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第13回

芥川龍之介――誰よりも早く「現代人」になった男の死(後篇)

2019.10.04更新

読了時間

 『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
「目次」はこちら

 

 前篇ではややプライベート寄りの「遺書」を中心に、芥川が遺した自死の「言い訳」を見てみた。
 では、公表を意識して書いたであろう「或旧友へ送る手記」ではどうなっているだろうか。ちなみに「或旧友」とは第一高等学校時代からの友であり、第三次『新思潮』の創刊仲間である久米正雄を指すといわれている。他にも菊池寛や小穴隆一などの友人や家族親族に宛てた遺書を複数残しているのが、いかにも心配性かつ八方美人の気性を感じさせる。死を前にしてもあっちこっちに気を使うんだから、そりゃ神経衰弱にもなろうよ、というのが正直な感想だ。
 さて、再度の引用になるが、「或旧友へ送る手記」は次のように始まる。

 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであろう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はっきりこの心理を伝えたいと思っている。


 この手記が書かれたのは死の二ヶ月ほど前、他の友人向け遺書を書いたのとほぼ同時期とみられる。少なくとも平松麻素子との心中未遂を起こした47日以降であることは間違いない。
 書中、まず表明されるのが、自分は作家としての自尊心や自身に対する心理的興味を失ってはいない、という点だ。失っていないから、ともに「はっきりこの心理を伝え」ることができるわけだ。
 これはつまり、「私は文学的負け犬ではない」と宣言しているに等しい。人間心理に対する興味こそ、いわば文学者の核のようなものだからである。
 しかし、内情といえば、大正11年(1922)頃から続いた体調不良が執筆に深刻な悪影響を与えていた。
 スランプの直接的な原因は薬物の過剰摂取だと思われる。睡眠薬に頼らなければ眠れないので量が増える一方だが、飲みすぎれば覚醒時にも影響が残る。頭がうまく働いてくれないのも道理だ。この問題を解決するには、適切な服薬管理と規則正しい生活の維持が不可欠だが、睡眠薬に頼らざるをえないほどの不眠に陥る人間にそれを求めるのはほぼ不可能というもので、この状況は一度落ちたら中々這い出せない蟻地獄なのだ。桑原々々。
 いずれにせよ、書けない小説家のお先は真っ黒クロスケである。それでなくても扶養家族が多い芥川だ。筆一本で稼いで稼いで稼ぎまくらなければならないのに、体と心がついてこない。アイデアは浮かぶ。しかし、一つの作品にまとめ上げるのが以前より困難になってきた。とはいえ、寡作な作家に比べたら十分な仕事量をこなしているのだが、そこはプライドの高い彼のこと、雑文売文は仕事にカウントしたくなかったのだろう。
 そうこうしている間に、文学では新しい潮流が芽生え始めていた。
 プロレタリア文学の勃興だ。
 大杉栄が大正6年、『新しき世界の為の新しき芸術』と題した檄文のような評論を発表したのに端を発し、大正デモクラシーの影響下にある一部インテリ間で盛り上がっていた「民衆芸術」が先鋭化、芸術による民衆の教化という上意下達ではなく、民衆そのものが芸術授受の主体であるべきだとする機運が高まっていったのだ。
 そして、大正10年に小牧近江らが同人雑誌『種蒔く人』を創刊してプラットフォームが用意されると、社会主義的な思想を持つ知識人や文学者が次々と論を発表し、既存の文学や芸術への批判を展開していった。
 その矢面に立たされた一人に、芥川は含まれていた。彼らは芥川文学を高踏的・衒学的――つまり上から目線の嫌味な貴族趣味文学と断じ、あれこれ難癖をつけたのである。
 しかし、実のところ、芥川自身はむしろプロレタリアートに近い中産下層階級の出身であり、また本人もそれを強く自覚していた。
 たとえば自らをモデルにした小説「大導寺信輔の半生」では、出自についてこう書いている。

