女のなか」に身を置いている状態に悲しみと息苦しさを覚えはじめるでしょう。


 そのことを象徴的に表すシーンが後半に出てきます。シャルロッテと義兄であるヘンリックのあいだに「ただならぬ関係性」を感じとった恋人・ダグが、シャルロッテの携帯電話を盗み見てしまう場面。

 そこには彼女が兄に向けて書いたメールの一文がありました。


 「私のなかに来て」


 異父の元に生まれたとはいえ、実の兄に対して性的なモーションをかけている、と解釈したダグは怒り狂います(無理もありません)。

 しかし、そのころには、「私のなかに来て」という文言が、セクシャルな意味だけではなく、シャルロッテの真の心の叫びであることを観客は理解しています。

 幼いころからずっと、父のことも、母のことも、親友のことも、恋人のことも、教え子である子どもたちのことも、そして、当初は観客のことも、「自らの心のなか」に踏み入れさせることを許さなかったシャルロッテが、ようやくその想いを素直に口にすることができた相手が、「同じ未精算の過去」を持つ、異父兄弟のヘンリックであったことを観客は知っているからです。

 しかし、皮肉にもこの場面にヘンリックはいません。ダグに殴打され、鼻血を出しながら泣いて詫びるシャルロッテの姿は、まるで幼子のようです。


 このエピソードを境にシャルロッテは墜ちていきます。

 観ていて辛い時間が流れていきますが、やがてシャルロッテは絶望のなかに一筋の光を発見していくのです。

 きっかけとなるのは、親友・マルテによる、「あなたは家族じゃない。赤の他人よ」という、一見すると「突き放すような台詞」なのですが、以後のシャルロッテの「選択」や「行動」がどのように変わっていくのか、またそのことでシャルロッテの「心の内面」がどのように変化・成長するのかは、是非実際に映画をご覧になってご確認ください。


 ところで、映画には「ひとの心の内面」は映らない、とよく言われます。

 たしかに「私はこう思った」「彼はこう感じていた」といった〈小説では描写可能な内心の思い〉を映画で描くことができないのは事実です。

 だからこそ、映画で人物の心理状態を描くには「行動」として「相対化」しなければならない、というのが定説となっています。

 例えば、「彼はAという行動をとるひとだから、Bという心理状態にあるのだろう」と推測したり、「多くのひとがAという行動をとるであろう場面で、Bという行動をしたことで、彼はCという心理状態にあるのかもしれない」と想像したりする。

 これが映画表現に於いて「ひとの心の内面」を描くことができる唯一の方法だとされています。


 たしかにそうなのです。

 そうなのですが、ぼくにはどうしても腑に落ちないところがあります。

 ひとの心の内面は、ほんとうに映画には映らないのでしょうか?


 ちょっと現実の場面として想像してみてください。

 もしもあなたが、大切なひと(家族、友人、恋人など)とレストランで待ち合わせて食事を始めたとします。でも、目の前の彼や彼女の様子がどこかおかしい。

 何やら悲しそうだ、と感じたとします。

 あなたと会う前に何かあったのかもしれません。とはいえ、レストランに来る前に彼や彼女にどんな出来事が起こったのかは知らないとします。しかしながら、そのひとの様子は明らかにおかしいし、やはり悲しそうにみえる。

 そして、実際そのとき、そのひとは「心の内で悲しんでいた」とします。


 こういった状況が発生したとき、「心の内面が見えない」ということにはならないはずです。

 つまり、あなたの眼というカメラには「その人の心の内面」が映っているはずなのです。

 ということは、例えば失恋した女性の役を演じている女優が「役柄の気持ち」になりきった状態のまま、「傷ついている」という思いを抱えてカメラの前に立ったとしたら、そのショットには「傷ついている」という「ひとの心の内面」が映っていることになるのではないでしょうか。

 一方で、あなたがよく知らないひとと面と向かっているとき、そのひとが「悲しい気持ち」を抱えていたとしても、よく知っているひとと向きあっているときほどには「そのひとの悲しい気持ち」を読み取れないかもしれません。


