Facebook
Twitter
RSS
LGBTで考える人生の練習問題 北丸雄二

第9回

エイズ禍への反撃

2019.04.12更新

読了時間

メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
「目次」はこちら

 「不思議な時代」だったと書きました。エイズ禍は去っていないのに、ゲイたちがそれを逆バネにして社会的にどんどん可視化し、結果、カミングアウトを果たしたそのゲイ・コミュニティに、鵜の目鷹の目のアメリカのビジネス界が新しい(未開拓の)マーケットとして狙いをつけた──けれどそれはそんなに単純な話ではありませんでした。ロック・ハドソンの死が一つの契機だったことは確かですが、それを最大限に利用して、80年代後半から90年代のアメリカのリベラル社会全体がエイズ禍と差別システムへの猛反撃を始めたわけです。そのことなしに、現在の同性婚合法化(結婚の平等)につながるゲイ・コミュニティ受容の現状はありません。


 その反攻の第一は、ゲイとエイズからスティグマ(社会的汚辱)を拭い去ることでした。
 エイズと診断された恋人ロジャーを最期まで看取ったポール・モネットPaul Monette の回顧録『Borrowed Time』(1988;邦訳は時空出版『ボロウドタイム1990)に象徴的な記述があります。ある打ち合わせでロジャーが向かうことになるカフェのテーブルを、モネットが事前に懸命に拭くのです。HIV/AIDSが人々の脅威であり、死に直結するその感染に社会全体が恐れおののいていた時代でした。けれど彼が拭くのはHIVに‟汚染”されているロジャーが「触れた」テーブルではなく、「これから触れる」テーブルです。
 エイズは奇妙な(という書き方自体、実は様々な「隠喩」をもたらす有害な表記なのですが)病気です。HIVHuman Immunodeficiency Virusヒト免疫不全ウイルス)そのものがもたらす発熱、倦怠、発汗などの症状よりも、後天性免疫不全症候群Acquired Immunodeficiency Syndrome)の略称どおり、免疫が機能しないことによって、その肉体が外界の全ての病原体が思う存分暴れることのできる場所になってしまうのです。つまり、エイズは外界の汚れを映す「鏡」のような病気でした(今現在はHIVの数や症状を減じさせる治療法が発達して、その「鏡」効果も減じています)。
 懸命にテーブルを拭くモネットの姿に(HIV陽性者AIDS患者ではない)読者は気づきます。様々な病原体で「汚れ」ているのは実はHIV陽性者AIDS患者ではなく、自分たちの方ではなかったのかと。自分たちは自らが様々な病原体で「汚れ」ていることに免疫力で気づかずにいられるが、HIV陽性者AIDS患者はそういう諸々の「汚れ」を敏感に引き受けてしまうのだと。モネットが拭いていたのは、そんな自分たちの汚したテーブルであり、彼はロジャーの触れるそのテーブルの「汚れ」の方を除菌していたのだと。「汚れ」に脆弱なのは自分たちではなく、ロジャーたちの方なのであり、自分たちがロジャーを恐れるその謂れなき「汚れ」よりも、実はロジャーたちの方こそが我々の「汚れ」を恐れていたのだと。


 この逆転は当時の私の無知を打ちのめしました。スティグマの除去は、生身の人間たちのこうした具体的な(かつ普通の日常では気づくことのできなかった)生き方、死に方を提示することでしか成し遂げられない。なぜならスティグマというのは往々にして妄想であることを見逃している妄想であり、それに伴う隠喩だったからです。それらに対抗するには、隠喩を拒む直截な事実を突きつけるしかなかった。
 ストーンウォール以後、ハーヴィー・ミルクの「カム・アウト! カム・アウト!」の呼びかけへとつながる可視化の流れとは別の、もう一つの「カム・アウト!」が、こうしてエイズによって“再発明されました。なぜなら、クローゼットのままではエイズと戦えなかったからです。隠れた存在である限り、世間の妄想は歯止めが効かない。隠れたセックスをしている限り、HIVの感染は際限なく拡大する。
 それはセックスおよびその主体である性的な存在を白日の下へと晒すことでした。さもなくば、セックスそのものを諦めるか──なぜならその当時、果たして安全なセックスがあるのかどうかすらも、誰にもわからなかったから……