 大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院の近所だった。彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。美しい家も一つもなかった。殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。それ等の家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。おまけに又その道の突き当りはお竹倉の大溝だった。南京藻の浮かんだ大溝はいつも悪臭を放っていた。彼は勿論こう言う町々に憂欝を感ぜずにはいられなかった。しかし又、本所以外の町々は更に彼には不快だった。しもた家の多い山の手を始め小綺麗な商店の軒を並べた、江戸伝来の下町も何か彼を圧迫した。彼は本郷や日本橋よりも寧ろ寂しい本所を――回向院を、駒止橋を、横網を、割り下水を、榛の木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。それは或は愛よりも憐みに近いものだったかも知れない。が、憐みだったにもせよ、三十年後の今日さえ時々彼の夢に入るものは未だにそれ等の場所ばかりである…………
(「大導寺信輔の半生 一 本所」より )

 

 信輔の家庭は貧しかった。尤も彼等の貧困は棟割長屋に雑居する下流階級の貧困ではなかった。が、体裁を繕う為により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だった。退職官吏だった、彼の父は多少の貯金の利子を除けば、一年に五百円の恩給に女中とも家族五人の口を糊して行かなければならなかった。その為には勿論節倹の上にも節倹を加えなければならなかった。(中略)
 信輔はこの貧困を憎んだ。いや、今もなお当時の憎悪は彼の心の奥底に消し難い反響を残している。彼は本を買われなかった。夏期学校へも行かれなかった。新らしい外套も着られなかった。が、彼の友だちはいずれもそれ等を受用していた。
(「大導寺信輔の半生 三 貧困」より )


 要するに、小牧近江のようなロマン・ロランかぶれのブルジョワぼっちゃんより、よほど下層階級と、そこに紙一重で隣接する階級の現実を知っていた、というよりも身に染み付いていたのである。
 そんな人間が、己の才覚一つで、どうにかプチブル程度には成り上がった。
 結果、生じたのは社会的浮草のような自分だった。
 高い教育を受け、インテリゲンチャとしての我を一度でも獲得してしまうと、もう無学な人々と同じ空気は吸っていられない。同時に、再びそこに転落してしまうことへの強い恐怖心が生じる。
 一方、ドブの臭いに懐かしさを感じる体では、生まれついてのブルジョワジーに同化するのは到底無理。成金のような俗物は言うまでもなく論外である。
 要するに、下層/中産下層階級出身のインテリ&プチブルというのは、どの社会階層にも所属することができない、おっそろしく半端な生きものなのだ。
「大導寺信輔の半生」が書かれたのは大正13年(発表は大正141月)だが、この少し前、芥川は社会主義の文献を原著で読み漁っていたという。そして、プロレタリア文学にも接し、一部の作品は高く評価していた。似たような境遇の菊池寛がプロレタリア文学に対して鋭い対立姿勢を見せたのとは対象的だ。
 しかし、最新の潮流上に新しい居場所を見出すことはできなかった。
 先端だったはずの自分の文学が、いつの間にか時代に取り残されているのかもしれない。
 創作意欲の減退に悩む芥川にとって、これは文学者としてのレーゾン・デートルに関わるインシデントに感じられた……というより、必要以上に感じてしまったのが、自死への最初の門になったのではないだろうか。
 自分が時代遅れになっていくという実感は、創作者にとって恐怖以外の何者でもない。とりわけ、一度でも「時代の寵児」を経験した者には一層残酷なものになる。
「或旧友へ送る手記」は附記として書かれた次の一文で終わる。

僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としているものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だった。


