第9回
わざと自我を入れてみる思考実験
2017.04.14更新
進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。「優柔不断」「後悔」をきっぱり捨てるブッダの智恵を、初期仏教長老が易しく説きます。
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■わざと自我を入れてみる思考実験
私は日常生活の中で、いろいろ小さな実験をするのが好きです。たとえば、「意図的に自我を入れてみる」実験なんかをしています。まあ、実験と呼ぶのもはばかられるような遊びですけどね。
袋入りの食品があります。日本の製品は細かなところにまでいろいろ工夫が施されていて面白いのですが、たとえば、袋の開封口のところに小さな切り込みが入っています。切り口を示す印としてハサミのマークがついていて、ここを切ってくださいとご丁寧に破線も入っています。至れり尽くせりのサービスです。
切り込みが入っているので、ハサミを使わずに手で破って開封することもできます。でもせっかく切るための破線が入っているので、「よし、この破線どおりに、まっすぐきれいに破ってやろう」という感情、自我をわざと入れてみます。
封を開けたら要るのは中身だけで、袋は捨ててしまうものです。まっすぐでなくても開けばいいだけの話ですが、これは意識の実験ですからね、あえてやってみるのです。
切り込みのところから慎重に開けていくのですが、ちょっとずつ破線からズレてしまいます。これはまずいぞと思って、こんどは反対側の切り込みのところから開けていきます。でもまた微妙にズレて、修正しようとするとかえってクネクネしてしまう。結局、先に切りはじめたほうとうまく揃わずに、ちょこっと尖ったものが残る。私の心の中に「ああ、失敗した……」という気持ちが広がります。
ただ袋の口を開けるだけの話ですよ。中身には何の影響もない。それなのに「まっすぐ切ってやるぞ」という自我があるがために、私はこれを「失敗」だと感じるのです。
失敗したとなると悔しいですからね、私は「こんなことでは負けない」と思いを新たにして、「こんどはハサミを使って、きれいに切ってやろう」と考えるわけです。破線に沿ってハサミで切ればいいだけです。こんどは成功するはずです。
ところが、それができないんですね。私がハサミの扱いがうまくないせいでしょうが、やっぱり破線から微妙に逸れてしまう。そこで、「あ~あ、ハサミを使っても失敗した」と思うわけです。これを何人かと競争してやったら、「あの人はうまくできたのに、なぜ私はできないのか」と悩んで落ち込むでしょうね。
自我があると、こういうことになるのです。
食品の入っているような袋は、ポリマー構造といって分子構造が複雑でグニャグニャしているものですから、精密にまっすぐに切れるようにはできていないんですね。一直線にまっすぐきれいに切れなくて当然なんですよ。ですから、「失敗した」と落ち込むような話ではないのです。
ふだん何も意識しないで袋を手で破っているときは何も感じないのに、自我が入ると、こんなちょっとしたことにも人間は落ち込んだり悩んだりするのです。
あなたはどうですか? あえて自我を入れる実験、ぜひ試してみてください。
■成功・失敗は自我がつくっている概念
お店で買ってくる食パンは、とてもきれいに切れています。それもそのはずで、あれは器械を使って切っているから、あんなに均等に、寸分の違いもなく、きれいにまっすぐ切れているわけです。でも、パン屋さんでは、まだ切っていない状態でパンを買うこともできますね。まっすぐきれいに切るという実験をもう少し別のかたちでもやってみようと考えて、切られていないパンを買ってきて、自分で切ってみたことがあります。
ところが、これがまたたいへん難しいのです。
まずこの厚さで切ろうと決め、爪楊枝をパンに軽く刺して、「この幅だぞ」という目印をつけます。包丁の刃を温めておくときれいに切れるというので、ガスの火にかざして刃を温め、いざパンに包丁を下ろします。
ところが、うまくいきません。パンの周辺部分はかたいのですが、中はものすごくやわらかい。そのやわらかいところが、ちょっと力を入れるだけでグニャっとなってしまって、力のバランスが均一にならないのです。
切るということは、分子の結合を破壊して物質を分離することですが、私の目的とは反したかたちでパンの分子が破壊されていきます。
結果はさんざん。厚いところあり、薄いところあり、ぼろぼろと崩れてしまったところありで、大失敗でした。
