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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第22回

アイデンティティの略奪

2020.04.20更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
「目次」はこちら

 世界中が新型コロナウイルスで大混乱に陥っています。前々回のコラムで紹介した、NBAで初めて現役選手としてカムアウトしたゲイの元バスケットスター、ジェイソン・コリンズ(41)もそのパートナーともどもコロナに感染したそうです。3月末のニュースで、その後、続報はありませんから経過は大丈夫だったようですが。
 前回のコラムの最後に、
日本でこの7〜8月に久々に上演される予定の(新型コロナの影響で、この「予定」はどうなるか予断を許しませんが)『ボーイズ・イン・ザ・バンド〜真夜中のパーティー』について紹介しました。
 この演劇のウェブサイトには「ゲイの友人たちによる一夜の誕生パーティーでの出来事を通して、LGBTの人々を取り巻く社会の現実や、それぞれのアイデンティティ、愛憎などを真正面から描く会話劇。51年前の初演以来、演劇界のみならず社会にも大変な衝撃を与え続けるLGBT戯曲の最高傑作とも評される本作に、ぜひご期待ください」と(今も修正されることなく)記載されています
 ところがこの作品は「LGBTの人々を取り巻く社会の現実や、それぞれのアイデンティティ、愛憎などを真正面から描く」のではありません。ここにはレズビアンもトランスジェンダーも誰1人として登場してはいない。これは「ゲイの人々」のことを描いたものです。もしその形容が正しいならば、「LGBT戯曲の最高傑作」ではなく「ゲイ戯曲の最高傑作」です。

 そのことをもう一度考えましょう。商業的に、”一般”的な潜在顧客層をむやみに刺激しないようにと、「ゲイ」という言葉を避ける傾向が日本ばかりか世界的に映画界、演劇界にはあることを、私はこの連載の初回「プロローグ」で指摘しました。むしろそのことを起動力としてこの連載を書き始めたと言ってもいい。
 当時大流行していたクイーンの伝記的映画『ボヘミアン・ラプソディ』を引き合いに出し、私はこう書いています。

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実はこの『ボヘミアン・ラプソディ』の公開に先立ち、配給の20世紀フォックスは「フレディ・マーキュリー」がヘテロセクシュアルのように見える(女性といちゃつくシーンはあるがゲイのシーンはない)予告編第一号を作り、かつその映画サイトではフレディの病名をエイズではなく「命を脅かす病(a life-threatening illness)」としか記述していませんでした。実際の映画の編集では「ゲイ」のサインがのっけから散りばめられていましたし、エイズであることも正面から取り上げられていたのですが、結果、配給会社のそのような腰砕けの姿勢を知ったプロデューサーのブライアン・フラーやメディアがこの広告戦略に厳しい批判を展開し、逆にそれがSNS上で話題を呼びもしたのです。

そういうことはこれまでもよくありました。ゲイやエイズを「面倒くさい」とするだろう「世間」の推定反応を背景に、それらを(その種の話なら見に行かないという)マーケティング上のリスクとして排除・消去する行いを「De-Gay(脱ゲイ化=ゲイ的要素を消し去る)」、あるいは「straight-washing(異性愛洗浄=異性愛の振りで洗い覆うこと)」と呼びます。ここでは同時に「De-AIDS(脱エイズ化)」も。それは頻繁に行われてきました。なにせこの「商品」のメインの標的顧客層は、ゲイにもエイズにも無関係な(と思われている)圧倒的多数層だからです。
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 さてその「脱ゲイ」化は最近、あからさまな「脱」を避けるために、「ゲイ」を「LGBT」に置き換えるという作業に変わってきているようです。
「プロローグ」を書いた昨年1月の時点では、これは単に言葉の誤用、取り違えだと思っていました。何度もあちこちで書いたり喋ったりしているように、「LGBT」(あるいは「LGBTQ+」)とは性的少数者の単なる総称ではなく、LとGとBとTの個々のカテゴリーの列挙なわけで、ある個人がその全部であることはできません(トランスジェンダーでかつレズビアン、あるいはゲイ、あるいはバイセクシュアルということはあり得ますが)。ですから、ある戯曲を「LGBT戯曲」と書くときには「LとGとBとTが登場する、あるいはその各カテゴリー全てをテーマにした戯曲である」ということです。
 私はそれを、これまでは単純に無知が故に取り違えているのだと解釈(斟酌)してきました。つまりベン図でいえば、「ゲイ戯曲」は「LGBT戯曲」ではあるが、「LGBT戯曲」は「ゲイ戯曲」ではないという集合概念を取り違えて、「ゲイ戯曲」⇄「LGBT戯曲」と深く考えることなく信じている、と。そういうことは確かに今も多いでしょう。
 ところが、ふと疑念が湧いてきています。ある人たちは、あるいはある宣伝広報担当者たちは、「ゲイ」とか「レズビアン」とかの言葉を使うとなおも生々しいから、それを主流メディアも使うようになった「LGBT」という(学術用語のごとき、社会的認知の広まった)言葉に置き換えて使おうということにしているのではないか? つまり、明らかな「ゲイ / レズビアン映画」「ゲイ / レズビアン小説」「ゲイ / レズビアン戯曲」を、これまでは「普遍的な愛の物語」と言い換えることで「脱ゲイ / 脱レズビアン」化していたのに対して、現在はより巧妙にそれらを「LGBT映画」「LGBT小説」「LGBT戯曲」と呼び做すようにしているのではないか、ということです。それがより新しい形の、より無難な「脱ゲイ」化なんじゃないか、ということです。

