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LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第23回

「略奪感」と「屈辱感」をめぐる考察

2020.05.13更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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 以前ここでも紹介した『LGBTヒストリーブック』(ジェローム・ポーレン著、サウザンブックス社)も、原題は『ゲイ&レズビアン・ヒストリー・フォー・キッズ Gay&Lesbian History for Kids』でした。この「Gay&Lesbian」の部分を日本版刊行に当たって「LGBT」に変えました。原著にも本文などで「LGBT」という言葉が使われていましたし、内容的にもトランスジェンダーT)やバイセクシュアル(B)のことが書かれてあって、ゲイやレズビアンに限るよりもっと広く「LGBT」としても(あるいはLGBTQ+としたって)齟齬は生じないだろうというのが判断の1つでした。ちなみに「LGBT」という言葉の方が「世間的に受けがいい」「一般に受け入れられやすい」から、という議論はありませんでした。むしろ「ゲイ&レズビアン」だけではない包括的、包摂的、さらに希望を言えばより横断的な連帯のニュアンスを与えたいという認識でした。
 けれど刊行後に様々な販促イベントを行う中で、私の畏友の1人であるMtFトランスジェンダーの畑野とまとさんから次のような指摘がありました。それはまさしく、私が前回のコラムで記した「略奪感」に通じるものではないかと推察します。ゲイでもないのにゲイのことをわかったふうに使い回す。トランスでもないのにトランスのことをわかったふうに語る──。
 正確を期すために、とまとさんのツイッター(@hatakeno_tomato)から当該部分を引用します。

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LGBTヒストリーブック」の中身についてあたしが、なぜこの本に原題じゃなく「LGBT」とつけたのか?と文句を言ったのです….極端にいえば、USのゲイの歴史はかなりの部分をドラァグとトランスが占めますが…。

当該の本はその辺を上手にぼかしているわけでこの辺は50年代から始まったホモセクシャルの活動にみられる『ノーマライズ』の力がかなり働いてのこと。それを判った上でポイントだけドラァグ・トランスを取り上げておいて、後を全部、シス男性の手柄的な形にされてしまうのは困るといった流れで

でっ、北丸さんは「それはトランスはトランスの本を作れば」と言ったので「それはオカシイ、そもそも「ゲイ」という言葉をチョイスしたのもドラァグとトランスで、シス男性じゃない!」と話しを返したわけです。でっその事に対して北丸さんがオネェ的な人達の歴史の話をして…なんとなく終わり…と
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 これに関連して、とまとさんと私とのやりとりに対し別の研究者の男性から「少し前のイベントで同様の指摘に対して、トランスのことはトランスが本を作ればいいじゃないかという発言がゲイ男性よりありましたが、あれは暴力的でした。」というツイートがありました。おそらくそれは私の発言のことだと思ったので、私はまた次のようなコメントを出しました。

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「すればいいじゃないか」というような突き放した言い方はしてないと思うんだけど、そういうふうに聞こえたならそうじゃないよと言っときます。不足あるいは不在の言説があるならそれを埋めていく作業をするという話です。私がやってきたのはまさにそういうことで、埋めた部分の取り合いじゃないわけ。
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 そこでとまとさんは次にように返事をくれました。

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埋めていく作業は重要です!ちなみに、一応言っておくと逆にトランス側でゲイの歴史の共有を拒否する人達がいるのも事実で(とくに日本では)この辺もちゃんと埋めていかないと1980年代くらいまではドラァグとトランスの境目は曖昧だったし医療とトランスの関わりあいも随分違っていたし…
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 とまとさんの言いたいことは彼女の次のツイートに集約されていると思います。

