Facebook
Twitter
RSS

第135回

323話〜324話

2021.10.06更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
「目次」はこちら

2‐1 やろうと実践していけば、どんな目標とする人にもなれる

【現代語訳】
曹交が問うて言った。「『人は誰でも皆、堯や舜のような聖人になることができる』と言われますが、本当ですか」。孟子は答えた。「その通りです」。曹交がさらに聞いた。「私はかつて聞いたのですが、文王は身長十尺、湯王は九尺あったといいます。私は九尺四寸あり、とても背が高い。ですが無能でごくつぶし同然です。どうしたらいいでしょうか」。孟子は言った。「堯や舜となるのに、どうして身長などが関係ありましょうか。ただ堯や舜たるべき道を行いさえすればいいのです。今、ここにある人がいて、あひるのひな一羽さえも持ち上げることができないとすれば、その人は力のない人といわれましょう。逆に、百鈞もの重さを上げることができるとなれば、力のある人といわれましょう。それならば昔の力持ちとして知られている烏獲が持ち上げたほどの荷物をあげれば、この人も烏獲であるとしてもいいでしょう。ですから、何も人はできないことを心配することはないのです。問題は、やろうと努力しないことにあるのです」。

【読み下し文】
曹(そう)交(こう)(※)問(と)うて曰(いわ)く、人(ひと)皆(みな)以(もっ)て堯(ぎょう)・舜(しゅん)たるべし。諸(これ)有(あ)りや。孟子(もうし)曰(いわ)く、然(しか)り。交(こう)聞(き)く、文王(ぶんおう)は十尺(じゅっしゃく)(※)、湯(とう)は九尺(きゅうしゃく)と。今(いま)交(こう)は九尺(きゅうしゃく)四寸(しすん)、以(もっ)て長(なが)し(※)、粟(ぞく)を食(く)らうのみ。如何(いかん)せば則(すなわ)ち可(か)ならん。曰(いわ)く、奚(なん)ぞ是(ここ)に有(あ)らんや。亦(また)之(これ)を為(な)さんのみ。此(ここ)に人(ひと)有(あ)り。力(ちから)、一匹(いちぼく)雛(すう)(※)に勝(た)うること能(あた)わずとせば、則(すなわ)ち力(ちから)無(な)き人(ひと)と為(な)さん。今(いま)、百鈞(ひゃっきん)(※)を挙(あ)ぐと曰(い)わば、則(すなわ)ち力(ちから)有(あ)る人(ひと)と為(な)さん。然(しか)らば則(すなわ)ち烏(う)獲(かく)の任(にん)(※)を挙(あ)ぐれば、是(こ)れ亦(また)烏(う)獲(かくたるのみ。夫(そ)れ人(ひと)豈(あに)勝(た)えざるを以(もっ)て患(うれ)えと為(な)さんや。為(な)さざるのみ。

(※)曹交……曹の国君の弟で、名は交といわれることが多い。異説もあり、真偽はわかっていない。
(※)十尺……周の一尺は我が国の曲尺の七寸六分にあたり(約二三センチ)、周末の一尺は六寸八厘(約二〇・五センチ)にあたるという。ただ、異論もあるが、それとしても、かなり背が高かったといえる。
(※)以て長し……とても背が高い。ここでは「もって」と読んだが、ほかにも「はなはだ」と読んだり、「にして」と読む説もある。
(※)一匹雛……ここではあひるのひな一羽のこと。
(※)百鈞……梁恵王(上)第七章五参照。
(※)任……荷物。

【原文】
曹交問曰、人皆可以爲堯・舜、有諸、孟子曰、然、交聞、文王十尺、湯九尺、今交九尺四寸、以長、⻝粟而已、如何則可、曰、奚有於是、亦爲之而已矣、有人於此、力、不能勝一匹雛、則爲無力人矣、今、曰擧百鈞、則爲有力人矣、然則擧烏獲之任、是亦爲烏獲而已矣、夫人豈以不勝爲患哉、弗爲耳。