 いやはや、手を替え品を替え、物事の本質を避けてとにかく今だけ上手く乗り越えられたらというこの種の姑息さ、狡猾さと言ったら。(ここら辺で、もうすでに気づいてしまった方もいるかもしれませんが、その点に関してはもうちょっとお待ちください。後ほどそこに行きますのでw)

 これらの言説への違和感を、どう言ったらよいのでしょう──簡潔に言うと、「略奪された」感なのです。従来の「普遍的な愛の物語」への言い換えは、自分たちの「ゲイの物語」を、勝手に「みんなの物語」にされた感じ。「LGBTの物語」への言い換えは、LGBTのことを何もわかっていないくせに「LGBT」なんて軽々に使ってほしくない、という感じ。当事者でもない連中が、当事者づらするなという感じ。しかもそういう連中に限って訳知り顔のアライ
(ally=盟友)みたいなフリをする、ってな感じ。つまり、自分にとって大切な(と思っている)アイデンティティを、勝手に略奪された感じ、なのです。
 と書きながら、そのことを最初に意識したのは日テレ系列で2007年から始まった『秘密のケンミンSHOW』のオープニング・コールだったことを思い出しました。久しぶりに帰国した日本のテレビで、たまたま見た番組の司会者が、オープニングで「エブリ県民、カミングアウト!」とカメラに向かって決め言葉を唱えたとき、私は「カミングアウト」という言葉が、これほど朗々と消費されている日本社会にゾッとしたものです。何なんだ、こいつらは、というような。
 そのとき、どこの媒体か忘れましたが、私はカミングアウトという言葉の重みについて次のような説明をしたはずです。

「カミングアウトとは、誰にも言えない暗く孤独なクローゼットの闇の中から、勇気を振り絞って体ごとその外に出てゆくことです。洞窟や檻にも喩えられる押入れの中から、光溢れる外気の中へと人間存在の全部を踏み出してゆくことです。他の人が知らなかったことを、何か秘密めかして面白おかしく吹聴したり披露することではありません。人によっては自殺にも繋がりかねない、重大な覚悟のことなのです」

