第28回
66〜67話
2021.04.28更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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16‐2 正しいと思うことを丁寧に楝言する実行力を持つ
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。(孟子の弟子で魯の執政でもあった)楽正子は、平公に会って言った。「君におかれては、どうして孟子に会いに行かなかったのですか」。平公は言った。「ある人が自分に告げたのだ。『孟子が後に行った母の喪儀は前の父の喪儀を超えて、とても立派だった』と。だから会いに行くのをやめたのだ」。楽正子は言った。「君の申される『超えた』というのは、どのような点でしょうか。前の父の喪儀は士の礼を用い、後の母の喪儀は大夫の礼を用い、また前喪にはお供物が三つのかなえで、後喪ではお供物が五つのかなえだったからですか」。平公は言った。「いいや。私が言っているのは、遺体を納める内棺、外棺や、遺体に着せる着物やふとんが、後喪が前喪のほうより立派だったということだ」。これを聞いて楽正子は平公に言った。「それならば、『超えた』ということにはならないと思います。前喪のとき、孟子は士の身分で、後喪のときは大夫の身分でした。つまり、貧富の違いがあったのですから、そのときのできる限りのことをする、人の道として当然のことをしたのです」。
【読み下し文】
楽正子(がくせいし)(※)入(い)りて見(まみ)えて曰(いわ)く、君(きみ)奚(なん)為(す)れぞ孟軻(もうか)を見(み)ざるや。曰(いわ)く、或(ある)ひと寡人(かじん)に告(つ)げて曰(いわ)く、孟子(もうし)の後(こう)喪(そう)は前喪(ぜんそう)に踰(こ)えたり、と。是(ここ)を以(もっ)て往(ゆ)きて見(み)ざるなり。曰(いわ)く、何(なん)ぞや、君(きみ)の所謂(いわゆる)踰(こ)ゆとは。前(まえ)には士(し)を以(もっ)てし、後(のち)には大夫(たいふ)を以(もっ)てす。前(まえ)には三(さん)鼎(てい)(※)を以(もっ)てし、後(のち)には五(ご)鼎(てい)を以(もっ)てすればか。曰(いわ)く、否(いな)。棺槨(かんかく)(※)衣(い)衾(きん)(※)の美(び)を謂(い)うなり。曰(いわ)く、所謂(いわゆる)踰(こ)ゆるには非(あら)ざるなり。貧富(ひんぷ)同(おな)じからざればなり。
(※)楽正子……名は克。孟子の高弟の一人。当時は魯の執政であった。魯で採用されたときの孟子の喜びようは告子(下)第十三章で出てくる。楽正子は恵まれない恩師に何か報いようと平公との面談を設けていた。
(※)鼎……かなえ。物を煮るのに用いる三足の器。三つのかなえは士の身分が、五つのかなえは大夫の身分が用いた。
(※)棺椁……「棺」は死体を入れる棺桶のこと。槨は棺を覆う外棺。『論語』にも次のように出てくる所がある。「鯉(り)や死(し)せしとき、棺有(かんあ)りて椁(かく)無(な)し」(先進第十一)。孟子の先生筋の子思(孔子の子)が死んだとき、孔子は椁を買うことができなかったが、そのときできるだけのことをすればよかったのだ、ということを述べているところである。なお、「椁」の字を「槨」とする文献もある。
(※)衣衾……死体をおおう着物や布団。
【原文】
樂正子入見曰、君奚爲不見孟軻也、曰、或告寡人曰、孟子之後喪踰前喪、是以不往見也、曰、何哉、君所謂踰者、前以士、後以大夫、前以三鼎而後以五鼎與、曰、否、謂棺椁衣衾之美也、曰、非所謂踰也、貧富不同也、
16‐3 人間のわざを超えた天の判断がある
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。楽正子が、孟子に会って言った。「私、克は、平公に先生のところに行くようにと申し上げました。平公も先生にお会いしようとなさっていました。そこに取り巻きの側近である臧倉なる者があって、余計なことを言い、平公は来ることを止めてしまったのです」。すると孟子は言った。「人が行くのも行かせるものがあり、止まるのも止まるようにさせるものがあるのだ。このように行くとか止まるということは、人がどうすることもできるものではない。私が魯公に会えないのは、まさに天の判断、つまり天命である。臧氏の子などが、どうして自分を魯公に会わせないなどということができようか」。
【読み下し文】
楽正子(がくせいし)、孟子(もうし)に見(まみ)えて曰(いわ)く、克(こく)(※)、君(きみ)に告(つ)ぐ。君(きみ)為(ため)に来(きた)り見(み)んとす。嬖人(へいじん)に臧倉(ぞうそう)なる者(もの)有(あ)り、君(きみ)を阻(はば)む。君(きみ)是(ここ)を以(もっ)て来(きた)ることを果(はた)さざるなり。曰(いわ)く、行(ゆ)くも之(これ)を使(せし)むる或(あ)り。止(とど)まるも之(これ)を尼(とど)むる或(あ)り。行止(こうし)は人(ひと)の能(よ)くする所(ところ)に非(あら)ざるなり。吾(わ)れの魯侯(ろこう)に遇(あ)わざるは、天(てん)なり(※)。臧氏(ぞうし)の子(こ)(※)、焉(いずく)んぞ能(よ)く予(われ)をして遇(あ)わざらしめんや。
(※)克……楽正子の名。
(※)天なり……天の判断。梁恵王(上)は、孟子の約十五年にわたる遊説の旅を順に追っている(なお、『史記』では、斉から梁となっているが、それは誤りで『孟子』の梁恵王(上)にある通り、梁から斉であると解するのが通説となっている)。一番最初の章では、「王(おう)何(なん)ぞ必(かなら)ずしも利(り)を曰(い)はん」と、覇気溢れる言葉で迫っている。しかし、最後のこの章では「吾(わ)れの魯侯(ろこう)に遇(あ)わざるは、天(てん)なり」と言い、十五年の年月の移りを感じさせる。やることはやったんだ、悔いは何もない、あとは天命を信じていくのだという、その自分の人生の肯定と未来の世の動きを信じている言葉に感じられる。この孟子の篤い信頼に今の日本、中国、世界は応えられているのか。なお、『論語』でも孔子の似たような言葉がある。「天(てん)、徳(とく)を予(われ)に生(しょう)ぜしならば、桓魋(かんたい)、其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん」(述而第七)。「天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)、其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん」(子罕第九)。「道(みち)の将(まさ)に行(おこな)われんとするや、命(めい)なり。道(みち)の将(まさ)に廃(はい)せんとするや、命(めい)なり。公(こう)伯寮(はくりょう)、其(そ)れ命(めい)を如何(いかん)せん」(憲問第十四)。
(※)臧氏の子……臧倉のこと。この言い方は、臧倉のことを少し軽んじた批判的な言い方のニュアンスがあるようだ。
【原文】
樂正子、見孟子曰、克、告於君、君爲來見也、嬖人有臧倉者、沮君、君是以不果來也、曰、行或使之、止或尼之、行止非人所能也、吾之不遇魯侯、天也、臧氏之子、焉能使予不遇哉、
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