2‐2 自分で実践していく熱意を持て

【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「例えば、ゆっくり歩いて、目上の人の後について行くのを弟(てい)の徳にかなった行いといいます。これに対し、さっさと歩いて、目上の人の先を行くのを不弟(ふてい)の行為といいます。そもそも、ゆっくり歩いて行くぐらいのことは、人ができないことなどありえません。なのに、それをしないのはできないのではなく、しようとしないからです。堯や舜の聖人の道というのも、根本はこうした孝弟の道だけなのです。だから、あなたが堯の服を着て、堯の言ったことをそのまま口にし、堯の行いをするならば、堯〻の人といえるのです。これとは反対に、あなたが桀の服で、桀の言ったことをそのまま口にし、桀の行いをするならば、桀〻の人といえるのです。すると曹交は言った。「私、交は、鄒君にお目にかかったうえで、宿舎を借り受けたい。願わくは、ここに留まって先生の教えを受けたいものです」。孟子は言った。「いや。そもそも人の道というのは、大路のようなものです。誰でもわかるものです。人が求めないことだけを心配すればいいのです。あなたもお国に帰られて道を求められることを続けられれば、いくらでも師とすべき人はありましょう」。

【読み下し文】
徐行(じょこう)(※)して長者(ちょうじゃ)に後(おく)る、之(これ)を弟(てい)(※)と謂(い)う。疾行(しっこう)(※)して長者(ちょうじゃ)に先(さき)だつ、之(これ)を不弟(ふてい)と謂(い)う。夫(そ)れ徐行(じょこう)は、豈(あに)人(ひと)の能(あた)わざる所(ところ)ならんや。為(な)さざる所(ところ)なり。堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道(みち)は、孝弟(こうてい)のみ。子(し)、堯(ぎょう)の服(ふく)を服(ふく)し、堯(ぎょう)の言(げん)を誦(しょう)し、堯(ぎょう)の行(おこな)いを行(おこな)わば、是(こ)れ堯(ぎょう)のみ。子(し)、桀(けつ)の服(ふく)を服(ふく)し、桀(けつ)の言(げん)を誦(しょう)し、桀(けつ)の行(おこな)いを行(おこな)わば、是(こ)れ桀(けつ)のみ。曰(いわ)く、交(こう)、鄒(すう)君(くん)に見(まみ)ゆることを得(え)て、以(もっ)て館(かん)を仮(か)るべし。願(ねが)わくは留(とど)まって業を門(ぎょうもん)に受(う)けん。曰(いわ)く、夫(そ)れ道(みち)は大路(たいろ)の若(ごと)く然(しか)り。豈(あに)知(し)り難(がた)からんや。人(ひと)求(もと)めざるを病(や)むのみ、子(し)帰(かえ)りて之(これ)を求(もと)めば余師(よし)(※)有(あ)らん。

(※)徐行……ゆっくりと歩く。現在の日本でもよく使われる。
(※)弟……立場が上の人物によく仕える道徳。「悌」と同じ意味。
(※)疾行……さっさと歩く。徐行に対している。
(※)余師……いくらでも師とすべき人はいる。ここでの孟子の言い方からして、曹交に対して何か不満があって弟子なるのを断わったとする見方と、それは考えすぎであり、孟子は大切なことは自分自身で実践することであると言いたいのであるとする見方がある。来るもの拒まずの考えを持つ孟子ではあるが(尽心〈下〉第三十章参照)、原文を素直に読むとどちらかというと、前者のように思える。なお、告子(下)第十六章参照。

【原文】
徐行後長者、謂之弟、疾行先長者、謂之不弟、夫徐行者、豈人所不能哉、所不爲也、堯・舜之道、孝弟而已矣、子、服堯之服、誦堯之言、行堯之行、是堯而已矣、子、服桀之服、誦桀之言、行桀之行、是桀而已矣、曰、交、得見於鄒君、可以假館、願留而受業於門、曰、夫道若大路然、豈難知哉、人病不求耳、子歸而求之、有餘師。


【単行本好評発売中!】 
この本を購入する

「目次」はこちら

シェア

Share

感想を書く感想を書く

※コメントは承認制となっておりますので、反映されるまでに時間がかかります。

著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

矢印