 エイズ文学の傑作の1つとされるラリー・クレイマーLarry Kramer の自伝的戯曲『ノーマル・ハート Normal Heart』(1985年初演)では、エイズが「ゲイの癌」と呼ばれていた最初期1981年を舞台に、エイズ医療の只中で孤軍奮闘する女医エマ・ブルックナーが、主人公のネッド・ウィークスに向かって「ゲイの男たちに、セックスするのを止めろって言ってほしい」と頼むシーンがあります。ネッドは思わず聞き返します──「すんません、何て?」

エマ: だれかが言わなくちゃ。あなたじゃダメだって理由はない。
ネッド: 言えるわけないじゃないですか、そんなバカなこと。
エマ: 今はとんでもないことに聞こえるけどね、あと何年かしたらそうじゃなかったって気づくことになる。
ネッド: ブルックナー先生、ご自分でわかってます? 何百万人ものゲイの男たちがこれまで唯一ピックアップした最重要の政治課題は、自由にセックスできること、ってのだったんですよ。セックスの権利を手放すくらいなら死んだ方がマシだって思ってるんだ。それをどうしろって言うんですか?
エマ: 手放さなきゃほんとに死ぬんだって言うの。
ネッド: 先生が言ってくださいよ!
エマ: あなたたち、セックス抜きじゃあだれとも関係を作れないわけ?
ネッド: そんな簡単なことじゃないんだ。多くの連中にとって、それ以外には他の連中と出会うことだって容易じゃない。セックスはつながるための方法なんだ。で、中毒になる。そのうちに他の連中もそうやってるから自分ももっとやらなきゃ、もっとやらなきゃって思うようになる。……先生、これ、セックスでうつるんですか?
エマ: 肝炎のウイルスを分離するずっと前から、あたしたち現場の医者は肝炎がどういう病気か、どううつるか、ちゃんとわかってた。病原体を特定するまでもなく、わかるのよ。あたしは先週も患者を診た。今週も見た。次の週は前の週より患者はいつも必ず多い。今年の終わりまでには、患者数は半年で倍々に増えていく計算。つまり来年の6月には患者数は千人を超える。で、そのうちの半分は死んでる。さっきあたしが診断した、あなたの知人の2人、そのうちの1人は死んでるの。悪けりゃ2人とも。
ネッド: だから先生はオレにニューヨーク中のゲイたちにセックスを止めろと言わせたい。
エマ: ニューヨーク中? それで済むと思う?
ネッド: アメリカ中のゲイたちに……
エマ: 世界中のよ! それが唯一この病気が蔓延するのを止める方法なの!
ネッド: ブルックナー先生、それってちょっと非現実的じゃないですか?
エマ: ミスター・ウィークス、セックスしたら死ぬってことがわかってたら、頭が半分しかない人でもファックするのを止めるんじゃないの? あなたはきっとまだ何も失ったことがないからそんな顔をしてられる──わかった。もういい。さようなら。

 

