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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第18回

「男と女」と「公と私」と

2020.02.13更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 1980年のモスクワ五輪は、前年7912月のソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカとそれに追随した日本などのボイコット問題で記憶に残るものとなりましたが、もう1つ特筆すべきことがありました。この大会を境に、(旧)ソ連の男子体操選手たちが、競技の後で選手同士で抱き合ってキスすることをやめたのです(これって、前にも書いたっけ?)。
 ソ連では当時、男同士が人前で口と口を重ねるキスは「(社会主義の?)兄弟の接吻」としてごく普通でした(社会主義になる前はどうだったのか、ご存知の方はいらっしゃいますか? 例えばドストエフスキーの時代とか、ロシアでは親愛の情を示す行為として男性同士がごく普通にキスをしていたとも言われるのですが)。世にも有名なキスは、今もベルリンの壁に残るアートの「旧ソ連のブレジネフ書記長と、旧東ドイツのホーネッカー国家評議会議長との抱擁と接吻」でしょう。これは1979年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国30周年記念式典での撮影写真が元です(もっとも、この絵柄は必ず「あり得ない!」「醜悪」というコノテーション(共示)が被さっていて、そこには男性同士のキスに対する実にホモフォビックな共感の押し付けがあるのですが、なぜかそこは「社会主義への非難」の共感に覆われて見逃されがちです)。
 ところで当時の体操ソ連のスターはアレキサンドル・ディチャーチンという(私の美化された記憶の中では)金髪碧眼の美青年で、なにせモスクワ五輪では(有力国の欠場があったにせよ)実施8種目全てでメダル獲得(個人総合などで金が3つ)という五輪史上ただ一人の記録を持つ超人でした。20歳そこそこのこの美丈夫が、競技が終わるたびに、あるいは同僚選手が競技を終えるたびに、互いに近づき抱き合ってキスをするのです。それはもう、ボーイズラブのファンが見たら惚けて失神するほどの絵面でした。
 ところがそれがなくなった。
 第二次世界大戦でアメリカの黒人兵たちが英国戦線という「他の世界」に出遭って奴隷とは違う黒人としての解放運動に気づいたように、同じく、ゲイの兵士たちが他のゲイたちに出遭って終戦後の帰還の港町にそれまでと違うゲイ地区が出来上がったように、実はオリンピックで他の世界に出遭った自国の文化が、別の視線を得て「意味」を変容させる。世界目線、というか欧米目線を知ったロシアの選手たちにとって、「兄弟のキス」の意味がとつぜん性的なものに変わってしまったのです。なので不意に世界中継のテレビから彼らの抱擁と接吻がなくなった──。
 前述した「本質主義」と「構築主義」の文脈でいえば、「黒人」も「ゲイ」も「キス」も、(我々が捉われがちな)その意味は、すべてが本質的なものだったわけではなく、それらの多くは社会的な背景によって(そのように)「構築」されたものだったわけです。
 同様のことが1988年のソウル五輪でも起きました。それまで韓国では若い男の子同士が街なかでも手を繋いで歩いていることは珍しくありませんでした。ところが韓国に世界の目が集まることで(あるいは「集まる」と意識したことで)、その風習は都市部で急速に消え去りました。男同士が手を繋ぐことに(欧米の文脈での)性的な意味が付加されてしまったわけです。
 逆に、90年代初めに私が(ソ連崩壊でバーター貿易の利益を得られなくなって経済破綻寸前の)キューバに取材に行った時には、ハバナの空港を出てすぐにいろんな男性と目が会うたびにウィンクされて「ん?」という気分になりました。それが会釈代わりだと気づくまでに半日ほどかかりましたが、北アフリカや中近東ではいまでも男同士が手を繋いで仲良く歩いているのが普通の場合が多い。出会った時と別れる時も普通に頬にキスし合います。一方で、男女が手を繋いだり握手したりキスしたりするのは、そうしたイスラム教国では世俗化した国でない限り今も大変なタブーであり、犯罪ですらあります。
その延長線上には、そのような不徳不倫で一族の名誉を汚したとして家族の男が娘や妻を殺す「名誉殺人」と呼ばれる行為までが存在します。

