第177回
解説(3)
2021.12.08更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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三、『孟子』の構成と登場する主な王たちの紹介
『孟子』は大きく次の七つで構成されている。
「梁(恵王(りょうけいおう)」
「公孫丑(こうそんちゅう)」
「滕文公(とうぶんこう)」
「離婁(りろう)」
「万章(ばんしょう)」
「告子(こくし)」
「尽心(じんしん)」
普通はこれを、上下に分けて十四篇にしている。これは、最初の注釈者とされる漢の趙岐(ちょうき)が、便宜的にそうしたものを受け継いだものである。本書でもそのようにしている。
なお、篇名については、『論語』と同じように、各篇の冒頭の句の書き出しからとられていて、それ以上の意味はない。例えば、「梁恵王」は、「孟子(もうし)、梁(りょう)の恵王(けいおう)に見(まみ)ゆ」(孟子見梁恵王)という書き出しからとられている。
「梁恵王」と「滕文公」は、孟子が対話した王の名である。
この梁恵王と滕文公のほかに登場する主な王を便宜的に挙げておきたい。
梁襄王(りょうじょうおう)………梁恵王の跡継ぎであるが、孟子はその人物に物足りなさを見て、梁を去り、斉に行くことになった。
斉宣王(せいせんおう)………斉の国の大きさと宣王の力量の可能性を考えて、孟子は七、八年滞在した。最終的には、結局、王とは合うことがない(王道政治をやってくれない)と判断して、去ることになった。
鄒穆公(すうぼくこう)………孟子の母国である鄒に帰ったときに穆公と対話する。その内容からして穆公は大した人物ではなかったようだ。
魯平公(ろへいこう)………弟子の楽王子が魯の宰相となり、師の孟子を平公に会わせようとしたが、結局、会えなくなった。その名の通り平凡な王であったようだ。
四、孟子年表
読者の便宜を考えて、おおまかな孟子の年表を揚げておく。
紀元前三七二年 このころ生まれたとされる。
紀元前三二〇年 梁恵王に見(まみ)ゆ。
紀元前三一八年 梁恵王死す。翌年恵王の子・襄王に失望し梁を去り斉に行く。
紀元前三一六年 燕王噲(かい)、宰相の子之(しし)に譲位し、燕乱る。
紀元前三一五年 このころ孟子の母が死に魯で葬る。
紀元前三一四年 斉が燕を伐ち、併合する。これを孟子は不満とした。
紀元前三一二年 燕の人々、公子を立てて斉にそむく。孟子はこの年か翌年に斉を去る。
紀元前三一一年 孟子、宋にある。滕国の太子に見ゆ。
紀元前三〇七年 このころ、孟子、薛(せつ)をへて母国の鄒すうに帰り、穆公と問答する。また、滕定公が薨(こう)じ、文公の使者にその喪礼のやり方を問われる。さらに滕文公に招かれる。
紀元前三〇五年 滕に一、二年いる。このころ魯に行くも、平公に会えず。鄒に戻って弟子の教育に打ち込む。
紀元前二八九年 八四歳で死んだとされる。
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