 セックスを諦めることはできません。かといってエイズの“隠喩”を暴走させておくわけにもいかない。夜戦を仕掛けてくるHIVに対して、欧米社会は真昼の決闘を挑むことになります。クローゼットから出て、太陽の下に顔を晒す。それはゲイたちに限りませんでした。
 198412月に汚染血液からHIVに感染と診断された13歳の血友病の少年ライアン・ホワイトは、余命6カ月と宣告されながらもインディアナ州ココモの自分の中学校に復学しようとしました。けれど全校生徒360人の同校では、117人の父母と50人の教師たちが彼の復学への反対署名を行ったのです。同校だけでなく近隣の学校を含む数多くの関係者たちが復学反対のデモまで行いました。当時すでにHIVは空気感染はしないとわかっていたにもかかわらず、子供同士のことだから何かひょんなことでケンカになって怪我をするかもしれない、それが感染につながるかもしれない、という理由で。いや、理由などどうでもよかったのです。とにかくエイズに対する底知れない恐怖が支配していた。
 復学を拒否されたホワイトは裁判に訴えます。翌862月、彼は1日だけの登校を認められます。その日、360人のうち151人の生徒は自宅待機しました。ホワイトは新聞配達のアルバイトもしていたのですが、彼の配達地区の世帯の多くは購読をやめたりもしました。新聞紙を通してHIVがうつるかもしれないと恐れて。
 ライアン・ホワイトをめぐる地域での衝突や騒動はたちまち全米ニュースになりました。前述のロック・ハドソンの死の衝撃と合わせ、エイズをめぐるアメリカでのニュースは1985年から87年にかけて倍増しました。ホワイトはたちまちエイズ禍の悲惨さとそれに対峙する「政治的正しさ」の象徴的存在となり、TVの人気トーク番組に呼ばれて話をしたり、女性ホストが彼の頬にキスして見せたりもしました。エルトン・ジョンマイケル・ジャクソンら数多くのセレブたちも支援・応援を表明し、1989年にABCが放送したドラマ『The Ryan White Storyライアン・ホワイト物語)』は全米で1500万人が視聴しました。ホワイトは余命宣告に反して診断後も5年生き延び、199048日に呼吸器系疾患で亡くなりました。18歳、高校卒業の1カ月前でした。

 

 ライアン・ホワイトの教訓を糧に、エイズ関連の実名報道が拡大していきます。エイズに苦しむ市井の人々の艱難が(つまり多くはゲイ男性たち及びその恋人・家族・友人たちの困難が)地方紙や地方局のレベルから続々と報告されました。88年にはWHO121日を第一回の世界エイズデーと宣言しました。91年にはプロ・スポーツのスター選手として初めてNBAマジック・ジョンソンHIV感染を公表しました。
 エイズ禍に対してどう振る舞うのが正しいことなのか?── 80年代に醸成された「政治的正しさPolitical Correctness(=PC)」の社会的広がりは、エイズ禍を経験することで人間の個人的な生き方の問題としても規範化していきます。

 

 そのころ、ブロードウェイ(舞台演劇界)も深刻な打撃を受け始めていました。現役の、あるいは次世代を担うはずの若く才能ある製作者や俳優たちがエイズによって次々と斃(たお)れていきました。エイズは性的に活発な、すなわち人生に最も勢いのある20代、30代という世代を直撃していたからです。ブロードウェイの人材の裾野の広さは、地方から(最終的にニューヨークに)出てきた若者たちがカフェやレストランでウェイターのアルバイトをするなどしながら懸命にオーディションを受け切磋琢磨することで担保されています。もちろん彼らに日本のような健康保険制度はなく、病気になればたちまち経済的に立ち行かなくなります。アメリカ社会で強大な資金力を誇るキリスト教系の慈善団体は、“罪”である同性愛者のエイズ患者たちには救いの手を差し伸べようとはしませんでした。

 