 エムペドクレスとは紀元前5世紀頃に活躍したギリシャの哲学者・エンペドクレスのことだ。エンペドクレスは万物の源を不生不滅の四元素である地水火風とし、それらが愛と憎の力によって四段階に流転し現出したのがこの世であると主張した。思想家としてのみならず、政治家や医師、さらには奇跡を起こす人としても活躍した多能な人物だったそうだが、最後は自ら神とならんがために、エトナ火山の火口に飛び込んで死んだとされている。
 若き日の芥川は、自分も文学の神になりたいなあ、なれるかもしれないなあと考える程度に気概も野心もあったし、己の才を頼りにもしていた。だから、職業作家という火口に飛び込んだ。
 しかし、火口の底にあったのは神の庭ではなかった。ただの現実社会だった。金を稼ぐ上で人と交際し、有名になるに従って名士としての振る舞いを求められた。いつも毀誉褒貶にさらされ、有名税も払わされた。文壇のいざこざにも巻き込まれた。近代的火遊びの相手からは思わぬ痛手を受けた。
 そんなあれこれに前に右往左往するしかない自分。
 文学の神だなんてとんでもない。自分とて生活に翻弄される大凡下の一人にしか過ぎなかったのだ。
 そんな自覚が芥川の内に起こったのは、30歳を前にしてのことのようである。しかし、その時はまだ大凡下なりにも時代の寵児、最先端の文学者としては生きていけるはずだった。
 ところが、それすら危うくなるかもしれないと感じてしまった時、芥川の精神は死へのpoint of no returnを超えてしまったのではないかと思うのだ。
 しかし、大正15年にはまだ生活を立て直そうとする意志はあった。年間を通じて転地療養を繰り返し、死の誘惑にさらされながらも、これを退ける努力をした。秋に鵠沼で妻と末子の三人、親子水入らずの生活をしたことは思わぬ「生活の喜び」を芥川に与えたらしい。
 だが、もう遅かった。幻覚や希死念慮は亢進し、薬物の大量摂取は養生どころか心身を痛めつける大きな要因となっていったのだ。

多事・多病・多憂


 芥川の精神崩壊に追い打ちをかけたのが、経済的不安と仕事上のトラブルだった。
 大正151225日に大正天皇が崩御。一週間だけの昭和元年が明けた昭和214日。芥川家にも漂っていたであろうお屠蘇気分を吹き飛ばす事件が発生した。
 龍之介の実姉・西川ヒサの家が半焼したのだ。さらに二日後、姉の夫である豊が千葉県の山武郡にある土気トンネル付近で列車に飛び込み、細切れ死体で見つかった。保険金目当ての放火を疑われての自殺だった。弁護士だった豊は数年前に偽証事件を起こして有罪となり、執行猶予中の身の上だった。そんな時、多額の火災保険をかけた直後に火が出たことで、疑いの目がかかったのである。

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。
(「或阿呆の一生」より)


 親族が衝撃的な死を遂げたからではない。思いがけず新たな扶養家族がのしかかってきたからだ。

彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかった。彼の将来は少くとも彼には日の暮のように薄暗かった。
(「或阿呆の一生」より)


 表向き、芥川は経済的余裕のある職業作家だった。しかし、妻と幼い子ども三人に加え義父母と伯母を筆だけで食べさせていくのは容易なことではない。今は人気作家ゆえ、やれ講演だの揮毫だのと副収入も少なくないが、それが永続的に続くとは限らない。それなのに負担ばかりが増えていく……。
 前篇にも書いた通り、芥川は「ちゃんとした人」であろうと鋭意努力していた。文章上こそ冷淡なニヒリストの顔を見せるが、実生活では封建的家父長制の中で定められた役割を忠実に果たしていたのだ。家父である以上、姉とその子たちの面倒を見ないという選択肢はなかった。
 さらに、義兄の死はもうひとつのインパクトを芥川の精神にもたらした。
 “不気味な符号”である。
 それについて詳細に記述されているのが「歯車」、芥川の最高傑作との呼び声高い遺稿だ。書かれているのは、死への道程、とりわけ日常の些細な出来事に一々死神の影を見いださざるを得なかった最晩年の心象風景である。いや、心象風景と表現したら叱られるかもしれない。彼にとって、ここに綴ったことは紛れもない現実だったのだろう。
 作品は、こんな風に始まる。

一 レエン・コオト
 僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両側は大抵松ばかり茂っていた。上り列車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。彼は棗のようにまるまると肥った、短い顋髯の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。
「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るって云うんですが。」
「昼間でもね。」
 僕は冬の西日の当った向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せていた。
「尤も天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって云うんですが。」
「雨のふる日に濡れに来るんじゃないか?」
「御常談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だって云うんです。」
 自動車はラッパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになった。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。すると果して上り列車は二三分前に出たばかりだった。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。が、ちょっと苦笑したぎり、兎に角次の列車を待つ為に停車場前のカッフェへはいることにした。