 ところで、いま記述したことは「女性間」にはあまり起きていません。女性たちはいまも街なかで堂々と手を繋ぎ合い、ハグをし合い、キスをしたってそんなに驚きをもって見られることはない。これはどういうことなのでしょう?
 これを「女性の性は流動的」(性的流動性 sexual fluidity)という形で説明することがあります。それはちょうど男性でも10代には性的対象が流動的で……云々、という謂いにも似て、なかなか科学的検証が難しいのですが、しばしば一般的に言われる「性的指向 sexual orientation は変化することがなく、さらに選択できるものでもない」という概念と対立するものとして色々と議論されています。

 手元に、英テレグラフ紙が2015年11月に伝えたエセックス大学心理学部の研究があります。

https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/11977121/Women-are-either-bisexual-or-gay-but-never-straight.html
 とても興味深い記事です。短いので訳しましょうか。

【見出し】
Women are either bisexual or gay but ‘never straight’
女性は両性愛か同性愛であって、異性愛であることはない

【リード】
A study has found that most women who say they are straight are in fact aroused by videos of both naked men and naked women
自分が異性愛者だという女性たちの大半が、実際には裸の男性、裸の女性、両方のビデオに性的に興奮することが研究でわかった

【本文】
Most women are either bisexual or gay but “never straight”, a study suggests.
ほとんどの女性はバイセクシュアルかホモセクシュアル(ゲイ)であって「ヘテロセクシュアル(ストレート)であることはない」ということが研究で提示された。

Research has found that though lesbians are much more attracted to the female form, most women who say they are straight are in fact aroused by videos of both naked men and naked women.
研究で分かったのは、レズビアンは女性の外観にかなりはるかに魅力を感じるのだが、自分はストレートだという女性の多くが事実、裸の男性および裸の女性の両方のビデオに性的興奮を覚えるということだった。

The study, led by Dr Gerulf Rieger from the Department of Psychology at the University of Essex, involved 345 women whose responses to being shown videos of naked men and women were analysed.
この研究はエセックス大学心理学部の Gerulf Rieger(ジェラルフ・リーガー?)博士の指導で、345人の女性が男女の裸体のビデオを見せられてどう反応するかを分析した。

The results, which were based on elements such as whether their pupils dilated in response to sexual stimuli, showed that 82% of the women tested were aroused by both sexes.
結果は、性的刺激に反応して瞳孔が開くかどうかなどの要素を基にして、被験女性の82%が両性に性的興奮を見せたというものだった。

Meanwhile of the women who identified as straight, 74% were strongly sexually aroused by videos of both attractive men and attractive women.
一方で自分をストレートだとする女性たちに限ればその74%が魅力的男性、魅力的女性の双方のビデオに強く性的興奮を覚えた。

This was in contrast to lesbians, who showed much stronger sexual responses to women than to men.
このことは、男性よりも女性にはるかに強い性的興奮を見せたレズビアンの反応とは対照的である。

The researchers said lesbians were the most like men in their responses because it is usually men who show distinct sexual responses to their favourite sex.
研究者たちによれば、レズビアンたちはその反応としては最も男性たちに近いと言う。なぜなら自分の好みの性別に著しい性的反応を見せるのは通常は男性だからだ。

Dr Rieger said: “Even though the majority of women identify as straight, our research clearly demonstrates that when it comes to what turns them on, they are either bisexual or gay, but never straight.”
Rieger博士は「女性の多くは自分をストレートだと考えているが、私たちの研究によれば何が彼女たちに性的興奮をもたらすかという点では、彼女たちはバイセクシュアルかゲイであって、ストレートでは全くない」と話す。

Dr Rieger also said his study showed that lesbians who may dress in a more masculine way may not have more masculine behaviours.
Rieger博士はまた、より男性的な服装をするレズビアンたちがより男性的な振る舞いをするとは限らないということも研究で分かったとしている。

