Facebook
Twitter
RSS

第14回

小林多喜二――祖国に殺された男(前篇)

2019.10.25更新

読了時間

 『文豪』という言葉にどんな印象がありますか? ここ数年、文豪をモチーフにしたゲームやアニメの影響による『文豪ブーム』で、文豪の人柄に関心が高まっています。この連載では、文豪の末期、すなわち『死』に注目をします。芸術家は追い立てられるように生きて薄命な印象がありますが、文豪はどうなのでしょうか。『死』を見つめることは『生』を見つめること。それぞれの『死』から、多様な生き方を見ていきます。
「目次」はこちら

小林多喜二(こばやし・たきじ)
小説家。明治36(1903)年、秋田県生まれ。昭和8(1933)年、東京で特高警察に拷問され死亡。享年30。代表作に『蟹工船』『不在地主』『党生活者』など。

 

 今回取り上げるのは、プロレタリア文学の代表的作家である小林多喜二だ。
 先に明かしておくが、私はこれまでプロレタリア文学にはほとんど触れずにきている。
 若い頃は「貧乏くさい話は嫌だ」と読む前から拒否していた。唯一の例外は葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」だったわけだが、これはもうもっぱら幻想文学の文脈で読んでいた。
 数年前の蟹工船ブームの時には今更感もあり、なんとなく横目で眺めていただけだった。
 それが今回取り上げる気になったのは、ひとえにここ一、二年の風潮に強く思うところがあるからだ。私ほど鈍感な人間でも、まるで戦前の社会をなぞるかのように変質してきている今の日本に座りの悪さ、というよりも気味の悪さを感じざるを得ない。
 その気味の悪さの正体を暴くには、全体主義社会の犠牲になった人の死に様を知らなければならないだろう。
 多喜二は、これまでの連載の中で唯一「殺された」人だ。
 つまり、その死に様は自ら選んだものではない。
 よって、死に様を追うならば「殺した犯人」についてより詳しく見ていかなければならない。
 では、多喜二を殺した犯人は誰か。
 答えを言ってしまうと、直接手を下したのは東京にある築地警察署の警察官たちだ。彼らは殺意があったとしか思えぬ執拗さで残忍な拷問を繰り返し、一人の人間を死に至らしめた。
 だが、警察官たちに虐殺を許したのは誰だったのか。
 それは、治安維持法をみすみす成立させ、特高警察の無法にも見て見ぬ振りをした当時の人々、つまり「普通の日本人」というやつだ。
 多喜二の死に様を追うことは、日本近代史の暗部――というよりも恥部をつぶさに見ていくに等しい。私にとって、これほど気詰まりな作業はない。
 だが、21世紀に生きる日本人として、自分の三~五代前の先祖たちの過ちを再確認し、学びを得て後世に伝えることは一つの責務だろう。
 今回はこれまでのような饒舌体は封じることになる。というよりも、饒舌の出る幕がない。内容も固くなる。その点のみ、最初にお断りしておきたい。

多喜二が死んだ日――日本破局への第一歩

 

 昭和8220日、多喜二は特高警察によって逮捕され、その日のうちに拷問の末、殺された。
 なぜそんなことになったのかについては、後篇に詳述することにして、まずは文化史上、いや日本史上に残るこの愚行を生んだ当時の世相から振り返ってみたい。
 今回の場合、それが「死に様」に迫る第一歩になる。
 まず、昭和8年、西暦でいうと1933年はどんな年だったのだろうか。近代史の主な出来事を軸に見てみよう。

 

米騒動、第一次世界大戦の終結、初の政党内閣である原敬内閣の組閣から15年。
ソビエト社会主義共和国連邦の成立から11年。
関東大震災から10年。
治安維持法成立から8年。
昭和金融恐慌から6年。
当時非合法政党だった共産党の党員が一斉検挙された三・一五事件から5年。
世界大恐慌の発端となった「悲劇の火曜日」から4年。
柳条湖事件に始まる満州事変の勃発から2年。(ちなみに同年、婦人公民権案が衆議院で可決し、貴族院で否決されている。)
五・一五事件から1年。

 どうだろう。
 大正デモクラシーで一旦は手が届きそうになった自由な民主的社会が、羽が生えたように飛び去ってくまさに時期だったことがわかるのではないだろうか。
 ちなみに、2019年を起点に同じスパンで振り返ってみると下記の通りになる。