 1985年に映画にもなった『コーラスライン』というミュージカルを知っている方も多いと思います。ブロードウェイの劇場で、役名も与えられないダンス兼コーラス要員(舞台の床の上に引かれたラインから前には出てきてはいけない出演者)たちのオーディションを描いたこの作品は、1975年の初演から904月までの15年間という異例の最長公演記録を立て、9部門ものトニー賞を獲得しました。
 劇中、わずか8人の採用枠を目指してオーディションを受けるダンサーたちは、演出家のザックの指示に従って振り絞るようにそれぞれの人生を語り始めます。その中には、ゲイである自分を嫌い、この先の人生になんの希望も持てない「グレッグ」や、スパニッシュ・ハーレム出身の“女性”的な「ポール」というゲイの若者の切実な“告白”も含まれていました。
 この『コーラスライン』の制作にあたって原案から振付、演出まで担当したのは、自身もダンサーだったマイケル・ベネットMichael Bennett でした。時代設定上、まだ劇中にはエイズは登場しません。けれどベネット自身が実生活でエイズを発症します。『ドリームガールズ』の舞台版(1981)を作ったことでも知られる彼は19877月、恋人のユージーン・プルイット、友人ボブ・ハーに看取られながら44歳で亡くなります。
 その彼は80年代半ば、エイズがブロードウェイを滅ぼしてしまう危機感を軸に、観客を含めた劇場コミュニティ全体に様々な募金活動を呼びかけていました。それはまさに『コーラスライン』に登場したような若いゲイ男性たちを救おうという活動でした。
 ハーヴィー・ファイアスティンHarvey Fierstein も同様に立ち上がっていました。『トーチング・トリロジー』(198185)や『ラ・カージュ・オ・フォール』(198387)のロングラン舞台でゲイ男性たちの人生を描き、主演や脚本部門でトニー賞を受賞した彼もまた、オープンリー・ゲイとして何かをせねばならないと衝き動かされていました。
 そんな声がまとまって1988年に設立されたのが「Broadway Cares/Equity Fights AIDSBC/EFA=ブロードウェイは関わる/公正さがエイズと戦う)」という名のチャリティ基金活動でした。ブロードウェイで観劇すると、今でもカーテンコールの出演者たちがエイズ問題啓発と募金を訴えます。それは30年以上前にベネットやファイアスティンらが始めたものです。ちなみに、エイズ患者支援と啓発のシンボルである「レッドリボン」が一般に知られるようになったのも、91年のトニー賞授賞式の全米生中継がきっかけでした。あの時、赤いリボンを着けて出席しようという一部の呼びかけが参加者の間でどんどん拡散し、ついには大半の人たちがレッドリボンを着用してTVカメラの前に姿を現していたのです。
 ブロードウェイばかりではありません。欧米のテレビ界、映画界、文学界、音楽界、スタンダップ・コメディ界でさえ続々とゲイであることレズビアンであることをカム・アウトする人たちが増え、大衆文化がこぞってエイズ禍への総力戦を展開していきます。
 「クローゼットのままではエイズと戦えなかった」と書いたのはそういうことです。「カミングアウト」は名乗りを挙げてエイズ禍と戦うという、立派な大義名分を得ました。そこにはキリスト教の支持母体を気にかけて動こうとしない当時80年代の米国レーガン政権に対する「公憤」がありました。それは「政治的に正しい」戦いであり、奨励される生き方になりました。ゲイであること、レズビアンであることは、公言することを未だ躊躇われがちな私的な問題から、こうして一気に政治的な課題になった──「個人的なことは政治的なこと」という60年代フェミニズムのモットーが、LGBTQコミュニティの中で再発見されたのです。

      *

 同じころ、日本でもエイズがとうとう社会的問題として取り上げられ始めました。ただし、スキャンダルやゴシップの形の「エイズ報道」として。
 「エイズ・パニック」という言葉が生まれました。198611月、マニラ出身のセックスワーカー女性がHIVに感染していたと報じられました。その女性の働いていた長野県松本市は大騒ぎになりました。全国的に「松本」ナンバーの車が避けられたり、銭湯やサウナなどでは感染や風評を恐れるあまり「外国人お断り」と張り紙されることも起きました。外国出身者ではなく、日本人として初のエイズ患者も翌87年1月神戸で確認されました。全国で魔女狩りのようなエイズ患者探しが始まりました。
 そんな大騒ぎの中、兼ねてからゲイかもしれないと噂されていた大物俳優がエイズで危篤状態だ、という未確認情報が報道機関の間に流れました。深夜、その彼の自宅に新聞記者たちがどこからともなく群がり集まりました。近隣住民の迷惑にならないよう、あるいは何の騒ぎかと勘ぐられないよう、黒塗りの新聞社のハイヤーはそれぞれ少し離れたところに停まっていました。私もその中に混じっていた一人でした。
 閑静な都内の高級住宅街、彼の邸宅をぐるりと取り囲む塀の外、インターフォンを押しても応答がない寒空の下で、いったい自分は何をしたいのかと自問していたことを今でも苦々しく思い出します。彼がゲイだと証明されれば何かが逆転するのか? 彼がエイズで死んだら何かが変わるのか? もちろんその時の日本の状況下で、彼がロック・ハドソンにはなり得ないことは私にもよくわかっていました。
  ──結局それはガセネタで、彼はその後も30年近く第一線で活躍し続けて亡くなるのですが。

