第123回
297話
2021.09.16更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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4‐1 仁も義も内心に関わることで同根である
【現代語訳】
告子は言った。「食欲と色欲は、人の本性である。仁の徳は人の内心の問題であって外の問題ではない。これに対し、義は外の物事を見て考え判断を決めていくもので、人の内心の問題ではない」。これに対して孟子は聞いた。「どういう理由で、仁は内であり、義は外と言うのか」。告子は答えた。「例えば、相手が年長者であれば、私は相手を年長者として敬意を持つという義の道を取る。それは私の内に年長者ということがあるわけではなく、外のことが見えているからである。それはちょうど相手を白いから、白いと言うように、白いという外のことに従って決める。だから義は外の問題と言うのである」。これに対して孟子は言った。「あなたの言い方だと、馬の白いのを白いと言い、人の白いのを白いと言うのとなんら異ならないことになる。私は知らないけれども、馬が年長であるものを年長であると敬意を持つことと、人の年長者を年長者として敬意を持つこと、なんら異ならないのであろうか。考えてもみてほしい。いったい年長であることが義なのか、年長者として敬意を持つことが義なのか(後者を義と考えるだろう。つまり、義も内心にかかわる問題である)。告子は反論した。「自分の弟には愛情を持つが、遠い国の秦人の弟には愛情を持たない。これは、自分が内心で喜びを感じるかどうかのことである。だから内心の問題であると言うのだ。また、遠い国の楚人の年長者を年長者として敬意を持ち、同じように自分のまわりにいる年長者を年長者として敬意を持つ。これは、年長者という外のことに従って、自分の喜びとして行動を決めるものである。だから外の問題であると言うのだ」。孟子は言った。「なるほど。しかし、秦人の焼き肉を好むのと、自分が焼き肉を好むのとは異なることがない。つまり、焼き肉がおいしいということは、外のことで決まることだと言える(年長者と同じようになる)。するとあなたが初めに言った『食欲と色欲は、人の本性である』ということと矛盾しているのではないか」。
(注)……原文にある「異於」は衍文とするのが通説である。ここでも省いて解釈した。
【読み下し文】
告子(こくし)曰(いわ)く、食色(しょくしょく)(※)は性(せい)なり。仁(じん)は内(うち)(※)なり、外(そと)(※)に非(あら)ざるなり。義(ぎ)は外(そと)なり、内(うち)に非(あら)ざるなり。孟子(もうし)曰(いわ)く、何(なに)を以(もっ)て仁(じん)は内(うち)、義(ぎ)は外(そと)と謂(い)うや。曰(いわ)く、彼(かれ)長(ちょう)じて我(われ)之(これ)を長(ちょう)とす。我(われ)に長(ちょう)有(あ)るに非(あら)ざるなり。猶(な)お彼(かれ)白(しろ)くして我(われ)之(これ)を白(しろ)しとするがごとく、其(そ)の白(しろ)きに外(そと)に従(したが)う。故(ゆえ)に之(これ)を外(そと)と謂(い)うなり。曰(いわ)く、馬(うま)の白(しろ)きを白(しろ)しとするは、以(もっ)て人(ひと)の白(しろ)きを白(しろ)しとするに異(こと)なること無(な)し。識(し)らず、馬(うま)の長(ちょう)を長(ちょう)とするは、以(もっ)て人(ひと)の長(ちょう)を長(ちょう)とするに異(こと)なること無(な)きか。且(か)つ謂(おも)え、長(ちょう)ずる者(もの)義(ぎ)か、之(これ)を長(ちょう)とする者(もの)義(ぎ)か。曰(いわ)く、吾(わ)が弟(おとうと)は則(すなわ)ち之(これ)を愛(あい)し、秦人(しんひと)の弟(おとうと)は則(すなわ)ち愛(あい)せざるなり。是(こ)れ我(われ)を以(もっ)て悦(よろこ)びを為(な)す者(もの)なり。故(ゆえ)に之(これ)を内(うち)と謂(い)う。楚人(そひと)の長(ちょう)を長(ちょう)とし、亦(また)吾(わ)れの長(ちょう)を長(ちょう)とす。是(こ)れ長(ちょう)を以(もっ)て悦(よろこ)びを為(な)す(す)者(もの)なり。故(ゆえ)に之(これ)を外(そと)と謂(い)うなり。曰(いわ)く、秦人(しんひと)の炙(しゃ)(※)を耆(たしな)むは、以(もっ)て吾(わ)が炙(しゃ)を耆(たしな)むに異(こと)なること無(な)し。夫(そ)れ物(もの)は則(すなわ)ち亦(また)然(しか)る者(もの)有(あ)るなり。然(しか)らば則(すなわ)ち炙(しゃ)を耆(たしな)むも、亦(また)外(そと)とする有(あ)るか。
(※)食色……食欲と色欲。
(※)内……人の内心の問題。
(※)外……人の内心の問題ではなく、外の問題。なお、本章については、水かけ論であると冷たく見る説とか、告子の論に味方する説もある。しかし、孟子の立場からすると、仁義を同根であるとするのが譲れない立場であり(性善説から導かれる)、告子ように人間の本性は善でもなく、悪でもない。食欲や色欲のような動物的本能こそが本性であるとするとし、また仁義の道徳は後天的なものであり、仁は人の内心から、義は人の外のころで決まるとするような論を認めることはできないことになる。だから、自分の説についての根本的な問題については、言葉の問題のように見えるものでも(言葉じりをとらえているように見えても)、見過ごさず、徹底的に反論していこうという姿勢を持つのであろう。なお、吉田松陰は孟子の主張を全面的に同意したうえで、面白いことを言う。すなわち、中国人には、「真(しん)に義外(ぎがい)の非(ひ)たるを知(し)らず」というのである。どういうことかというと、おそらく前に述べたように、中国人思想の背景にある〝個人主義〟的なところを指しているのではないかと思う。だから「仁義(じんぎ)同根(どうこん)の真義(しんぎ)を知(し)らず」(『講孟箚記』)という。
(※)炙……あぶった肉。焼いた肉。焼き肉。
【原文】
告子曰、食色性也、仁内也、非外也、義外也、非内也、孟子曰、何以謂仁内、義外也、曰、彼長而我長之、非有長於我也、猶彼白而我白之、從其白於外也、故謂之外也、曰、[異於]白馬之白也、無以異於白人之白也、不識、長馬之長也、無以異於長人之長與、且謂、長者義乎、長之者義乎、曰、吾弟則愛之、秦人之弟則不愛也、是以我爲悅者也、故謂之内、長楚人之長、亦長吾之長、是以長爲悅者、故謂之外也、曰、耆秦人之炙、無以異於耆吾炙、夫物則亦有然者也、然則耆炙、亦有外與。
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