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第3回

林芙美子 ―誰が芙美子を殺したか

2019.02.22更新

読了時間

『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
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林芙美子(はやし・ふみこ)
小説家。明治36(1903)年、山口県生れ。25歳で『女人芸術』に発表した「放浪記」が評判を呼び、作家デビュー。昭和23(1948)年『晩菊』で女流文学者賞を受賞。昭和26(1951)年、東京都新宿区の自宅にて持病の心臓弁膜症の悪化による心臓発作で急逝。享年47。代表作は『晩菊』『浮雲』など。

 文学という果実を、豪腕ひとつで引きちぎって手中にした作家、それが林芙美子だ。
 ほとんどが富裕層、もしく教育熱心な家庭で生育している近代文学作家の群にあって、芙美子は貧乏で無教養な親によって極めて雑に育てられた。生誕地も誕生日も明確でないほどだ。義父の生業が行商で、移動のたびに転校を繰り返したために学業は芳しくなく、友人を作るのも下手だった。
 たが、生まれついての本の虫だった。そして、文章力を自ら育む天与の才と、最下層から眺める世界の美と愚を叙情的かつシビアに切り取る目を持っていた。
 たとえば、初期の作品にこんな一節がある。

桟橋の下にはたくさん藻や塵芥が浮いていた。その藻や塵芥の下を潜って影のような魚がヒラヒラ動いている。帰って来た船が鳩のように胸をふくらませた。その船の吃水線に潮が盛り上ると、空には薄い月が出た。(『風琴と魚の町』より)

 この美しい風景描写、実は放尿シーンの一部分なのだ。いやはや、これほど詩情豊かな放尿シーンが他にあるものだろうか。
 一方、夫の出征中に義父と通じて子をなした女の心の動きを、

俎板の上で首を切られても、胴体だけはぴくぴく動いている河沙魚のような、明瞭(はっき)りとした、動物的な感覚だけが、千穂子の背筋をみみずのように動いているのだ。(『河沙魚』より)

 と、生々しく描いてみせたりもする。詩情とリアリティの並立は、芙美子文学最大の特質であり、美質といえるだろう。
 とにかく、彼女はほぼ自力で培った文章力と観察眼だけを武器に世に出て、道なき道を切り開いていった。
 かっこいいなあ、と思う。
 そんな彼女の葬式もまた、かっこよかった。なにせ、作家冥利につきる超胸熱の展開が繰り広げられたのだから。

四面楚歌の中で、ひとり

 が、その話をする前に、まずは彼女の死に際から見ていこう。
 林芙美子は昭和26年6月28日、47歳の若さで突然死している。
 直接の死因は、持病の心臓弁膜症が悪化した末の心臓発作。だが、悪化を招いた原因は、あきらかに過労とタバコとヒロポンによる薬害だった。
 ヒロポンとは大日本製薬(現在の大日本住友製薬)が昭和16年から販売を始めたメタンフェタミン系覚醒剤の商品名で、昭和26年までは普通に薬局で買えた。つまり、違法薬物ではなかったのである。「疲労がポンと取れる」というので付けられた商品名だそうだが、そんな軽いノリで覚醒剤が使われていた時期が、かつての日本にはあったわけだ。
 使用者は主に寝る間も惜しんで働かなければならない人たちだった。そして、芙美子はまさに「寝る間も惜しんで働く」代表選手のような生活をしていた。売れっ子作家として、文章製造マシーンのようにフル稼働していたのだ。
 その仕事ぶりは、本人の弁によると次の通りである。

「わたしね、タバコ中毒よ、日に五十本」
と言って(光)の赤い箱を出して一本口にくわえるのだった。そしてまた、
「わたしは夜中二時ごろ書き出すの……夕御飯食べるとすぐ八時頃寝ちゃうんですよ、そして一時頃起きて濃ゆいお茶飲んでタバコ吸ってそれから始める、そのまま朝まで起きているのよ」(吉屋信子『自伝的女流文壇史』より)