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この本に書かれている歴史は「白人の男性同性愛者視点』であり、トランス・ドラァグ・そして白人以外の人達、女性の話がものすごく薄く書かれているので。これが史実の全貌と思われると困るわけです
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「白人の男性同性愛者視点」──私が「ゲイのこと」をちゃんと考えてみようと思い始めたのは、80年代のエイズ禍のニュースに触れてからでした。社会学にも哲学にも、あるいはジェンダー理論にも専門的な知識を持ち合わせない一介の新聞記者として、私の教科書はほとんどすべてがニュース報道、ジャーナリズムを基にしたテキストや映像でした。しかも、英語の。
 当時、エイズ報道はほとんどが英語による情報であり、かつ白人の記者たちの視点、あるいは白人の男性同性愛者の記者の視点で伝えられていました。1987年に刊行されたエイズ記録の歴史的な労作『And The Band Played On: Politics, People and the AIDS Epidemic』(邦題:そしてエイズは蔓延した)も、ランディ・シルツ Randy Shilts という白人男性同性愛者のジャーナリストの手になるものでしたし、そもそも私が翻訳にも関わるきっかけとなった1990年刊行の最初の訳書も、原作は『the Front Runner』という白人男性同性愛者たちを主人公とする小説でした。この作品は1974年にアメリカで刊行され、ニューヨークタイムズのベストセラー・リストに載った史上初のゲイ小説です。もっとも、作者はパトリシア・ネル・ウォーレン Patricia Nell Warren という白人女性同性愛者でしたが、彼女もジャーナリストの経験を積んでいました。
 端的に言えば、「書く」という行為、「報道する」という行為は一種、権力を生み出す行為なので、それを担っているのが主に「白人」であり「男性」であるというのは(卵と鶏の話はさて置き)当然の成り行きなのでしょう。私の「教科書」はそうしておのずから、白人英語と、その言語によって語られる情報に伴う権力を纏っていたわけです。
 おまけにそもそも英語というもの自体が、世界の言語の中でも一、二に権力を纏っている言語ですし、さらに私が19932月にニューヨークに渡ってからは四六時中そんな英語情報に囲まれて、私の情報の権力傾向はさらに強まることになる……いや、本当のことを言うと当時は、そんなことはあまり大きな問題ではなかった。むしろ「ゲイのこと」を手に入れることで相対的には逆に、やっと非・権力の、あるいはそこから敷衍して反・権力ですらある情報を獲得したという感覚が優っていたのです。
「白人」の「男性」の「異性愛者」の言説に囲まれた世界で、その中の一つである「異性愛」呪縛が解けるだけで、こんなにもそれまでの「権力」とは別の視界が広がるものか──それは見かけ上、そして相対的に、異性愛規範という権力に対抗する「同性愛」という、反・権力、非・権力の情報でした。マジョリティ対マイノリティの構図、そして後者を基盤とするアイデンティティの獲得……。
 白人規範性、男性規範性、という残る二つの権力への対抗は、意識してかしないでか、これも相対的に、まだ後回しできる問題のように思われました。
 その開放感と解放感は、ニューヨーク以前に先ほどの『フロント・ランナー』を訳出する際から決定的でした。80年代の後半、確か19867年ころから訳出を開始したその作品は、虚構とは言え、私には60年代から70年代に至るアメリカの陸上界を歴史的に捉え直す作業でもありました。スポーツに関する先の連載回でも触れたように、トラック&フィールドの世界もまた男性性とジェンダー格差に支配されていました。そこでは男性同性愛を描くこと自体が自動的に男性異性愛という権力への反攻だったのです。
 そこを基盤として(というか、それしか基盤を持ち合わせないまま)私はニューヨークに渡りました。

 ニューヨーク支局着任早々の3日目の226日正午過ぎに、最初の世界貿易センター・テロが起きました。北タワーの地下駐車場でトラックに積んだ600kgもの爆弾が爆発した事件です。地下構造は6層にわたって破壊され、6人が死亡、1,042人が負傷、周囲を含め5万人が避難しました。このテロ事件が、8年後の9.11同時多発テロに繋がるとは、そのときはほぼ誰も予想していませんでした。
 この事件の一方で、米国は父ブッシュの共和党政権を打ち破った民主党のビル・クリントン政権が始まっていました。この年は米軍における同性愛者たちの入隊禁止問題がニュースを賑わせていました。クリントンが大統領選の公約として、この従軍禁止規則を就任早々に撤廃し、同性愛者も両性愛者も、つまりLGBたちが(ちなみにこの時代にはT=トランスジェンダーの話は議論にも上がっていませんでした)おおっぴらに兵として国家に貢献できるようにするというものでした。これを、今のトランプが乱発しているような「大統領令」でちゃっちゃっとできると踏んでいたクリントンですが、そううまくは運びませんでした。軍上層部、そして議会が、共和党ばかりか政権与党のはずの民主党もかなりの議員が、一斉に反発したのです。今からたった二十数年前のことですが、「同性婚」など夢ですら無理だと思われていた時代です。世間一般に、ゲイやレズビアンはまだまだ「変な輩 Weirdo」だったのです。結局翌19942月に、クリントン政権は悪名高い「Don’t Ask, Don’t Tell(ゲイであることを、訊くな、言うな)」という、なんだかわからない妥協案を法律として成立させてしまうのです。それはLGBあるいはTの兵士を含めて、自分のことを話してはいけない、すなわち自分のことで「沈黙」という「嘘」をつけという法律でした。
 1994年はまた、ストーンウォールの25周年でした。その年まで、実は「ストーンウォールの反乱」がどのように起こったのか、誰がそこにいたのか、“定説めいた物語はありましたが、詳細は不明でした。実際にそこにいてその反乱に加わった「ストーンウォール・ヴェテラン」と呼ばれる人たちの掘り起こしと彼ら・彼女らからの当時の出来事の聴き取りも、実はこの25周年を機に改めて始まったのです。
 それが、ドラァグ・クイーンとトランスジェンダーとレズビアンたちの「反乱」だったことが、そこから次第に語り直されていったのでした。「白人」の「男性」の「同性愛者」たちは、必ずしも矢面に立ってたわけではなかった、という言説がそこら辺から生まれました。

