第29回
68〜69話
2021.04.30更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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公孫丑(上)
1‐1 歴史的な人物評価は難しい。安易に引用してはいけない
【現代語訳】
(弟子の)公孫丑が問うて言った。「先生がもし斉の政治上の要路に就かれたら、かつて名宰相と言われた管仲や晏子のような功業を期待できますか」。孟子は答えて言った。「お前はまことに斉の人であるな。管仲や晏子といった斉の英雄と言われた人しか知らないのだね(覇業を嫌う孟子であるがその覇業を助けた管仲・晏子のような人物と比較するなど、自分にとって失礼なことを言わないでほしい)。昔ある人が、曾参(そうしん)(曾子)の子・曾西に、『あなたと子路(孔子の高弟で曾子の先輩)とは、どちらが優っていますか』と聞いた。すると曾西は、恐縮した雰囲気をもって答えた。『子路は、我が父曾参でさえも、尊敬していた人ですよ。比べるなんてとんでもない』、と。そしたらその人はさらに聞いた。『では、あなたと管仲はどちらが優っていますか』。曾西は、むっとした雰囲気で、嫌な顔をして、『あなたは、どうして私を管仲などと比べるのか。管仲は主君である桓公の全幅の信任を得ていました。そして、国の政治を思うまま長く行うことができました。それなのに、その功業は、桓公をして王者まで至らせず、覇者にしたにすぎない。あなたはそんな管仲と私を比べられるのですか』と言った。このように曾西でさえも、管仲のような人と比べられることは嫌がった。なのに、お前は私に、管仲のようになることを願うのか」。
【読み下し文】
公孫丑(こうそんちゅう)問(と)うて曰(いわ)く、夫子(ふうし)路(みち)に斉(せい)に当(あた)らば(※)、管仲(かんちゅう)(※)・晏子(あんし)(※)の功(こう)、復(ま)た許(ゆる)す(※)べきか。孟子(もうし)曰(いわ)く、子(し)(※)は誠(まこと)に斉(せい)の人(ひと)なり。管仲(かんちゅう)・晏子(あんし)を知(し)るのみ。或(ある)ひと曾西(そうせい)(※)に問(と)うて曰(いわ)く、吾子(ごし)(※)と子路(しろ)(※)と孰(いず)れか賢(まさ)れる、と。曾西(そうせい)蹵然(しゅくぜん)(※)として曰(いわ)く、吾(わ)が先子(せんし)(※)の畏(おそ)れし所(ところ)なり、と。曰(いわ)く、然(しか)らば則(すなわ)ち吾子(ごし)と管仲(かんちゅう)と孰(いず)れか賢(まさ)れる、と。曾西(そうせい)艴然(ふつぜん)として(※)悦(よろこ)ばずして曰(いわ)く、爾(なんじ)何(なん)ぞ曾(すなわ)ち予(われ)を管仲(かんちゅう)に比(ひ)するや。管仲(かんちゅう)は君(きみ)を得(う)ること、彼(か)の如(ごと)く其(そ)れ専(もっぱ)らなり。国政(こくせい)を行(おこな)うこと、彼(か)の如(ごと)く其(そ)れ久(ひさ)しきなり。功烈(こうれつ)(※)、彼(か)の如(ごと)く其(そ)れ卑(いや)しきなり。爾(なんじ)何(なん)ぞ曾(すなわ)ち予(われ)を是(これ)に比(ひ)するや、と。曰(いわ)く、管仲(かんちゅう)は曾西(そうせい)の為(な)さざる所(ところ)なり。而(しか)るに子(し)我(わ)が為(ため)に之(これ)を願(ねが)うか。
(※)路に斉に当らば……斉の政治上の要路、要職に就かれたら。
(※)管仲……名は夷吾。字は仲。桓公を助けて天下に覇たらしめた。なお、『論語』でも、孔子は管仲を仁の人と高く評価したり(憲問第十四)、器が小さく礼を知らないと低く評価したりして(八侑第三)、見方によって変わる英雄のようだ。ただ、一般には、高い評価を得ている。