 こう語ったのは死の8日前だ。『婦人公論』誌に掲載される女流作家座談会の収録の言葉を、親交のあった吉屋信子が記したものだが、この時すでに心臓の状態はかなり危機的だった。料亭の階段を上がるだけでも息切れし、途中で一休みしなければならないほど衰弱していたそうだ。
 しかし、あろうことか、座談会の出席者は「いま階段で休んでいられます」との記者の報告を聞いてもただ笑うだけだったという。死ぬほど悪いとは思っていなかったからだと吉屋は言い訳のように書いているが、ちょっと眉唾だなあと私は思う。
 なぜなら、昭和25年頃にはすでに、芙美子の体が相当まずいことは誰の目にも明らかだったというからだ。座談会に出席した面々は、たびたび芙美子に会い、息切れや激しい動悸に苦しむ姿を目の当たりにしていた。それなのに、誰一人として芙美子の体を気遣わなかったのである。
 この出席者たちの態度に、当時芙美子が文壇で置かれていた立場の厳しさを感じざるをえない。
 芙美子は、我の強いいびつな性格ゆえに、周囲の人間とたびたび諍いを起こしていた。作品では過去の男をネタにし、赤裸々な暴露小説に仕立てた。また、他の女性作家が世に出ることを嫌い、何かと妨害工作をするとの噂もまことしやかに流れていた。
 結果、文壇きってのトラブルメーカー、性格の悪い嫌な女と見做されていたのだ。
 文壇というのは、狭い世界の中に、すでに一家を成した大作家から今で言うワナビ(死語?)的有象無象までがウヨウヨする世界だ。しかも血縁で結ばれている人々が案外多い。そんなミニマムな社会において、成り上がり者である芙美子への敵意は凄まじいものがあった。
 わかりやすい証拠がある。芙美子の死後6年経ってから出版された『文藝』誌のアンケート調査だ。編集部は作家たちに芙美子についてコメントを出させているのだが、その回答はもう散々。今では名も知られていないような純文学の作家さんたちが、実に冷ややかな、軽侮するような言葉を連ねているのだ。
 彼らは一様に言う。「林芙美子の小説に、文学的価値はない」と。
 だが、さぞ文学的価値があったのであろうその人々の作品は、今や図書館でも読むことが難しい。一方、芙美子の小説は未だに新装版が出版されるほど愛され、読み継がれている。草葉の陰で「ざまあみろ」と笑い転げる芙美子の姿が目に浮かぶようではないか。

キラキラ庶民と本物の庶民

 とはいえ、これはあくまでも結果論であって、野心家で自信家とされていた彼女自身の自己評価は、むしろかなり低くかったようだ。
「私の作品が私の死後残るなどとは思わないけれども、此『放浪記』だけは折にふれて誰かの共感を呼ぶに足るものであるとは自信を持っている」
 謙遜しているようで自信たっぷりの言葉に見えるかもしれないが、私にはこれが芙美子の本音であるように思えてならない。彼女は、本気で自分の文学を信じきれていなかったのではないだろうか。
『放浪記』は彼女に富と名声をもたらしてくれた大事な作品だ。だが、当時の左翼作家たちは「ルンペン小説」と貶(けな)した。ルンペン・プロレタリアート、つまりマルクス主義で言うところの労働者階級(プロレタリアート)と敵対する最底辺のクズが書いた作品だとレッテルを貼ったわけだ。
 左翼の首領である宮本百合子は、芙美子(と宇野千代)を指して、「その時代的な雰囲気だけをわが身の助けとして、婦人として、芸術そのものの発展の可能について思いめぐらさず、『女に生まれた幸運』やポーズされた『孤立無援』『詩情』を、文学の商牌としたことは、この人たちばかりの悲劇であるだろうか」と大変上からな物言いで評している。
 そんな宮本はプチブル階級育ちで、アメリカへの留学経験もあるインテリお嬢様だ。経済的にも文化的にも豊かな家の子女に生まれた幸運をフル活用して世に出て、共産主義の流行という時代的な雰囲気真っただ中の活動に参加し、社会的な孤立無援とは終生縁のなかった人だといえる。
 いずれにせよ、コンプレックスの塊で、他人からの評をすさまじく気にした芙美子が、こうした言葉に傷つかなかったわけがない。
 だが、文壇やインテリ層がなんと言おうと、大衆は芙美子の小説を強く支持した。
 文芸評論家の中村光夫は「林芙美子論」で「宮本百合子にとって、民衆はいわば思想の憧れの到達点であったに対して、林芙美子には、それは這いでなければならぬ泥沼であるとともに、もっとも、気兼ねなく振舞える故郷でもあったようです」と述べているが、けだし慧眼だ。
 頭の中でこさえた「哀れな庶民」もしくは「あらまほしき庶民」ではない、等身大の庶民が描かれていたからこそ、芙美子の小説は人気を得たのだ。その事実を誰よりも知っていたから、「ベストセラー作家」という地位は芙美子の承認欲求を満たす糧となった。
 だからこそ、彼女はなにがあっても書き続け、人気を得続けなければならなかったのだ。
 同時に、貧困への恐怖もまた、芙美子を馬車馬にした動機だっただろう。
 貧困とは単にお金がないことではない。
 自分が稼げなくなったが最後、人生が一瞬にして詰んでしまう状態こそが、真の貧困だ。ちょっとぐらいお金がなくても実家筋が太いなら、それは貧困とは呼べない。
 芙美子は夫と養子、老母を扶養するだけでなく、親族一同の面倒も見ていた。一家どころか一族の大黒柱だった芙美子が折れてしまうと、すべてが the end になる。そんな状況の怖さを「貧しいながらも明るい我が家」的プロレタリアートにロマンを感じるお坊ちゃん、お嬢ちゃん方が理解できるはずがない。
 貧苦の恐怖が骨身にしみている芙美子だからこそ、稼ぐことに執着したし、どんな仕事でも断らなかったのだろう。
 そんな、承認欲求と富への執着が、早すぎる死を招いたのだ。