けれども、これも当たり前のことなのです。人がパンをきれいに切るには、相当な訓練をして熟練のワザがなくてはならないのです。とても難しいから、普通は器械にやらせているわけですからね。道具も、パンを切るためには刃の長い包丁とかパン専用のナイフのようなものが要ります。私は上手に切るための道具もなければ、訓練もしていないのですから、うまく切れる道理がない。私自身は「失敗した」と感じましたが、これは自然の法則からするとじつに正しい結果なのです。
この世の中は「因果の法則」で成り立っています。ものごとはすべて、原因があるから、結果がある。うまくいく原因があれば、いい結果が出ます。よくない原因があれば、よくない結果が出ます。
私はうまくいかない原因だらけの中でパンを切ろうとしたのですから、いい結果が出ないのは当然のこと。このカッコ悪い結果は、因果の法則による正しい結果であって、失敗なんかではないわけです。
私たちは、自我の通りにいかないと「失敗した」と嘆いたり悔んだりして悩み、自我が充たされた結果だと「成功した」と思って喜びますが、失敗、成功というのは自我の世界にある概念でしかないのです。要するに、失敗も成功も、自分の心が勝手につくっている幻にすぎないということです。
■悪い原因があれば悪い結果になる──それが自然界のセオリー
この世界で起きている出来事は、すべて因果の法則に則っています。
たとえば、天気予報で「午後にはにわか雨の可能性があります」と言っていたのに、持つものが増えて面倒だなと思って、傘を持たずに家を出ました。それで激しい夕立に遭い、お気に入りの革のカバンがずぶ濡れになってしまった。
これは当然の結果、正しい結果ですね。天気予報が教えてくれていたのですから、傘を持って出れば、そんなに濡れずに済んだはずです。あるいは、雨が降りそうだから、今日はこのカバンを持つのはやめよう、という判断もできた。あなたはその選択をいずれもしなかった。だからそれは当然の結果なのです。
オリンピックやワールドカップの試合で自国の選手、自国のチームが勝つと、みんな大喜びします。祝杯を挙げようと飲みに行き、楽しくてつい深酒をしてしまう。その結果、翌日は二日酔いで苦しむことになります。うれしいことがあっても、羽目をはずしたらそういう結果が待っています。これも当然の結果です。
最近はスマホ依存症の人がとても多いようです。電車の中でも、道を歩きながらでも、スマホの画面から目を離さない人がいます。片時も離したくないので、トイレにも持っていきます。すると、ポケットからスルリと落ちて、大事なスマホが水没してしまうといった事故が起きます。でも、これもまた当然の結果。そもそもトイレというのは、精密機械を持って入る場所ではないですからね。
いずれも起きているのはとても単純な話、当たり前の話なのですが、そこに自我が入ると話がぐちゃぐちゃになります。
「天気予報の雨の確率は50パーセントだったんだから、降らない可能性が5割はあったんだ」とか、「得意先から急に電話がかかってきて行かなきゃいけなくなったんで、本当だったらその時間、自分はオフィスワークをしているはずだった。ああ、あの電話さえなかったら……」と考える。
「試合を観た高揚感で盛り上がっているのに、『もう飲めない』『先に帰る』と言ったら、みんなの気分に水を差しちゃうじゃないですか。だから断れなくて飲みすぎちゃったんです」と言い訳する。
「このスマホは防水だと書いてあるじゃないですか、なんとか復活させてくださいよ」と文句を言う。
どれも自我からくる屁理屈です。当然起こり得るべくして起きたことなんですから、言い訳をしたり、人のせいにしたり、ごちゃごちゃ言わずにその事実だけを受けとめればいいのです。
自分の行為にそれなりの結果が伴うことは、誰も避けることはできません。判断が間違っていたのですから、その分、不幸なことは起きるのです。そこを素直に認めなければいけません。
そして、また同じ結果を招きたくないのなら、その経験をもとに今後は間違った判断をしないようにするのです。
高価なカバンや服を雨で濡らしたくないなら、傘を持って出かけることです。
二日酔いを避けたかったら、自分はどれくらいで二日酔いになるかの酒量を知っておいて、それ以上は飲まないと決める。「今日だけは特別」という例外を設けてはダメです。
トイレに行くときは、ポケットにスマホを入れておかないようにするのです。
それが経験によって学習していくということです。
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