 長いが、冒頭の一節を丸々引用した。本節には以後延々繰り返される本作の構造が明確に示されているからだ。
 本作では、まずは符号となる言葉が表れ、それが実体化し、そこに意味が付加されるパターンが繰り返される。
 その最初の一手が「レエン・コオトを着た幽霊」で、そこから記号化する「レエン・コオト(レイン・コート)」は幽霊を介しているがゆえに「死」の直喩に近い暗喩であり、昼夜隔てずどこにでも現れることで死を常に意識させるメッセンジャーとして機能する。
 最初の「レエン・コオト」は僕=芥川が東京に帰る時に姿を見せる。つまり、これが死出の旅立ちを描く物語であることが示されているのだ。しかし、この時点での「僕」は、「レエン・コオト」にさほど深い意味を感じてはいない。
 次に「レエン・コオト」が出てくるのは、汽車の次に乗り換えた省線(注1)の車両の中だ。偶然出会った友人と話をしていると、向かいの席にレエン・コオトを着た男が腰を下ろしたのだ。二度目の「レエン・コオト」に少し不気味さを感じるも、話をしているうちにいつの間にか男は姿を消していた。
 この話の最中に、タイトルにもなっている歯車の幻視が初めて描写される。非常に重要なガジェットなのだがが、ここでは触れずあえて先に進みたい。
 遅れて参加した知人の結婚披露式が終わり、僕はそのままホテルに投宿する。そして、安らぎのひと時を持とうとロビーに赴き、腰をおろした椅子の隣のソファの背に「レエン・コオト」が脱ぎかけてあるのを見つける。
 三度目の遭遇に神経を圧迫された「僕」があわてて部屋に戻ったところ、義兄の死を告げる電話が入ってくるのだ。

 そこへ突然鳴り出したのはベツドの側わきにある電話だった。僕は驚いて立ち上り、受話器を耳へやって返事をした。
「どなた?」
「あたしです。あたし……」
 相手は僕の姉の娘だった。
「何だい? どうかしたのかい?」
「ええ、あの大へんなことが起ったんです。ですから、……大へんなことが起ったもんですから、今叔母さんにも電話をかけたんです。」
「大へんなこと?」
「ええ、ですからすぐに来て下さい。すぐにですよ。」
(中略)
 僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れていない或田舎に轢死していた。しかも季節に縁のないレエン・コオトをひっかけていた。


「レエン・コオトの幽霊」の話を聞いたその日、季節外れのレイン・コートを着た義兄が死んだ。
 これによって「レエン・コオト」は死の象徴として「僕」の中にしっかりと根を下ろす。
 関係妄想の始まりだ。関係妄想については、大辞泉の「自分の周囲で起こる、実際には自分と無関係ないろいろの出来事を、すべて自分に関係づける妄想」という説明がもっとも端的でわかりやすいだろう。
 義兄の死の発覚後も、「レエン・コオト」は二度現れる。
 一度目は姉との会談を終えてから精神病院で診察を受けた直後、二度目は静養先の家に帰る途中。そして、「レエン・コオト」を見るたびに墓場や葬列といったわかりやすい死の記号が目に飛び込んでくる。つまり、死神の目的は義兄から自分に移り変わったわけである。
「僕」の関係妄想は動物や色彩、数字にも広がっていく。偶然耳に入ったフレーズや目に止まった文言が、辻占の託宣のように思えてくる。意識の中で客観は完全に主観と地続きになって、世のすべてが自分の死を示唆するという妄想だけが真実になっていく。
「僕」の世界において偶然は認められず、出来事のすべては自分の運命に直結しているのだ。
 これはある意味、自分が世界の神になった状態といえるだろう。世界のすべては自分のためにあるのだから。
 狂気に陥ることで、「僕」は世界の神になっていく。しかし、それは死よりも恐ろしい末路だ。
 唯一の安全地帯は、妻子がいる鵠沼の家だけだった。

 やっと僕の家へ帰った後、僕は妻子や催眠薬の力により、二三日はかなり平和に暮らした。僕の二階は松林の上にかすかに海を覗かせていた。僕はこの二階の机に向かい、鳩の声を聞きながら、午前だけ仕事をすることにした。鳥は鳩や鴉の外に雀も縁側へ舞いこんだりした。それも亦僕には愉快だった。