(※)晏子……名は嬰。字は仲。諡(おくりな)は平で晏平仲としても知られる。景公を助けた斉の名宰相。
(※)許す……期待する。
(※)子……お前(弟子の公孫丑のこと)。
(※)曾西……曾参(曾子)の子。
(※)吾子……あなた。
(※)子路……名は由(ゆう)。孔子の門人のなかで一番の兄貴格。直情の人、武勇にあふれる人で、欠点も多く孔子にいつも叱られるが、深く愛されていた。
(※)蹵然……恐縮して慎む様。
(※)先子……亡父。
(※)艴然……むっとする様。
(※)功烈……功業。功績。
【原文】
公孫丑問曰、夫子當路於齊、管仲・晏子之功、可復許乎、孟子曰、子誠齊人也、知管仲・晏子而已矣、或問乎曾西曰、吾子與子路孰賢、曾西蹵然曰、吾先子之所畏也、曰、然則吾子與管仲孰賢、曾西艴然不悦曰、爾何曾比予於管仲、管仲得君、如彼其專也、行乎國政、如彼其久也、功烈、如彼其卑也、爾何曾比予於是、曰、管仲曾西之所不爲也、而子爲我願之乎。
1‐2 歴史を見抜く眼を養う
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。公孫丑は言った。「管仲はその君(桓公)を助けて覇者とし、晏子は君(景公)の名を天下にとどろかせました。それでも物足りないのでしょうか」。孟子は答えた。「もちろんだ。斉のような国力があったなら、覇者をこえて王者となることは手のひらを返すように、容易なことである(それなのに管仲も晏子も君を王者にすることができなかった)」。公孫丑はさらに言った。「そう言われると、私たち弟子はますますわからなくなります。あの文王は偉大な徳を持ち、しかも百年もの長生きをしたにもかかわらず、その徳を天下に行き渡らせることはできませんでした。その子の武王や周公が、その仁政を引き継いで行い、やっと周の王道が実現できたのです。さきほど先生は、王者になることは容易であると言われました。ということは、文王は模範とするには足りないのでしょうか」。
【読み下し文】
曰(いわ)く、管仲(かんちゅう)は其(そ)の君(きみ)を以(もっ)て覇(は)(※)たらしめ、晏子(あんし)は其(そ)の君(きみ)を以(もっ)て顕(あらわ)れしむ。管仲(かんちゅう)・晏子(あんし)は猶(な)お為(な)すに足(た)らざるか。曰(いわ)く、斉(せい)を以(もっ)て王(おう)たるは、由(な)お手(て)を反(かえ)すがごときなり。曰(いわ)く、是(かく)の若(ごと)くんば、則(すなわ)ち弟子(ていし)の惑(まど)い滋(ますます)甚(はなはだ)し。且(か)つ文王(ぶんおう)の徳(とく)、百年(ひゃくねん)にして後(のち)崩(ほう)ずるを以(もっ)てしてすら、猶(な)お未(いま)だ天下(てんか)に洽(あまね)からず。武王(ぶおう)・周公(しゅうこう)之(これ)に継(つ)ぎ、然(しか)る後(のち)大(おお)いに行(おこな)わる。今(いま)王(おう)たるを言(い)うこと然(しか)し易(やす)きが若(ごと)し。則(すなわ)ち文王(ぶんおう)は法(のっと)るに足(た)らざるか。
(※)覇……諸侯の旗頭(はたがしら)。よく斉の管公や晋の文公などがその例に挙げられる。これに対し「王」は、堯(ぎょう)や舜(しゅん)など古代の聖王を指し、また、その行った王道を指す。なお、『孫子』でも「覇王の軍」とあるが、それは「諸侯の旗頭としての軍を指す」と解されている(九地篇)。
【原文】
曰、管仲以其君霸、晏子以其君顯、管仲・晏子猶不足爲與、曰、以齊王、由反于也、曰、若是、則弟子之惑滋・甚、且以文王之德、百年而後崩、猶未洽於天下、武王周公繼之、然後大行、今言王若易然、則文王不足法與。
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