ザッカーバーグがFacebookを開設、小泉首相が北朝鮮を訪問し拉致被害者とともに帰国してから15年。
リーマンショックが発生、バラク・オバマが米国大統領に当選してから11年。
マイケル・ジャクソンの急死から10年。
東日本大震災から8年。
イチロー選手が日米通算で史上3人目となる4000本安打を達成してから6年。
ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国を編入、キューバと米国が国交正常化してから5年。
フランスのシャルリー・エブド襲撃事件から4年。
英国がEU離脱を国民投票で決めてから3年。
共謀罪(組織的犯罪処罰法)の成立から2年。

 比較することで、時間経過の感覚を掴んでもらえたのではないだろうか。
 次に、1933年当年の出来事とその時期に流行っていた文化について振り返ろう。

1月   日本軍が中華民国軍と交戦、山海関を占領。
    河上肇や大塚金之助などマルクス主義者の経済学者が検挙される。
    前年に選挙で大勝したナチス党の党首ヒトラーが独首相に就任する。
2月   長野県で共産主義の影響を受けた教員たちが一斉に逮捕される二・四事件が起こる。
    国際連盟が日本に対し満州撤退勧告を圧倒的多数で可決。
3月   三陸大地震発生。死者三千名を超える。
    フランクリン・ルーズベルトが米国大統領に就任。彼は日米開戦時の大統領である。
    日本、国際連盟脱退。
4月   京都帝国大学の瀧川幸辰教授が学生を赤化させたとして糾弾される。(滝川事件)
5月   日本軍の華北への侵攻始まる。
10月 ドイツが国際連盟脱退。
    ナチスのユダヤ人迫害から逃れるため、アインシュタインがアメリカに亡命する。
12月 昭和天皇の長男となる継宮明仁親王誕生(現在の上皇陛下)。

1933年のベストセラー
谷崎潤一郎『春琴抄』
南洋一郎『吠える密林』
西田幾多郎『哲学の根本問題――行為の世界』
(参考資料 澤村修治『ベストセラー全史』筑摩選書)

 1933年という年が、世界史的に見れば第二次世界大戦の芽がはっきりと顔を出した年であることがわかるのではないだろうか。そして、日本では思想弾圧が本格化した年といえる。
 この年のベストセラーは耽美小説と少年向け冒険小説、そして哲学書だ。一見、バラエティ豊かな出版がなされていたように見えるラインナップだが、プロレタリア文学や社会運動にまつわる書物がないことに注目してほしい。
 ちなみに多喜二の代表作である『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』が昭和四年、翌年には細田民樹の『真理の春』がベストセラーにあがっている。
 それからたった2年で、多喜二は死んだのだ。
 もちろん、これを急展開とはいうことはできない。その前から徐々に締め付けは強くなっていた。
 しかし、出版の自由が損なわれてから、作家が国家権力によって非合法に殺害されるまで3年間しかなかったという事実を前に、私は慄然とするしかない。社会は、私たちが思っているよりももっと早いスピードで変容していく。
 そして、それは21世紀の今も変わりない。