 毎日、ゲイ関連のニュースがCNN4大ネットワークの報道番組で取り上げられていました。ゲイやレズビアンを狙った暴力事件、差別事件、ホモフォビアを隠さない宗教指導者・スポーツ選手・セレブリティへの抗議、子どもたちへの教育問題、勘当されるゲイ少年たちの行き場、テレビや映画での描かれ方、カップル向けの金融商品、養子縁組や代理母出産、ゲイのペンギンのこと、そして何よりもエイズ禍と、そこで遺される伴侶たちの悲劇──「アメリカの良心」と呼ばれたTVジャーナリスト、ウォルター・クロンカイトが自身のニュース番組でやっとゲイの人権問題を扱うようになってから、20年近くが経とうとしていました。「ゲイ」はまさにこの人権の時代の「旬」なテーマでした。

 ロックフェラー・センターのビル群の一角、六番街のラジオシティ・ミュージックホールの横のビル19階にあった支局のAPチェッカー(AP通信の電信ニュースがタイプ文字で自動的に打ち出される装置)からは、助手のジュディ・ウォレス(彼女は支局を辞めたのちに弁護士になった優しく聡明な女性でした)がゲイ関連のニュース原稿を、重要部分に赤い線を入れて私のデスクに持ってきてくれました。
 NYの支局業務には国連取材も大きな割合を占めていました。当時はブトロス・ブトロス・ガリが事務総長で、国際紛争に対して実に野心的で積極的な国連介入を始めていました。おまけに日本は安全保障理事会の非常任理事国に選ばれていて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦など、国際情勢が直接関わってきていました。
 連日のように開かれる安保理の取材を含め、多忙を極めるそうした日常業務の中で、私は同時に生まれて初めてこんなにも大量のLGBT関連情報に囲まれるようになっていました。しかもその情報の向こうには、LGBTを性的存在としてだけではなく全体的人間存在として扱う同僚記者たちが多く偏在していたのです。日本の特派員たちは、私がどんなに「旬」だと力説しても「ゲイのこと」に関心を示さず、それどころか露骨に嫌な顔をする記者たちがほとんどだったというのに、アメリカの、あるいはニューヨークに集まる他国の記者たちは日々こうしてエイズと「ゲイのこと」を共感的に報道してくれていました。これはジャーナリストとしてとても重要な姿勢だと思ったものです。

 それはまたエイズ禍という大きな不幸を共有して、ゲイ・コミュニティという幻想がまだ信じられるふうに思われた時代でした。「ディファレント・ライト」というゲイのブックストアが、グリニッジ・ヴィレッジの小さな店を抜けて、新たにその何倍もある、チェルシー地区の明るく天井も高い店舗に移転したのもその頃でした。アマゾンの登場する前のことです。暗いドアに阻まれるのではなく、ガラス張りのテラスとガラス張りのドアでゲイもストレートも受け入れる「G」というゲイバーが同じくチェルシーにオープンしたのもその頃でした。90年代を通して、アメリカ社会は、いや、少なくともニューヨークは、急速にゲイフレンドリーな街になっていました。