 死を告げる記号に満ちた外界と、唯一切り離された場所。だが、そこにも……。
 名作文学でさえあらすじを最後まで書くと「ネタバレ」と叱られるご時世なので、ここで留めておく。
 だが、未読ならばぜひ読んでいただきたい。芥川が狂気を深めていくスイッチの役割を果たす「歯車」の描写(正体は脳の血管の収縮によって起こる閃輝暗点という視覚障害なのだが)、またラスト近くの畳み掛けるような「死」の関係妄想が次々と現れるシーンなど、その緊迫感ある筆致は極めて映像的かつモダンで、非常に読み応えがあるからだ。就中、ラストシーンは恐怖小説としても非の打ち所がない。
 小説家として一枚も二枚も皮がむけた作品が、ここにある。
 だが、その完成は死と引き換えだった。
 というよりも、この作品を書くことで、芥川は自らの死を固定化してしまったのではないかと私は考えている。
 ものを書く習慣がある者ならば誰でも心当たりがあると思うのだが、自分の感情を文章に写すという行為には、発散と固定という二つの効果がある。
 ちょっとした鬱屈は、書くことで雲散霧消する。
 ところが、一度で発散しないからと何度も何度も繰り返し書き続けると、感情は固定し、より強固なものとして固着していくのだ。
 以下、少々本論とは離れた話になるが、ちょっとお付き合いいただきたい。
 人の意識や感情は記憶によって支えられている。つまり人間の総体即是記憶ともいえるわけだが、記憶の主幹はもちろん脳細胞であり、無茶苦茶雑に説明すると、記憶は脳細胞内にある個々の記憶細胞が神経ネットワークによって結び付けられたグループに蓄えられている。このグループに電気信号が走ることで脳に記憶が蘇るのだ。
 ところが、記憶が蘇った後、構成する脳神経ネットワークは一度バラバラにされ、再構成して新たな記憶細胞グループを形作り、そこに再格納されるのだそうである。つまり、記憶は形成→使用→解体→再形成という過程を何度も繰り返しているのだ。
 なぜこんなしちめんどくさいことをやるのか、それはまだわかっていないそうだが、いずれにせよこの仕組みのおかげで記憶は鮮度を保てる一方、再形成時のエラーで記憶改変が発生してしまうことがままあるらしい。
 もし、このエラーが「記憶=意識」をひたすら補強する方向に働いたらどうなるか。些末な記憶は適当に改竄され、死にたいという気持ちのみがどんどん増幅していく。結果、希死念慮が固くなっていくのではないかと私は思っている。
 記憶、もしくは認識の曖昧さについては、芥川も自覚的だった。代表作である「藪の中」は、今では事件の当事者たちが相互に異なる証言を繰り広げる様を描いている。「記憶」の曖昧さ、というか主観によってどうとでも変わるいい加減さは、身にしみていたのだろう。もっとも、この作品は秀ひで子が自分以外にも愛人を持っていたことにショックを受けて生まれたとも言われているが。
 まあ、その部分は不問にするとして、芥川は「自分を小説に落とし込む」という作業を繰り返すことによって、希死念慮を固定化していったとしか思えない。書くことで救われるのが素人なら、玄人は書くことで己を壊していくのかもしれない。

狂うぐらいなら、死のう


 義兄の死の後始末は2月半ばまで続いたが、その間も執筆の手を止めることはなく、「玄鶴山房」や「河童」を書き上げている。それが終わると、改造社から出た『現代日本文学全集』の宣伝に駆り出され全国を巡ることになったのだが、同時に谷崎潤一郎との文学論争を誌上で派手にやっている。もっとも、この論争はむしろ芥川にとっては気晴らしになったのではないかと思うのだが。小品もいくつかものした。
 内実を知らなければ、実に順風満帆な作家生活だ。
 しかし、この間も芥川の幻視や幻聴、関係妄想は強くなる一方だった。
 4月7日には妻の友人で、秘書のようなことをさせていた平松麻素子と心中しようとして、失敗に終わっている。この心中未遂に関しては、滅多なことでは怒らない妻・文も本気で怒った。文曰く、「はじめて劇しい怒りが湧いて来て、主人をはげしく叱りつけました」のだそうだ。その剣幕に、芥川は涙を流して謝ったという。
 この心中未遂に関して、芥川はこう述べている。

しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着していた。従って死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。(中略)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言っても女人である。(中略)唯僕の知っている女人は僕と一緒に死のうとした。が、それは僕等の為には出来ない相談になってしまつた。そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。
(「或旧友へ送る手記」より)


 なんとまあ勝手な。飛び込み台扱いされた麻素子もたまったものではないだろう。彼女は賢明にも心中を思いとどまり、文にすべてを打ち明け、その結果未遂に終わったのだったが、これをきっかけに芥川は死ぬのをやめるのではなく、一人で死ぬことを決めてしまう。
 ここまで芥川を死に固執させたのは、何だったのだろう。
 答えは、芥川自身が書いている。
 発狂への恐怖だ。
 実は、芥川の実母は芥川を生んだ8ヶ月後突然狂気に陥り、衰弱した末に若くして死んでいる。母を失った時、芥川は10歳だった。精神病院に入院する母を見舞う時に見た狂人の姿は、幼い芥川に狂気への恐怖を植え付けた。そして、狂人の子と思われることを極端に恐れるようになった。
 狂気は、彼にとってもっとも忌むべきものだったのだ。(嫌悪していたしげ子を「狂人の娘」と表現しているのを思い出してほしい)。
 自伝的小説の数々でも実母の末路は伏せていた。
 しかし、「或阿呆の一生」では暴露している。死を決意し、もう隠す気もなくなったのだろう。
 芥川は己が狂人となる未来を予測していた。「河童」も「歯車」もその恐怖から生まれた小説だ。
 そんな時、ダメ押しとなる事件が発生した。5月末に友人の作家・宇野浩二が発狂したのだ。宇野は作家仲間の配慮により精神病院に入院できたが、その姿を見た芥川はこう思ったことだろう。
「次は、自分だ」
 最後の望みはキリスト教だった。聖書を読み込み、光を探した。「西方の人」「続・西方の人」はその成果であるが、読めば芥川が光を見出すのに失敗したことが一目瞭然である。
 キリストを始めとした聖書の登場人物をひたすら分析し続ける姿勢は、作家としては正しかろうが、救いを求める人間としては完全に誤りである。救われたければ信じるしかないのだ。だが、信仰に走れるほどの精神力はもはやなかったのだろう。

 彼はすっかり疲れ切った揚句、ふとラディゲ注2)の臨終の言葉を読み、もう一度神々の笑い声を感じた。それは「神の兵卒たちは己をつかまえに来る」と云う言葉だった。(中略)彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出来なかった。あのコクトオ(注3)さへ信じた神を!
(「或阿呆の一生」より)


 唐突だが、小沢健二の名曲「天使たちのシーン」の中に、「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」という歌詞があるのだが、これこそが最晩年の芥川の素直な気持ちだったのではないだろうか。
 前篇にも書いた通り、芥川の死の原因に関しては百家争鳴状態だ。
 ある者は敏感な芸術家の魂が帝国主義日本を滅亡に導いた社会劣化の気配を敏感に感じ取ったからだというし、ある者は近代から現代に移りゆく世相に絶望を感じたからだという。またある者は、芥川の死を純粋に文学的自殺と断ずる。
 だが、私はどの論にも与すことができない。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであろう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。(中略)自殺者は大抵レニエ(注4)の描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。
(「或旧友へ送る手記」より)


 芥川の自殺の原因は、本人が書いている通りだ。
 生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛のすべてが重なった結果、死か狂気かの選択肢しか自分には残されていないと思い込み、「取捨選択の結果としての死」に導かれてしまったのだ。
 それは、言葉のエキスパートたる文豪が「ぼんやりした不安」としか表現できないほど曖昧模糊としていた。
 しかし、一つだけ芥川は自分自身にも嘘をついていたように思う。
 すべての不安の核となったのは、「自己の創作力への不安」だったことを。
 残った最後の自尊心は、「創作者」としての自分が脅かされていることだけはどうやっても認めることができなかった。認めてしまえば、己は文学的負け犬になるしかない。
 だから、死を前にしてあらゆる「死の理由」――経済面から母由来の狂気への恐怖まで――を自ら進んで開陳してみせた。核が見えないよう、覆い隠すために。しかし、隠しきれるものではなかった。
 晩年の代表作の一つ「河童」にこんな場面がある。