デモクラシーの敗北と社会の分断


 明治維新から約半世紀経った大正時代の日本は、国際社会の一員として迎え入れられ、それなりの存在感を示すようにはなっていた。それは同時に、外国で起った出来事に社会や経済が大きく影響を受けるようになったことも意味する。
 20世紀初頭、世界はまさに帝国主義の真っ只中にあった。そんな中、大正31914)年に勃発した第一次世界大戦は、イギリスやフランスなどの植民地を多数持つ国とドイツなどの海外利権を持たない国との間で起った、植民地や従属国の再分割を巡る戦いだった。
 4年間続いたこの大戦は、日本には棚ぼた式の勝利をもたらした。たまたま同盟していた各国の勝利したことで、ドイツが山東半島で有していた利権と南洋諸島を獲得したのだ。だが、1921年のワシントン会議においてせっかく濡れ手で粟だった山東半島を中国に返還するように求められる。
 なぜそんなことになったのか、簡単に言ってしまえば、日本の動きが西洋列強の容認できるラインを越えてしまったからだ。西洋列強にとってアジア地域でもっとも封じ込めたい敵はロシアであり、ロシア革命によって誕生したソビエト連邦であった。だから、西洋文明を受け入れ、資本主義と法治主義という近代西欧の価値観をともにする日本を暫定パートナーとして迎え入れていたのだ。
 ところが、日本は彼らが考えていた以上の利権を中国大陸に求め、拡大主義を取り始めた。
 西洋列強にしてみれば警備員として置いていたはずの小国が大国ヅラし始めたので、己の身をわきまえさせるつもりだったのだろう。日本の野心を早めに潰しておきたかったのだ。
 だが、気分はすっかり列強になりきっていた日本にとっては、いきなりはしごを外されたようなものだ。山東半島の利権は、彼らとの密約によって得たもので、後から取り上げられる謂れはない。
 国内に、西洋列強に強く出られない政府に対する不満が広がった。
 対外戦争の戦利において、日本人が失望するのは日露戦争に続き二度目だった。勝った勝ったと大騒ぎし、東洋の大国これに有りと夜郎自大に陥っても欧米諸国からは適当にあしらわれて終わり。肥大する一方の自意識と現実の国際的地位が釣り合わない。
 そのフラストレーションが日本の軍国主義化を国民が容認……というより、積極的に後押しする空気の素地になったことはよく知られている。
 しかし、大正時代にはむしろ社会の西欧化を急速に進めることで日本が文明国であることを証明し、そのソフトパワーで一流国になろうとする流れが優勢だった。大正デモクラシーの到来である。
 欧州の(当時としては)進んだ社会を我が目で見てきた上流階級やインテリ階級は、民本主義思想と議院内閣制に国家運営の範を求めた。
 法の下の平等や基本的人権の獲得など、個人の自由の最大化を目指す運動も盛んになった。国庫に負担をかける海外派兵の縮小も図られた。また、明治時代の藩閥政治から政党政治に移行したのもこの時期である。「憲政の常道」という言葉を学校で習った覚えはないだろうか。
 表面上、日本の政治は成熟しつつあるように見えた。若者を中心に盛んに社会主義が研究され、日本が健全なる法治国家になるためにはどうすればよいか議論された。
 有島武郎が“不在地主”である自身に悩んだのはこの頃だ。そして、有島武郎の盟友であり、自身華族階級だった武者小路実篤が「人間らしく生きる」「自己を生かす」社会を目指して宮崎県に「新しき村」を創立したのは大正7年のことである。
「人間らしく生きる」「自己を生かす」社会。それはあまねく人間にとって幸福を得るための最低限の条件であるはずだ。
 しかし、純然たる資本主義者には、そんな社会は痛し痒しである。利益を追い求めるなら民主主義より帝国主義のほうがよっぽど相性がいい。なんなれば資本主義は、究極には奴隷なくして成り立たない制度だからだ。

世の中は結局強え者がちだ。だから弱え人間はおとなしく働くより仕方ねえのさ。お前えのように無鉄砲が飛び歩いたって仕様ねえだろう、なあ、此の世の中は気ままを云ったって通らねえんだ。


 小林多喜二より十歳ほど年上のプロレタリア文学作家・宮地嘉六が「解放」誌に書いた一節だ。彼が見た封建的徒弟制度に支えられる職工の世界で「従順さ」を第一に置く価値観は、資本家のそれと一致する。

「源作、お前は今度息子を中学へやったと云うな。」肥った、眼に角のある、村会議員は太い声で云った。
「はあ、やってみました。」
「わしは、お前に、たってやんな云わんが、労働者(はたらきど)が、息子を中学にやるんは良くないぞ。人間は中学やかいへ行っちゃ生意気になるだけで、働かずに、理屈ばっかしこねて、却って村のために悪い。(中略)お前はまだこの村で一戸前も持っとらず、一人前の税金も納めとらんのじゃぞ。子供を学校へやって生意気にするよりや、税金を一人前納めるのが肝心じゃ。その方が国の為じゃ。」
(黒島伝治「電報」より)


 施政者や資本家がほしいのは仕事のことだけ考えて動いてくれる納税者という名のロボットである。人権だの自由だの、余計なことは考えてほしくない。パンとサーカスぐらいは与えるから、悩めるソクラテスよりも満足する豚でいてほしいのだ。