 私は、自分のようなゲイに会ったことがありませんでした──これは青少年期のゲイ男性によくある口上です。自分も含めたカミングアウトの少なさと、そもそもの出会いの機会の少なさのせいです。いやそれ以上に、私は日本で与えられるゲイ男性の情報のほとんどいずれにも、自分との同一性を感じられませんでした。それらがゲイならば、私はゲイではなかった。いわゆる中学・高校といった思春期に、私は男性を性的対象にマスターベーションをしたことがなかったし、女性と付き合ってもいました。にもかかわらず、私はよくそんな女性とのデートをすっぽかしても男同士でつるんでいる方が好きだったのです。そのときの私には、(あとから知った言葉でいえば)ホモセクシュアルというよりホモソシアルという形容詞の方が合っていたと思います。
「ホモソシアル homosocial」というのは、アメリカのクイア理論家イヴ・セジウィックの『男同士の絆  イギリス文学とホモソーシャルな欲望 Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire』(Columbia University Press, 1985年:日本語訳は名古屋大学出版会、2001年)で有名になった概念です。それらによると、ホモソシアルな関係性=ホモソシアリティというのは体育会系の学生たちによく見られる男同士の Homo- 社会的繋がり、紐帯 sociality のことで、しばしばミソジニー(女性嫌悪)とホモフォビア(同性愛嫌悪)が伴うとされています。その男同士の関係においては、女たちは互いの絆を確かめ合うために通貨のように交換される存在で、セジウィックは「二人の男が同じ一人の女を愛している時、いつもその二人の男は、自分たちの欲望の対象だと思っている当の女のことを気にかける以上に、はるかに互いが互いを気にかけている」と指摘しました。ここから、ホモソシアリティこそが女性を支配する家父長制を構成しているのだと言うのです。
 中学生、高校生だった自分にそんな分析ができるわけもなかったのですが、ホモソシアルな自分が女子を嫌いだったかというとそうではありませんでした。女子はいつも私の周りにいましたし、仲良く話したり遊んだりもしていました。ただ、男の友だちの方が一緒にいて心地よかったのはありました。
 ではホモフォビック(同性愛が病的に嫌い)だったか、というと、そもそもホモセクシュアルを知らなかったのだから……いや、そういえば三島由紀夫の『仮面の告白』を読んで、あるいは『午後の曳航』を読んで、三島のそれらの主人公の欲望の対象(男らしい車夫や船乗り)に、何ら欲望を抱いていない自分のことは知っていました。私はそこに描かれる「男臭さ」に欲情してはいませんでした。私の感動の対象はむしろ、遥か彼方、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の世界であり、漱石の『こゝろ』の「先生」と「K」との関係、有島武郎の木田金次郎に対する、『生まれ出ずる悩み』の「君」への葛藤だったと思い出すのです。もっと言えば、大江健三郎の初期の主人公たちの一連の、表現の向こう側に性的な視線をも孕んだ危うい友情……。
 私はその後、親元を離れて東京の大学に通い(というか通わずにバイトや読書に明け暮れる)寮生活を送りました。男だけ100人以上が生活する空間で、私は私を慕ってくれる下級生の一人と酒に酔った勢いでセックスをしました。拙いながらも、それが初めての「同性愛」行為でした。その彼への愛おしさが、友情なのか愛情なのか、当時の私は大いに戸惑いました。ヘッセも漱石も有島武郎も、友情からセックスはしなかった──けれど友情からのセックスは私にはとても気持ちの良いものでした。高校時代の女友だちとの性的関係はともに東京に出てきたせいで細々と続いてはいましたが、同性の下級生とのセックスはむしろ友情と愛情の両方が合体したように自然体の充実感をもたらしてくれました。それは確かに高校時代の部活で感じたような男同士の、いや明確に記述すれば先輩・後輩の気の置けなさでした。でも、そういう関係性は、日本語のホモセクシュアルの情報とは合致しませんでした。そういう関係は、思春期の一過性の疑似的なもので、「真性のホモセクシュアルではない」と書かれていました。そして「真性のホモセクシュアル」とは、(これも「昭和」的な様々なテキストにステレオタイプとして描かれていた)「ジメジメとメメしく嫉み僻みと嘘とに満ちた、『男』になり損ねた男たちのこと」でした。「ホモ」とは、そういうものでした。そういうレッテルを貼られていました。「ホモ」たちは常にそう語られる存在で、主語として自分たちのことを語る資格もなかったのです。