「わたしはこの間もある社会主義者に『貴様は盗人だ』と言われた為に心臓痲痺を起しかかったものです。」
「それは案外多いやうですね。わたしの知っていた或弁護士などはやはりその為に死んでしまったのですからね。」
(中略)
「その河童は誰かに蛙だと言われ、――勿論あなたも御承知でしょう、この国で蛙だと言はれるのは人非人と云う意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へているうちにとうとう死んでしまったものです。」
「それはつまり自殺ですね。」
「尤もその河童を蛙だと言ったやつは殺すつもりで言ったのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺と云う……」


 こんな問答がなされた直後、芸術家の河童が自殺を遂げる。

 僕等はトックの家へ駈けつけました。トックは右の手にピストルを握り、頭の皿から血を出したまま、高山植物の鉢植えの中に仰向けになって倒れていました。
(中略)
 哲学者のマッグは弁解するようにこう独り語を洩らしながら、机の上の紙をとり上げました。僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例外です。)幅の広いマッグの肩越しに一枚の紙を覗きこみました。
「いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やま水は清く、
 薬草の花はにほへる谷へ。」
 マッグは僕等をふり返りながら、微苦笑と一緒にこう言ひました。
「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れていたのですね。」


「この間もある社会主義者に『貴様は盗人だ』と言われた為に心臓痲痺を起しかかった」哲学者マッグ。そのマッグに「詩人としても疲れていたのですね。」と評された詩人トック。
 最先端思想を盾に糾弾されたマッグと創作に疲れたトック。芥川はこの二匹に創作者としての苦しみを投影させたのだ。遺書や自伝的作品では吐露できなかった「ぼんやりとした不安」の核を、河童に仮託することで表明したのである。
 芥川を殺したのは、彼を取り巻く「現実」のすべてだ。だが、「現実」を関係妄想によって殺し屋にしてしまったのは、芥川本人だ。
 あらゆる事象を関連付け、何度も記憶をなぞることで不安を自己増幅し続けた結果、精神崩壊を起こした末の自死。これほど現代的な死はあるだろうか。この文豪は、やはりどこまでも先駆者だったのだ。
 ところで、昭和恐慌が始まったのは芥川の死の2年後のことだ。さらに盧溝橋事件が10年後。数多の国民に無残な死を遂げさせた上に、国土をズタボロにされるという最悪の敗戦を迎えるのは18年後のことである。
 か細い神経を持つ者には到底耐えられそうにもない世の中になる前に、死んだ。
 それは、彼にとっては確かに賢明な選択だったのかもしれない。

注1:省線(しょうせん)
戦前の鉄道省(今の国土交通省)の管理に属した鉄道線と、そこを走る電車の略称。
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注2:ラディゲ
レイモン・ラディゲ/Raymond Radiguet19031923
フランスの小説家、詩人。14歳で最初の詩を発表、ジャン・コクトーと出会いにより当時最先端の芸術に開眼し、早熟な才能を発揮。19歳で『肉体の悪魔』を発表し、一躍時代の寵児となるが、20歳で腸チフスに罹り死亡した。
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注3:コクトオ
ジャン・コクトー/Jean Cocteau18891963
フランスの作家。詩・小説・演劇・映画・絵画などあらゆる分野で活躍した。前衛的な作風で同時代から後世にかけて大きな影響を及ぼす。代表作に詩「ポエジー」「鎮魂歌」、小説「恐るべき子供たち」、映画「美女と野獣」「オルフェ」など。
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注4:レニエ
アンリ・ド・レニエ/Henri de Régnier18641936
フランスの小説家、詩人。貴族の末裔でその作風は多分に幻想的神秘主義的であり、高踏派と象徴主義派の混交といわれる。詩に「水の都」「時の鏡」。小説に「深夜の結婚」「生きている過去」など。芥川が言及したのは森鴎外が訳した「不可説」と思われる。
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