第5回
洗練された絵【江戸時代前期の上層階級のための絵】
2017.07.26更新
誰もがわかる「凄さ」より、私が心奪われる「美しさ」が大事! リアルなものも嫌いじゃないけど、キレイなものやかわいいものが大好きで、デフォルメや比喩も進んで楽しめちゃう。そんな日本人の「好き」の結晶・日本絵画。世界も魅了したその魅力をお教えします。
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豊臣氏滅亡後、江戸で活動した狩野探幽を中心とする江戸狩野に対し、京都に残った狩野派の系統。初代は狩野永徳の養子の山楽、2代目は山楽の娘婿の山雪。主に貴族や寺社からの依頼をこなした。
江戸時代に活躍した絵師たちで、血縁や直接的な師弟関係はない。デザイン的な構図などが特徴。本阿弥光悦と俵屋宗達が京都で確立し、尾形光琳や尾形乾山によって発展。酒井抱一や鈴木其一(すずききいつ)が江戸で花開かせた。
御用絵師とは江戸時代における幕府や大名のお抱え絵師のこと。幕府御用絵師は、探幽から代々江戸狩野に引き継がれた。他方、支配層に仕えない絵師を町絵師とよび、江戸時代になると琳派が活躍し始める。
安土桃山時代に完成をみた「漢」と「和」が融合する絢爛豪華な絵画。そのスタイルは江戸時代に入ると、富裕な町人層にまで鑑賞者を広げながら、一層洗練されていきます。
江戸時代前期の絵画の一番の特色は、大胆なデザイン性にあります。京都の町絵師出身の俵屋宗達と、徳川幕府の御用絵師を務めた狩野探幽の立ち位置は大きく異なりますが、ともに余白を効果的に用いた洗練された構図感覚が持ち味でした。京都に残った京狩野を代表する山雪の計算されつくした画面構成も、時代の指向に沿うものでしょう。
尾形光琳は江戸前期の掉尾(ちょうび)を飾る絵師です。その華麗な画風は、この時代の洗練されたデザイン感覚の総決算といえるでしょう。
政権が江戸へ移ったのち、復興気運が盛り上がる京都で人気を得たのが俵屋宗達です。宗達は京都で扇などを売る絵屋※1「俵屋」を経営し、裕福な町人層を相手にセンスを磨きました。生没年不詳で謎の多い画家ですが、活動の前期は本阿弥光悦との合作が多く、中年期から水墨画や障壁画、屏風絵に力を入れ出したとされます。
『風神雷神図屏風』は、プロとして幅広い技術を身につけた宗達の傑作です。左右の風神雷神が今にも動き出しそうな大胆な余白の取り方、金地に映える色遣い、「たらし込み」※2の手法など、高度なデザイン性が発揮されています。構図を工夫した平面的な描き方にはやまと絵の伝統も感じられ、のちに尾形光琳らが模写し、近世への出発点ともなった重要作です。
※1絵屋:室町時代から江戸時代に栄えた職業で、主に紙にさまざまな装飾を施し販売した。色紙や短冊の下絵や加工、扇や屏風に絵を描いたり染色の下絵をしたりと内容は多彩
※2たらし込み:塗った色が乾かないうちにほかの色を垂らしてにじませ、独特の効果を生む技法。俵屋宗達発案とされる。本作では、墨に銀泥(銀の粉末を膠にかわで溶いたもの)を混ぜたものを使い、この技法で雲を描いている
京都で町人層に支持された町絵師とは対照的に、江戸幕府の後ろ盾を得て隆盛をふるった御用絵師たち。その中心に狩野探幽がいました。
探幽は狩野永徳の孫として京都で生まれ、13歳の時に徳川秀忠から「永徳の再来」と絶賛されます。
16歳で御用絵師となって江戸に下り、江戸狩野の礎を築きました。若い頃は画面いっぱいにモチーフを描く永徳ばりの作品も描いていますが、時代に合った画風を模索し、画面枠を重視し余白の中に詩情を盛り込んだ「探幽様式」とよばれる独自表現を確立します。
名古屋城上洛殿の襖絵として描かれた本作は、探幽様式が完成した30代前半の傑作です。左に描かれた小禽(小鳥)と細い枝先の間の余白に、情感が込められています。
俵屋宗達が活躍したおよそ100年後、京都画壇を席巻したのが尾形光琳です。光琳は宗達が確立したデザイン性の高い新しい絵画をさらに洗練させ、琳派を発展させました。
京都の裕福な呉服商「雁金屋」(かりがねや )に生まれた光琳は、幼少から伝統文化を身につけ、宗達に私淑して40歳を過ぎてからプロになります。
『燕子花図屏風』は、画家としての前半期を飾る代表作です。燕子花の名所が登場する『伊勢物語』の一場面※3がモチーフですが、主人公も風景もすべて省略し、花だけで構成しているのが最大の特色です。家業の呉服屋で用いた着物の型紙を下書きに使ったとされ、創意工夫によって「自身の表現したいものを描く」という明確な意志が感じられる点でも新しい作品です。
※3『 伊勢物語』の一場面:第9段東下りの一場面。主人公が都を離れて友人と東国を旅していると、橋を8つ渡してある「八橋」という場所に着く。そこに燕子花が咲いているのを見て「かきつばた」の5 文字を各句の頭につけて歌を詠もうと言われ、「唐衣(からころも)きつゝ馴(なれ)にしつましあれば/はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」と詠む。尾形光琳は『八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんつづりばこ)』(東京国立博物館)や『八橋図屏風』(メトロポリタン美術館/ニューヨーク)などでもモチーフとしている
『紅白梅図屏風』は1873年のウィーン万博に出品され、画家クリムト※4に影響を与えたことでも有名な尾形光琳の傑作です。光琳は50代に俵屋宗達の作品を盛んに模写し、最晩年に本作を描きました。左右に梅の木を配し、中央の余白部分に川が流れる構図は、宗達の『風神雷神図屏風』の影響ともされます。
写実的な梅の幹に対し、梅の花や川は抽象化され、川の流れにいたっては文様化されたデザイン処理がなされています。また紅梅は上に枝を伸ばし、白梅は枝垂れて樹幹の大部分を画面外に隠す対称的な表現。自然をモチーフにとりながらも写実に終わらず、デザイン感覚を加えて自ら解釈した世界を描くことで、自然の中に宿る生命の本質を表現しようとしたのです。
※4クリムト:オーストリアの画家で、象徴主義を代表する画家のひとり。琳派やビザンチン芸術などの影響から生み出された、装飾的な画面構成や黄金色の多用などで知られる。特に『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(ノイエ・ギャラリー、ニューヨーク)の構図には、本作の影響が指摘されている
※5 白緑:日本の伝統的な色名のひとつ。白っぽい薄い緑
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