 その小林たちは、人たちの労働の上に、「搾取」などがあると云う事は、更にも思い及ばない処であった。
 彼らは云っていた。
「だんだん、暮らしがむずかしうなる。どう云うもんだかね。海の魚も、ちったあ減ったと思えるが。でも、暮らしがむずかしうなるほどに減ってはいないのにな。わからん、どう云う訳だかね」
 それだけの疑問であった。
(葉山嘉樹「移動する村落」より)


 従順で不満を持たず、強い者には巻かれ、集団に忠誠を誓い、出る杭には一斉に襲いかかるような、そんな人材が一番望ましい。

「人間が生きて行くためには、どうしても人間の生命を失わねば生きて行けないのか、人柱! おれたちは皆人柱なんだ!」
(葉山嘉樹「海に生くる人々」より)


 こんなことを考える人間は、資本主義社会には不要だし、不適なのだ。
 だが、人間は考える葦である。
 どれだけ弱い者でも、一度社会の矛盾に気づいてしまえば、何かしら胸に鬱屈は抱えることになる。そうした鬱屈は、穏健かつ合法的に制度を変えようとする流れとは別のところで、突如爆発する。
 たとえば、昭和8年の28年前、明治381905)年に起きた日比谷焼き討ちに始まる一連の都市民騒擾事件は、そうした空気の中で誘発されたものだ。言うまでもなくこの手の騒擾は冷静な視点で問題を見据えた結果起こるものではない。むしろ極めて近視眼的な発想に支配されることが多い。
 日比谷の焼き討ちの場合、最初は「日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会」という形で始まった。
 ご存知の通り、日露戦争は日本の勝利に終わっている。しかし、それは薄氷の勝利だった。政府は、実質ギリギリの勝利であり、かつ戦いを続ける余力などないから講和を急がなくてはならなかった事情を国民に隠したまま、戦勝のみを派手に宣伝した。勝利に酔った人々は、多額の賠償金や利権の割譲を期待した。それを煽ったのは他ならぬ新聞などのマスコミである。景気の良いことを書けば書くほど売れたからだ。
 だが、いざ蓋を開けると、ロシアは賠償金の支払いには応じず、大陸利権もほとんど得られなかった。この結果に、国民は怒った。戦争を理由にした増税にも耐えてきたのに見返りがないとわかり、不満が爆発したのだ。
 この時、扇動に使われた言葉は「愛国」である。そして、「愛国者」たちが敵としたのは時の政府、つまり国民に我慢を強いたのに外国には弱腰の(と彼らが判断した)政府要人たちだった。
 愛国という言葉の、なんと便利なことか。
 さらに、時間帯によってデモ隊を構成する層が異なったことが後の研究によって明らかになっている。
 騒擾の初めの段階、昼過ぎ頃に警察当局と衝突し、政府系新聞社に投石などを行ったのは集会の意味合いを予め理解し、政府に対して抗議する意思を持って集まった都市中間層だった。前回、芥川の回で出てきた中流から中流下層階級あたりのことだ。
 ところが、時間が経つに連れ集団はコントロールを失っていく。都市下層民を中心とする新たな参加者は放火や略奪を始め、ついには路面電車を焼き討ちにした。彼らはすでに元の目的を知らず、ほとんど鬱憤ばらしのような形で騒乱の群れに飛び込んだのだ。
 ある種の集団ヒステリーといってよいだろう。
 日比谷焼き討ち事件は、アジテーションできるインテリ層に呼応した中間層と下流中間層が始めたデモに都市下層民が加わったことで暴動になった。つまり、この時期はまだ各階層の不満が同じベクトルに収束する程度に共有されていたのだ。
 ところが、それから約四半世紀後の昭和初期、つまり多喜二が殺された頃には、階層は完全に分断されていた。もはや、中間層と労働者階級は共に闘うことはなくなっていく。労働者階級にも分断があった。
 その結果、民衆の力は削がれ、施政者へのチェック機能が失われ、大多数の国民は飼いならされた羊であることを望むようになっていった。
 では、なぜ人々は国に従い、国家権力による非合法な殺人を容認するまでに至ったのか。
 後篇では、その変化を多喜二の半生を紐解きながら見ていきたい。

「目次」はこちら

 

シェア

Share

感想を書く感想を書く

※コメントは承認制となっておりますので、反映されるまでに時間がかかります。

矢印