 今の「LGBT」の時代からするといささか大げさにも響く言葉の羅列ですが、カミングアウトとは、まあ、そんな感じなのです。しかしみのもんたの口にする「カミングアウト」という言葉からは、完璧に「ゲイ」という要素が漂白されて、全く違うものとして使用されてしまっていました。それはまさに「略奪されてしまった」という感じだったのです。
 この「略奪感」を理解する人は、そうか、だから白人が黒塗りの顔で面白おかしく黒人を演じるミンストレル・ショーは禁じられているんだな、と気づくはずです。ブロードウェイの『ミス・サイゴン』で、白人俳優がアジア人役を演じたことがどうして批判の的になったのかもわかるはずです。黒人たちから、アジア人たちから、全く関係のない白人たちが、多数派であることをかさにきて、その重要な存在理由を奪い取りおもちゃにした……感。
 第12回の「アイデンティティの政治」の項で、私はマジョリティとマイノリティの関係を、歴史の記述における「主語」と「目的語」の関係に置き換えて、「目的語」からの解放がマイノリティの人権運動の基盤だと書きました。そしてそれは「主語」(マジョリティ)の解放につながり、マジョリティとマイノリティが入れ替え可能な存在になる対等性の運動であることも指摘しました。それこそが私の夢見る場所への道筋です。
 第10回のコラムでは、「ゲイ」に対する俳優マット・デイモン、パトリック・スチュアートの真摯な向き合い方を紹介しました。そしてここでまた1人、紹介したい俳優がいます。
 4月6日の「アナザー・マン Another Man」誌のカヴァーストーリーで、ジェイク・ジレンホール Jake Gyllenhaal (飯田橋ギンレイホールじゃあるまいし、彼の名前は日本の映画記事が書く「ギレンホール」じゃありません)の長文インタビュー記事が載っていました。
 その中の最後のところで、ここでも何度か触れている2005年のオスカー映画『ブロークバック・マウンテン』での共演者ヒース・レッジャー Heath Ledger について語っている部分があります。抜粋しましょう。


Just before he leaves, we talk about a key moment in his past, Ang Lee’s Brokeback Mountain (2005), in which he appeared alongside Heath Ledger. Gyllenhaal told me ten years ago that he couldn’t watch it, and I ask whether that’s still the case. He says it is. He talks – then and now – about the film as though it was something he was fully committed to but which nonetheless in some ways existed beyond his control and understanding. “There are things you’re chosen for – a quality, an essence – and Ang did that. And it’s still a mystery to me. And something that Heath and I shared: that it was a mystery to us at the time.”
インタビューを終える直前に、過去の重要な瞬間、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン』のことを話した。彼はこの映画でヒース・レッジャーと共演している。10年前、ジレンホールはこの映画を観られないと私に言っていた。今もそうかと私は訊いてみた。そうだと彼は言った。この映画は自分が全身で打ち込んだ作品だけれど、あの時も今も、どういうわけかこれは自分のコントロールや理解を超えて存在しているんだ、と。「自分が(配役で)選ばれるにはなんらかの理由があって、性格とか本質とか、アンはそれで選んだ。でもそれがぼくにはいまも謎で。そのわからなさはヒースも同じだった。なぜ選ばれたのか、当時のぼくらにはミステリーだった」

I mention to Gyllenhaal that when I recently watched back old TV interviews from the time, I was jolted by how homophobic a lot of the banter seems, even when it was intending to be the opposite: gay cowboys, it’s all a tremendous joke. This reminds him of something.
私は、あの当時の古いTVインタビューを最近いくつか見返してみたことをジレンホールに話した。そしてそれらの多くが、たとえそのつもりじゃなくともいかにホモフォビックに見えたか、ということを。「ゲイのカウボーイたち」、それ自体がとんでもないジョークなのだ。そう言うと彼は何かを思い出したようだった。

“I mean, I remember they wanted to do an opening for the Academy Awards that year that was sort of joking about it,” he says. “And Heath refused. I was sort of at the time, ‘Oh, okay… whatever.’ I’m always like: it’s all in good fun. And Heath said, ‘It’s not a joke to me – I don’t want to make any jokes about it.’” I say how smart of Ledger that seems, in retrospect. “Absolutely,” says Gyllenhaal.
「というか、あの年、アカデミー賞の授賞式のオープニングでね、何かやってほしいという話になって、つまりあの映画をジョークみたいにして」と彼は言った。「そしたらヒースは断ったんだ。ぼくはその時、まあ『ああ、いいよ……どっちでも』ってな感じで言って、いつもそうなんだけど、ふざけてさ。でもヒースが言ったんだ、『おれにはあれはジョークじゃない──あの映画でどんなジョークもおれは言いたくない』って」。レッジャーって、今から思うとなんてすごいんだと私は言った。ジレンホールも「本当に」と言った。


 昨年の米NBCのトーク番組「Today」でもジレンホールはヒース・レッジャーの思い出を語り、『ブロークバック』に関して誰かがホモフォビックなジョークを言うたびに彼はそれを咎めていたと話していました。