過労死へ一直線

 昭和24年には肺炎で入院、医師からは静養を進められ、翌年からはたびたび療養のために熱海に滞在した。しかし、そこでも筆を休めることはなかった。遠方に取材や講演旅行にも出かけることも多かった。私は今、芙美子の享年と同じ年頃だが、年々無理がきかなくなってきているのを実感している。だからこそ、わかるのだ。芙美子のこんな生活が長く続いたはずがない、と。
 実際、芙美子自身、かなり強く死の影を感じていたらしい。

私はあと幾年も行きてはいられないような気がしている。心臓が悪いので、酒も煙草も停められているのだけれども、煙草は日に四五十本も吸う。酒は此頃飲まないことにしている。(『椰子の実』より)

「もう自分は晩年だと思っていますからね。いつ死ぬかも分からないしね。」(NHKラジオ「若い女性」での発言)

 死の予感は、小説にも色濃く反映された。

義雄が散薬をこぼすと、繁は大きい眼をむいて、「俺を殺したいのかッ」と云って怒った。繁は最後まで、自分の軀(からだ)を投げる気はしていない。何とかして、死神の注視からはぐれたかった。生きたかった。「その薬の包み紙を捨てるなッ」と云って、繁は神にこびりついた薬をぺろぺろと色の悪い舌でなめた。大粒な涙をこぼしながら、「命の薬なンだ。俺はいま死にたくない。この命の薬を半分もこぼして、俺を不憫だとは思わないのかッ。ひらってのませてくれ……」泣きながら、痩せた手を出して、繁は、枕にこぼれた散薬をすくうような格好をしていた。(『夜猿』より)

ゆき子は、このまま死ぬのではないかと思った。分裂した、冷い自分が、もう一人自分のそばに坐って、一生懸命、死神にとりすがっているのだ。死神は、ゆき子の分身の前に現存している……。この女の肉体から、あらゆるものが去りつつあるのだと宣(の)べて、死神は、勝利の舞いを、舞っているようでもあった。(『浮雲』より)

 この鬼気たるや。
 浅ましいまでに生に執着する男と死神の気配に慄(おのの)く女。どちらも芙美子の姿ではなかったか。
 そして、芙美子は死神に絡め取られた。
 その死に際に関してはいくつか異説があるのだが、雑誌の取材から帰宅したあと、夜10時を過ぎた頃に発作を起こし、2~3時間苦しんだ後、夜中1時過ぎに亡くなったという流れは一致している。
 告別式は7月1日、新宿区中井にある自宅にて執り行われた。
 これが、芙美子畢生(って、もう死んでいるが)の大舞台となった。
 葬儀委員長はあのノーベル文学賞作家(この時はまだ受賞前)川端康成が務め、こんな弔辞を述べた。