“Although some lesbians were more masculine in their sexual arousal, and others were more masculine in their behaviours, there was no indication that these were the same women,” he said.
「性的興奮においてより男性の反応に近いレズビアンがいる。振る舞いにおいてより男性的なレズビアンもいる。しかしそれが必ずしも同じ人物であるというわけでもない」と博士は言う。

“This shows us that how women appear in public does not mean that we know anything about their sexual role preferences.”
「これが教えることは、女性たちが人前でどう見えるかは、それによって彼女たちの性的役割の嗜好について私たちが何らかを知り得るということではない」


***
 女性の性的流動性というより、女性がパンセクシュアル(汎性的、全性的)ということを言っているような研究、つまり女性はもともと男女どちらにも惹かれるのだ、という結論でした。それに、「流動的」と言うにしても、これは一度に同時にいろんなジェンダーやセックスの人たちを愛するわけではありませんから(まあ、そういう人もいることはいるでしょうが)、その時々であちらに振れる、こちらに振れる、ということで、時間軸を引いてみれば「流動的」はそもそも「汎性的」という在り方を土台にしているその時々の表現形なのかもしれません。
 それよりもう一点、どうして女性たちがこうも「汎性的」なのかということ、いや、「汎性的」であることをときに隠さず表現し得るのか(腕を繋いだり肩を寄せ合ったり一緒に布団に入ったり)ということを考えると、私は男女の肉体的、物理的なシステムの違い、つまりは「本質的」な違いというだけでなく、「構築的」な違い、つまり彼女たちを取り巻く社会文化的な違いももちろん影響していると感じています。

 ゲイ男性が主要な人物として登場するTVドラマや映画や小説にはほぼ必ずと言っていいほどその彼の苦悩に付き合う良き理解者(あるいはただの愚痴相手?)のような女性がカップリングされています。これもまた(「主役はいつも男性」という性差別的ビジネスモデルと合わせて)ステレオタイプになってしまっているほどなのですが、性的少数者たちへの支持・支援が多く女性たちから湧き起こるのもまた、前述の「汎性的」な表現に躊躇が薄いことと無関係とは思えません。

 この表現の自由さはどこから来るのか? もちろん思いやりや庇護心や共感性の高さといった、いわゆる「母性」的とされるものに原因を求める説明はさまざまにあります。一方で女性たちの、その種の従来の「タブー」に対する社会的制約のなさ、社会的規範性に対する紐帯の緩さにも関係があるようにも思われるのです。
 思えば女性たちは常にそういう社会的規範性から除外、疎外されてきました。男性間の同性愛を犯罪化した多くの国と文化でも、女性の同性愛は見逃されていました。例えば17世紀から19世紀にかけてのイングランドでは「異常性交」が死刑の適応対象になりました。当時の「異常性交」とは同性間性交だけでなく、とにかく「生殖」に関係のない性行為、例えば口唇性交や肛門性交ばかりか、避妊や中絶も含まれた広い概念でした。こうした非生殖性交への風当たりは19世紀後半の都市部の興行化によってさらに強まります。
 労働は家庭を基盤にしたものから工場を基盤にしたものに変わり、男性と女性の社会的役割もより明確に分化していきます。科学の分野では腹部外科手術の進歩が女性の受胎システムの解明にも及び、生理学的にも心理学的にも、セクシュアリティの概念に変化が訪れます。ダーウィンの進化論(『種の起源』は1859年11月24日に出版されました)の影響もあったでしょう、工業化に伴う中産階級の出産率低下は「人種的自殺行為」とみなされ、ひいては大英帝国の没落につながると危惧されました。その中で「異常性交」は家庭と社会に対する脅威として認知され始めます。そんな中で女性たちは「産む機械」になって「家」の中へと閉じ込められてゆくわけです。
 1985年、「異常性交」に関する刑法から同性愛の条文規定が独立します。上流階級の男性による若い男娼売春が横行していたことを背景に、いわゆる「ラブーシェール・アメンダメント Labouchère Amendment」と言われる修正条項を挿入したのです。これによって同性間の性行為は公衆の面前ではもちろんプライヴェートな場所においてすらすべて違法とされました。この悪名高い修正刑法は英国社会に密告や脅迫を蔓延させます。オスカー・ワイルドがアルフレッド・ダグラス卿とのわいせつ行為で裁判にかけられた(1895年)のもこの修正刑法が基でした。この刑法が廃止されたのは20世紀も後半に入った1967年のことでした。
 しかしこの間の「同性愛」は、法的にも研究対象としても男性同性愛のことでした。レズビアンは社会的にもほぼ議論にすらされませんでした。この時代のフェミニストたちの重要課題も売春と性病と婦人参政権(20世紀初頭にかけての「サフラジェット」の運動はすでに紹介しました)であって、同性愛は「ブルジョワの頽廃趣味」程度にしか認識されていませんでした。