 “I see people who have joked with me or criticized me about lines I say in that movie—and that’s the thing I loved about Heath. He would never joke. Someone wanted to make a joke about the story or whatever, he was like, ‘No. This is about love.’ Like, that’s it, man. Like, no.’”
(あの映画のセリフでぼくにふざけたりぼくを批判したりする人がいたけど──ここがぼくがヒースを好きな理由なんだけど、彼は絶対にジョークを言わなかったんだ。あの映画でジョークを言おうとするやつには、彼は必ず『違う、これは愛の物語だ』とか『それだけだ』とか、『ノー』ってな感じでさ)


 ヒース・レッジャーは(おそらくは)ストレートの男性でした。異性愛者の男性が、同性愛者(あの映画ではバイセクシュアルと定義してもよいのでしょうが、描かれたのはその役の同性愛の部分でした)の男性を演じる時、それは白人が黒人を演じるような、白人がアジア人を演じるような、「略奪感」を与えるのではないか?
 結論を言えば、私はそれを感じませんでした。役に対するその真摯な向き合い方が、「役」を通して、あるいは「役」を超えて、ヒース・レッジャーという人間自身の、「マジョリティとマイノリティが入れ替え可能な存在になる対等性」を具現していると思えたのです。同性愛者と異性愛者は、彼の中で入れ替え可能なほどに対等になっていました。これ以外に、そしてこれ以上に、他の人格の世界と俳優個人の世界とが平等になる方法を私は想像できない。それを「演技」というなら、演技を通じてもまた人間はそこに、私の夢見る場所にたどり着けるのでしょう。
『ブロークバック・マウンテン』は「秘密のケンミンSHOW」が開始される、その2年も前の作品でした。「エブリ県民、カミングアウト!」というオープニング・コールを考え出した放送作家かプロデューサーか、何れにしてもその人物は、ヒース・レッジャーのあの演技など観てはいなかったのだろうと思います。

ちなみにこの映画の公開当時、私は『yes』というゲイ雑誌(廃刊)に映画評を寄稿しました。ここに再録しておきます。例によってネタバレを含みますが、この映画はネタがばれたところで観る価値は大いにあるでしょう。
 タイトルは『ブロークバック山の案内図』」。
 主役の「エニス・デル・マー Ennis Del Mar」を故ヒース・レッジャーが、相手役の「ジャック・トゥイスト Jack Twist」をジェイク・ジレンホールが演じました。2人ともオスカーにノミネートされましたが受賞を逃しています。その代わりヒースは、2008年公開のバットマン映画『ダークナイト The Dark Knight』のジョーカー役で(死後に)助演男優賞を獲っています。鬼気迫る、というのは彼のジョーカーの演技のことを言うのでしょう。

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クローゼットに迷い込まないための
「ブロークバック山の案内図」

「愛とは自然の力」の二重の意味

 朝ぼらけのワイオミングの山あいの道路をトラックが行き、グスタボ・サンタオラヤのスチール弦が冷気を貫き、エニス・デル・マーが美しい八頭身でトラックから静かに降り立ったとき、その歓喜と悲劇の物語はすでにそこにすべてが表現されていた。歓喜は遠い山に、悲劇は降り立った地面と地続きの日常に、そうしてすべての原因は不安げに結ばれるエニスの唇と、彼を包む青白い冷気とに。

Love is a Force of Nature」というのがこの物語の映画版のコピーだ。「愛とは自然の力」。a force of nature は抗し難い力、有無をいわせずすべてを押し流してしまうような圧倒的な力のことだ。「愛とはそんなにも自然で強力な生の奔流。だからそれに異を唱えることはむなしい」──そのメッセージ。

 しかしここにはもう1つの意味が隠されてある。この「ブロークバック・マウンテン」で中心を成す「愛」は、いつも山や川や湖といった「自然」の中で生きていた。その事実。「愛とは、自然の形作ってくれた力」。あのはるかなブロークバック・マウンテンが彼らに与えてくれた力なのだ。そしてじつは、彼らの愛は、その自然の助けなしには生きられなかったのである。