「故人は自分の文学生命を保つため、他に対しては、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、あと2、3時間もたてば故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか、この際、故人を許してもらいたいと思います」

 どう思います? 普通、葬式でこんなこと言います?
 参列者はこの弔辞を聞いてすすり泣いたと伝わるのだが、私がもし芙美子の友で、その場に居合わせたら、確実に怒っただろう。「あんた、それが葬儀の場でいう言葉かよっ!」と怒鳴りつけるかもしれない。
 だが、その場では誰も憤る人はいなかった。
 文壇は、最後まで芙美子を「嫌われ者の放浪者」として扱ったのだ。
 しかし、それで終わる芙美子ではなかった。
 仇を取る人たちが、門前に詰めかけていた。焼香を望む一般参列者が、黒山の人だかりとなっていたのだ。
 ファンはもちろんのこと、近隣の主婦や商店主など普段から付き合いをしていた人々が押すな押すなの勢いだったという。買い物かごをぶら下げたまま、あるいは子を背負ったまま、みんな取るものも取りあえず駆けつけたと思しき普段着姿だった。
 中には深川など、東京の東側からやってきた人たちもいたという。今でこそ深川から中井までは地下鉄大江戸線で一本だが、交通事情の悪い戦後すぐのことだ。よほど強いモチベーションがなければ赤の他人の葬式に来られるものではない。また、参列者は圧倒的に女性が多かった。
 文士の葬式慣れしていた川端も、この光景を前にして心底驚いていたという。当時の川端は文壇の葬儀委員長のような立場で、葬式を数多(あまた)執り行っていたが、そんな彼でも未経験の事態だったのだ。
 葬式で派手にdisられた芙美子に代わって、ファンたちが一矢報いたのである。
 あんたたちがなんと言おうと、私たちは彼女の小説が、そして彼女が大好きなの、と。
 芙美子文学の真価が示されたこの瞬間を、文壇やジャーナリストのお歴々はなんと見たのだろう。
 中村光夫は芙美子の死を「作家としての名声の絶頂で死ぬという或る意味で類の少ない幸運に恵まれた」と書いている。
 しかし、私はそうは思わない。芙美子の小説家としての本領は、これから発揮されるはずだったからだ。戦後の代表作とされる「晩菊」と、死の直前の書かれた諸作品を比べても、たった二年ほどで小説技術は格段に向上している。書けば書くほど手応えを感じる、作家として脂の乗った季節をまさに迎えようとしていたところだったのだ。
 芙美子自身、死を予感しつつも、「長生きしてボロボロになるまで生きたい。六十七十になったときに、満足のいく作品が書けるようになると思う」と発言している。
 絶対、死にたくなかったはずだ。
 なのに、養生する心の余裕も持てず、文字通り仕事に殉じてしまった。
 最初に述べた通り、芙美子の死は明らかに過労死だ。しかし、近頃の過労死とは違い、自ら選んだ働き方だから意味合いが違うのではと感じるかもしれない。
 だが、彼女は、文壇の悪意から身を守り、自分を保つために、働き続けるという選択肢を選ぶしかなかった。人は過労死するのでない。過労死させられるのだ。芙美子をそこまで追い込んだものの正体を考える時、私は「過労死」の真の怖さを感じる。
 タフのようで、愛に飢え他者に怯え続けた作家は、文壇という狭い世間に殺されたようなものだった。そこに、社員を死なせる現代のブラック企業に相通ずるなにか、人間社会が抱える宿痾(しゅくあ)があるのかもしれない。

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  • みんなの感想

    三浦邦雄

    この度この文章を読んで、林芙美子のことをよくわかった。
    小説家を志す者の1人として、大変尊敬する。

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    マキシマトシコ

    親戚いちどうの世話はやり過ぎ。高峯秀子さんも。人助けも、程々にしないと。稼ぐのも、程々に。途中で止める勇気を!

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