 考えられる理由は大きくふたつです。

 あなた自身がそのひとの「普段の状態」を見たことがないため比較ができない、というのがひとつ。もうひとつは、相手のひともあなたのことをよく知らないため、一定の緊張感を保ったまま接している。そのことで「親しいひとと接しているときほど」には「悲しい気持ち」が表出しにくいからです。

 つまり、自己開示をしていないひとの心は見えにくい、ということです。


 ちなみに、「私は傷ついている」「私は怒っている」などと言葉で伝えるコミュニケーション法を「バーバル(言語)・メッセージ」と呼びます。

 一方、言葉に表さずに感情を伝えることを「ノンバーバル(非言語)・メッセージ」と呼称します。

 ヨーロッパ製の人間ドラマ映画には、この手のアプローチで作られた(つまり、ノンバーバル・メッセージを重視した)作品がたくさんあります。とりわけ文芸エロスのジャンルには、多く見られる傾向があるようです。

 作り手が、観客の人生経験や知性、また観客の他者の気持ちに対する想像力を信じていないと、こういったアプローチはそもそもできません。

 そういう意味では、『妹の体温』は、我々観客を信じているが故に、作り手が自己開示した映画と言えるかもしれません。


 さて、例によって全面的に褒めるのも不自然なので、気になった点をひとつ。

 惜しむらくは二段階に組まれたラストシーンの一段目の処理の仕方です。

 父が病死し、その後約一年の時が流れたのち、新たな恋人とともに引っ越しを決めた母親を手伝っていたシャルロッテが「愛してる」と伝えるくだり。

 このシーン自体はふたりの女優の芝居が的確なので成立はしているものの、さすがにここに至るシャルロッテの感情の変化(もしくはその兆し)をも「ウラ」にしてしまったのはやりすぎだと感じました。

 せめて、その前にシャルロッテがひとりで家族写真を見つめている、などの「想いを馳せている」シーンくらいはあっても良かったのではないでしょうか?

 そうでないと母親への愛の告白は、「とってつけたような解決シーン」と解釈されかねません。ようするに、この映画が最も避けて通ってきた「安易なアプローチ」と混同されてしまう危険性があるのです。

 一方で、続く第二段階の(つまり本当の)ラストシーンの締めかたはとても素晴らしいと思います。とくに兄・ヘンリック役を演じた俳優の芝居。

 台詞はないのですが、背中の演技に「家族愛」を滲ませていて、見事です。


 最後にこの作品の英語圏での公開タイトルをお伝えします。

 『HOMESICK(ホームシック)』です。

 『妹の体温』は、近親相姦がモチーフのエロス映画ではありますが、実際にはいわゆるインナーチャイルドの主人公たちが、真の家族を求めて彷徨う物語なのです。

 パッケージやタイトルから早合点し、この傑作を見逃すことになるのは、あまりにもったいないと思います。

 お近くのビデオ屋さんで見かけたら、是非手に取ってみてください。


 では、また次回お会いしましょう。



■『妹の体温』

■原題 HOMESICK

■製作年 2015年

■製作国 ノルウェー

■上映時間 102分

■監督 アンネ・セウィツキー

■製作 シノーヴ・ホースダル

オーシルド・ランボリ

■脚本 アンネ・セウィツキー

ランヒルド・トロンヴォル

■撮影 ダニエル・ボルドハイム

■キャスト アイネ・マリー・ウィルマン

シーモン・J・ベリエル

アネッケ・ヴォン・デル・リッペ  ほか


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著者

三宅 隆太

1972年生まれ。若松プロダクション助監督を経て、フリーの撮影・照明スタッフとなり、映画、テレビドラマ等の現場に多数参加。 その後、ミュージックビデオの監督を経由し、脚本家・監督に。 日本では数少ないスクリプトドクター(脚本のお医者さん)として、ハリウッド作品を含む国内外の映画やテレビドラマの脚本開発やリライトにも多く参加している。 主な作品は、映画『劇場霊』『クロユリ団地』『七つまでは神のうち』など。テレビドラマ『劇場霊からの招待状』『クロユリ団地~序章』『世にも奇妙な物語』『時々迷々』『古代少女ドグちゃん』『女子大生会計士の事件簿』『恋する日曜日』ほか多数。著書に『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』『スクリプトドクターの脚本教室・中級篇』(ともに新書館)などがある。

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