 このコピーの二重性は象徴的である。しかも原作のアニー・プルー、脚本のラリー・マクマートリーとダイアナ・オサナ、そして監督のアン・リーの意図はあからさまなほどに共謀的で明確だ。

 エニス・デル・マーとジャック・トゥイストの愛の交歓はほとんど(4年ぶりのやむにやまれぬモテルの一夜を除いて)美しく瑞々しい山々と木々に囲まれ、抗い難い川の水の流れをまえに営まれる。対して彼らの日常は、埃舞う乾燥しきった下界での出来事だ。エニスにとっては無教養で小心で疲れ切ったアルマと泣きわめく赤ん坊たち、そしてうまくいかない仕事。ジャックにとっては15歳になっても字も書けない学習障害を持つ息子(原作)やしゃしゃり出る義理の父親。出逢いではあれほどかわいかったルリーンがすぐに逆毛を立てた酸素漂白ブロンドのタバコぷかぷかテキサス女に変身してしまうげんなりさ加減。しかも老いた実の両親のいる実家のひからび具合といったら!

混乱とすり替えを総動員させる確信犯

 私たちはすでにここで、そうした日常への嫌悪の反作用として同性愛と共示される「瑞々しさ」「美しさ」に抗い難く誘われてゆくのである。読者が/観客が同性愛者か否かの問題を超えて、埃っぽさやオムツの臭いや夫婦の諍いといった機能不全の乾いた生活を選ぶか、すべての煩わしさを脱ぎ捨て裸でジャンプしてゆくあの澄んだ水を選ぶかという問題(そりゃだれだって後者を選びたくなるでしょう)。

 読者/観客はこうして軽く混乱させられる。なぜならこれまで、異性愛の読者/観客の大半にとって同性愛とはむしろ荒涼たる性の砂漠のことだったはずだから。同性愛が「生活」を離れたものであることは思い描かれ得たが、それは「瑞々しい自然」へと向かうのではなく、「飽くなき放逸」へ「薄汚れた地獄」へと堕ちるものだったからである。

 この小説/映画が「ゲイのステレオタイプを打破」したといわれる所以の1つはそこにある。たとえ男らしいゲイを出してきても「ゲイ」を描くだけでは固定観念を破ることはじつは難しい。アン・リーたち制作陣はだから、「自然の力」まで総動員させてその共示性と価値観とのすり替えを謀ったのである。

 観客はここで、自分が同性愛を求めているのか瑞々しく美しい自然を求めているのか、あるいはその両方を求めているのか(そういえば自分もかつて昔、どこか忘れてしまったはるか遠くに、こんな疼くような甘酸っぱい季節を置き去りにしてきたのではなかったか?)、それらを解決する余裕なく(あるいはその軽い混乱を楽しみすらしながら!)ストーリーにはまり込んでゆくのだ。

 映画は「これはゲイのカウボーイの話ではない。もっと普遍的な愛の物語だ」と宣伝されるが、これが「ゲイ」をプロモートしていないならば何だというのか。いやそれはしかし、右派の文脈での物言いである。これは「プロモート」ではない。これはむしろ、汚名の返上なのである。「同性愛」というものに塗りたくられた歴史的文化的宗教的なスティグマを熨斗【@のし】を付けてお返しする、これはじつは頬かむりした確信犯の仕業なのである。

すべての背景にクローゼットの罪業

 ところが、ここまで来て私たちはその「美しく」「瑞々しい」はずのホモセクシュアリティが大きなしっぺ返しを孕んでいることに気づくのだ。ジャックがタイヤレバー(タイヤのゴムを外すための鉄棒)で殺されたのかどうかというホモフォビアとゲイバッシングの問題だけではなく(ちなみに、この原作も映画も語り尽くさないことが多い。あたかもそれは私たちの現実生活で、事実がすべて私たちに語られ知られ得るものではないのと同じように。私たちはかなりの部分を事実ではなく解釈によって生きているのだ)。

 それは家族の問題である。制度としてではなく関係性としての。

 エニスはアルマに離婚を告げられる。ジャックの息子のことなどどこかに忘れられる。そうして2人が望んだはずの男同士の家族としての暮らしも、エニスの語った9歳のころの記憶、男2人で暮らしていてタイヤレバーで虐殺されたアールという男の話でもって端から雁字搦めにされ動き出すことさえかなわなかった。