 まあ、犯罪化されていないんだからラッキーという考え方もあるでしょうが、しかしそれはまた、女性たちの社会的な不在をも意味していたわけです。彼女たちは、社会にではなく「家」の中にしか存在していなかった。あるいは、罪を犯す(資格がある)のは社会の主体としての男性であって、彼の「家」の中の、彼の付随物でしかない女性ではないわけで、そんなプライヴェートな存在たる女性たちが、パブリックの場での責任たる罪まで問われたりしたらあまりにも可哀想じゃないか──というわけです。
 こういう「有難迷惑」というか、「痛し痒し」というか、労ってるつもりでその実、土間しか与えてない(それでも屋根があるから幸せだろう)的な言説はいまも蔓延っています。
 こういうの、どこから始まっているのかというと、少なくとも言説上では「一番古い」級にある「聖書」からしてそうなんですね。「聖書」って(そもそもイエス・キリストと12人の男だけのロードムービーというかロードストーリーなわけで、まるでホモソシアルな)ほとんど男の物語なのです。
 旧約聖書には、女性はそれこそ重要人物であるイヴ(エヴァ)から始まって30人ほど出てくるんですが、新約聖書になるとわずか13人しか登場しません(これ、私がざっと数えただけで正確には数字、間違っているかもしれませんが、少ないことは少ない)。しかも「私調べ」のその13人の中の5人までが、名前をマリアというんです。聖母マリアでしょ、マグダラのマリアでしょ、ただのマリアでしょ、等々。さらに、名前すらない女性は3人いる。手紙の中でやっとその存在が語られる女性が2人。結局、総登場人物数は200人を超える壮大な物語の中で、女性はそんだけしかいない。あとはぜーんぶ男。
 以前に、歴史の主語が「(白人の、異性愛の)男性だった」と書きましたが、もちろんこれは聖書の時代では白人というのではなくユダヤ人やアラブ人やあそこらへんの男性でした。それがどんどん文明の趨勢が西欧に移るにつれていわゆるコケイジャン(コーカサス系)の白人男性に変遷していきます。いずれにしても女性たちはハナから蚊帳の外だったわけです。