 東京に出てすぐの19歳のとき、銀座のホステスさんがパトロンに貢いでもらって開いた中野のスナックに、アルバイトのバーテンとして入りました。そこには有名企業の社長や重役やらもが訪れて若かった私を可愛がってくれ、店が終わるとよく深夜のお寿司や天ぷらに(帰りのお車代付きで)連れ出してもくれました。そうした中で何度かママも一緒に、新宿二丁目のバーに飲みに行こうということになりました。行くのは決まって「たかし」というカウンターだけの小さな店で、スーツを着てネクタイを締め、ポマードで短髪を固めたマスターのたかしさんが一人、早口のオネエ言葉で切り盛りしていた店でした。
 とても楽しい店でしたが、隣に座ったお客さんたちとも色々話したりしながらも、私はここは強いて自分の来たいと思うところではないと感じていました。もちろん「来たい」と思うような店は探せばきっと他にあったのでしょうが、私はむしろゴールデン街の馴染みの店で当時知り合った中上健次さんらと文学談義をしている方が楽しかった。その中上さんも私を時に二丁目の別の店に連れて行ってくれましたが、そこでも私の欲望の対象はなかなか見つかりませんでした。私は「友情」に欲情していたのです。いやはや。

 そんなときに『フロント・ランナー』に出遭いました。私は確か21歳になっていました。銀座にあった「イエナ」という洋書店の出口付近で(入り口はエレヴェータでしたが出口は階段でした)、たまたま平積みにされていたペイパーバックの山が目に止まったのです。表紙にはブロンドの長髪の美しい若者が腰をおろし、年上のコーチが背後で立っているロッカールームのイラストが描かれていました。きっと見る人が見れば一目でわかる、とても「ゲイ」な表紙でした。私はそれを買いました。そこには、ヘッセや漱石や有島武郎の描いたその次の話が書いてありました。主人公の若き中距離ランナー、ビリー・サイヴはこう言っていました──「ぼくは、愛した人としか寝ない」。
 私は初めてそこに、信頼すべき同性愛者を見つけたと思いました。彼がゲイなら、私もゲイだと言わなくてはならないと、そのとき初めて思ったのです。なんとも健気で純粋な若者であったわけですが。

 ある人は、ゲイ男性が生涯にセックスする相手は3桁に及ぶと豪語しています。ある人はストレート男性よりもゲイ男性の方がはるかに性的に奔放だと吹聴します。そうかもしれません。でも、そうじゃない人もいます。そして、そんなそれぞれが「ゲイのこと」を口々に語っています。
 はっきり言って、私はほとんどのゲイ男性と違います。さらに言えば、みんながみんな、一人ひとりまったく違うゲイ男性を体現しています。そんなとき、この私が「ゲイのこと」を偉そうに語っているのに対して、他のゲイ男性たちは例の「略奪感」を覚えるのでしょうか? そういう人もいるでしょう。逆に、「生涯にセックスする相手は3桁に及ぶ」と「ゲイのこと」を話されたとき、私はその話者に自分の「ゲイのこと」を無視されたと感じ、「ゲイのこと」の全容を異なる形に略奪されたと感じるのか?……そういうときはしかし、自分なりの「ゲイのこと」を話し始めるしかないのだと思います。それが、私がこの連載で何度か触れた、自分がこの歴史の中で「主語」になること、なのです。

 ゲイの私がゲイの話をしても略奪感を振りまくのだとしたら、ゲイの私がレズビアンの話、バイセクシュアルの話、トランスジェンダーの話をして略奪感を与えるのは避けようもありません。私は彼ら・彼女らの代弁者にはなり得ません。人はしょせん、自分の代弁者にしかなり得ない。そのとき、「LGBT」と一括りに言うときの私は単に、歴史の中で謂れもなく主語を奪われたことに関する、「屈辱感」をのみ代弁していると思っているのです。「LGBTの練習問題」は、そういう意味として選んだタイトルです。自分の「ゲイのこと」を考えていけば、それは「L」のこと、「B」のこと、「T」のことにも通じるなにかがわかるだろうという期待。
LGBT」とは、あるいは「LGBTQ+」とは、そうやって見つけた共通するそれぞれの屈辱感を糧として、それぞれの混じり合うことなき連帯を呼びかける合言葉なのかもしれないと思っているのです。

 次回は、「友情」に関してもう少し考えてみたいと思います。
(続く)

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著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

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