 そのすべての背景に(同性愛者としての自分を隠匿している/隠匿せざるを得なかった、仮想の場所としての)クローゼットの問題がある。小説も映画も後半に向かって、テーマを密やかに同性愛からクローゼットの問題へと移行させてゆくのである。

 エニスの泣き方はまさにその伏線だ。彼の心はクローゼットの中にあった。しかもそれがクローゼットだとすら知らなかった。だからそこから横溢した最初の涙を嘔吐だと勘違いし、ジャックに「おまえをあきらめられさえしたら(I wish I knew how to quit you)!」と告げられたときも「心臓発作なのか燃え上がる激情の横溢なのか」わからない泣き方でしか泣けなかったのである。

 そうしてこのとき、すべての厄災の原因は同性愛にあるのではなく、クローゼットの罪業(あるいはクローゼットを強いる時代の罪業)なのだと判明するのである。

入り子細工として提示される4つのイメージ

 ひとはクローゼットに籠っている限り幸福になどなれはしない。家族も裏切る。自分の心も裏切る。すべての親密なものたちを裏切るのだ。そしてあのブロークバック・マウンテンとは、そのクローゼットの反動としての、さらに仮想の理想郷の記憶でありながらもその実、より甘美で広大なクローゼットの装置のことでもあったと暗示されるのである。

 いみじくもジャックが思うのだ──「ジャックが思い出すもの、否応もなくわけもわからず渇望してやまないものは、あの時、あの遠い夏、ブロークバック・マウンテンでエニスが彼の背後に近づき、彼を引き寄せ、なにもいわずに抱きしめてきたあの時間そのものだった。ふたりに等しくあった、セックスとは違うなにかへの飢えが満たされていた、あの時間だった。(略)そしてきっと、と彼は思った。自分たちはきっとあそこから、そうたいして遠くまでは行き着かなかったのだろうと。そんなもんだ。そんなもん」

 この隠れたメッセージは映画でも原作でも最後になって形を取ることになる。あのブロークバックの証しは、ジャックの実家のその彼の部屋の、文字どおりクローゼットの中に潜んでいたからだ。重なり合うあの2枚のシャツとして。そうしてもういちど、本当に最後の最後にふたたび、こんどはエニスのトレイラーハウスのクローゼットの扉の内側に、ブロークバックの絵はがきとともに。

 この映画が真に知的で雄弁なのはそのときだ。私たちはその最後に、入り子細工のように巧妙に区画され提示される4つの額縁イメージを見ることになる。

 1つは、不器用なエニスが初めて明確な思いとともに重ね直したシャツとつながる、絵はがきの枠に収まる彼らの愛の時間。次にそれを取り囲む四角いクローゼット。そのとなりの、窓枠の向こうのうら寒げな外部世界。そうしてもう1つ、スクリーンという額縁に囲まれたアメリカの(あるいは多人種制作陣の)、それらすべてへの批評的な現在である。

I swear….」の次に続くもの

 この重層的な構造を観客に提示しながら、「ブロークバック・マウンテン」はじつに静謐な雄弁さと訥弁さをもって私たちにつぶやきかけるのだ──「I swear….(おれは誓うよ……)」と。

 その次に来る、いまだ言葉にならなかったエニスの思いを言葉にするのは、そうしてその時点からすでに20年以上を経ている私たちの宿題なのである。なぜならそのときエニスのクローゼットの扉は、そのときもなおクローゼットではありながらも、私たちに向かって、少なくとも開かれてはいたのだから。【本文中の原作引用は筆者訳に拠る】
(了)
**

 さてここまで来て、このコラムの大いなる矛盾に気がつかれたでしょうか? 私はこれまで、この連載を通じてほぼただひたすら「ゲイのこと」しか書いてきていません。なのにこの連載コラムの全体タイトルは「LGBTの練習問題」です。
 LBTについてもほとんど書いていないのに、おこがましくも、ぬけぬけと、まるでLBTをも代弁するかのようによくもここまで連載を続けてきたもんだ、と、私は彼ら、彼女ら、そして無性の They たちに咎められるのではないか?
 ──次回はその企みについてお話しします。
(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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