 女性たちは社会性を与えられなかった。女性たちは私的領域でしか生きられなかった。女性たちは公に発言することを許されなかった──大雑把ながらそう総括すると、彼女たちがひとたび自分たちの「非社会性」に気づいたときに、それが一気に「社会性」にジャンプするのもわかるような気がします。その意味で、「個人的なことは政治的なこと」といったモットーがフェミニズムから出てきたことは至極当然だったのでしょうし、黒人解放運動の1つのエポックが、アラバマ州モンゴメリーでのローザ・パークスの行動だったことも頷けます。さらにいえば、あのストーンウォールの暴動の担い手が、「社会性」から最も遠いところに排除されていたドラァグクイーンやレズビアンたちが中心だったことも。
 いったん「社会」に気づいたら、女たちはラディカルになるしかなかった。では男たちはどうだったかというと、彼らは「私」と「公」の2つをハナから手にしていました。「公」の領域で困ったら「私」の領域に、「私」の領域で不利になりそうだったら「公」の領域に逃げ込むことが可能だったわけです。で、中途半端に自分をごまかすことができた。「生きるってそういうことだよ」「大人になるってのは我慢を憶えることだ」「それが人生さ」と嘯きながら。
 前々回で紹介した『LGBTヒストリーブック』に、ストーンウォールの暴動を遠目に眺めていたアイヴィー・リーグ出身の裕福なゲイ男性が「せっかく隠れて生きているのに!」と激怒したというシーンがあります(P77)。「全てうまくいっていたじゃないか。自分たちのバーもあるし、自分たちのビーチも、自分たちのレストランもある。それをあのオンナども(girls)が全部ぶち壊した」
 そう、「オンナども」です。裕福な彼はどこかの立派な企業か事務所勤めか、いずれにしても立派な「公」の顔を持っていて、同時に、「ゲイな私」の心地よい場所も手にしていたのでしょう。それを往ったり来たりしながら上手に生きてきた。そして結局、「公」も「私」も曖昧に処理されるのです。

 社会の変革は、女でも男でも構わないのですが、そういう「社会ってもんが何であるかよくわかってない」連中、先の謂いを借りれば「あのヒステリックなオンナども」がきっかけになる。「社会」を知っている「ワケ知り顔のオトナたち」には無理なんでしょうね。というか、変革の必要性を、そういう人たちは無視しているか感じないか知らないのでしょう。それは保守なのか慎重なのか怠慢なのか──。
 ところで、いつまで経っても「公」の領域に踏み込もうとしない集団もまた存在します。第11回のこの連載で、日本(東京)では、「公」の空間に「人」がいないと指摘しました。いるのは「ジャガイモ」で、だから「人」を「人」とも思わない。
 そんな社会では、そんな冷たさを補正・補修するように「私」の領域が起動します。「公」での悪意(あるいは善意の不在)は、「私」の空間での個々の善意が補填するのです。

 日本映画とアメリカ映画を比較して、常々感じるのがそのことでした。TVドラマでもいいのですが、日本ではほとんど民事訴訟や行政訴訟の物語がありません。裁判モノはほぼ刑事事件です。「私」が「公」を相手にモノ申す、あるいは戦う、ということがない。一方でアメリカ映画はアメリカ社会を反映してかなりその手のドラマが多いのです。
 人権問題では、エイズ禍を扱った有名な『フィラデルフィア1993年)が、罹患した主役(トム・ハンクス)に対する差別裁判を描いています。環境問題ではジュリア・ロバーツがオスカーを獲った地下水汚染告発の『エリン・ブロコビッチ』(2000年)や、シェールガス開発の裏面を描いたマット・デイモン主演の『プロミスト・ランド』(2012年)がありますし、戦争や権力の非道を告発したものは枚挙にいとまがありません。5年前にオスカー作品賞、脚本賞を獲った『スポットライト』(2015年)は、カトリック教会による幼児虐待問題を真正面から追及するボストングローブの記者たちの奮闘を描きましたし、今年のオスカーでメイキャップ賞などを獲った『スキャンダル2019年)は、Foxニュースでの女性キャスターへの性的虐待を描く中で民事訴訟を重要な土台にしています。
 日本映画でそうしたものがすぐに思い出されないのは、私の勉強不足かもしれませんが、少なくとも大きな話題作がそうは生まれていないからではないかと思います。その代わり、日本映画はしみじみと、しっとりと、淡々と、「私」の世界を描きます。
 そのような映画を先日観てきました。今泉力哉監督、宮沢氷魚主演の『his』です。出会いから13年間の2人の青年の同性愛関係を描いた映画です。これがとてもよかった。そして、これがとても重要な問題を浮き彫りにしてもいました。

 次回はこの映画から再び日本の「公」と「私」のことを考えます。
(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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