 

 エイズ禍に対応して、欧米社会はどんどんとカミングアウトの方向へと進みました。対して日本社会は逆に、ますますクローゼットの中へと隠れる方向に向かいます。(もちろん、エイズ禍の社会的な意味を知って日本でも果敢にカム・アウトしていた人々は存在します。性交渉によるHIV感染を日本で初めて公表して94年に亡くなっていた平田豊や、ピンクベアというドラァグ名で活躍していた長谷川博史、さらにあの『S/N』を作ったダムタイプの古橋悌二らです)。ゲイ男性およびエイズ患者の置かれる苛酷な差別や偏見の環境に日本と欧米との違いはありません。住宅や医療差別もありました。親に勘当されたり、パートナーが葬式にも呼ばれなかったりしたのも同じです。


 510日から日本でも公開される『RGT 最強の 85歳』という映画があります。アメリカ連邦最高裁、最高齢のリベラル派判事ルース・ベイダー・ギンズバーグRuth Bader Ginsburg)の人生を追ったドキュメンタリー映画です。彼女は雇用、中絶、性的虐待などアメリカ社会のおびただしい数の女性差別、マイノリティ差別と、司法の場で真正面から戦ってきました。彼女が生涯を通して勝ち取ってきた「平等」は、べつにアメリカの男性たちが優しかったからではありません。歴史が自動的にそういうふうに流れたからでもありません。差別を差別とすら気づいていなかった男性主義の社会に、それは差別だと明示するための「戦う言葉」を彼女が持っていたからです。その言葉で、彼女が歴史の流れを変えてきたからです。


 欧米との彼我の差を、次回は「言葉」の分野から考えてみようと思います。

続く。次回は4月24日(水)更新予定

「目次」はこちら

シェア

Share

著者

北丸 雄二

ジャーナリスト、コラムニスト、作家、翻訳家。元々は毎日新聞から東京新聞(中日新聞東京本社)に転社した社会部畑の新聞社記者で、クリントンが大統領に就任した1993年にニューヨーク支局長に着任。3年半後の96年夏に帰任を命じられたのを機に退社し、独立。その後もニューヨーク在住のまま、大統領がG.W.ブッシュ~オバマ~トランプと変わった2017年まで、計24年間、現地で9.11テロや選挙ルポなど米国政治・社会・文化、日米及び国際関係の分野でジャーナリズム活動を続ける。18年、実母の老齢化のために拠点を日本に移し、現在は主にトランプ・ウォッチャーとしてTBSラジオやFM TOKYO、大阪MBS及びネットTVなどで米国関連ニュースを解説。一方で、英米文学、ブロードウェイ・ミュージカルや戯曲の翻訳も多く、「世界」「現代思想」「ユリイカ」などで国際情勢から映画、音楽、文芸まで各種評論も行っている。 LGBTQ+関連では90年に米国ゲイ文学の金字塔と言われる『ザ・フロント・ランナー』を翻訳刊行したのを機に、新聞業務と並行するライフワークとしてエイズ問題や刻々と拡大する人権状況を取材執筆開始。ニューヨークでは日本人コミュニティ向けにHIV/AIDSの電話相談の開設・運営にも尽力する一方、97年から、日本のゲイ月刊誌『Badi』に米国を中心としたゲイ関連ニュースコラムを連載。同年6月に青土社から刊行の『ゲイ・スタディーズ』(キース・ヴィンセント他著)でも全面的な監修を担当し、ほかにLGBTQ+関連のニュースを報じるプロフェッショナルが誰もいなかった当時、「AERA」で「日本に向けて性的マイノリティに関する正しい情報を発信するゲイのジャーナリスト」という紹介記事も掲載された。現在、十年来の同性パートナーと5歳の黒猫とともに東京に暮らす。Twitterは@quitamarco。 

矢印