第7回
専門家に任せられるのか
2017.08.21更新
長年ブックデザイナーとして活動し映画やデザインの評論でも知られる著者が、グローバル化する政治経済や情報環境、災害や紛争などによって激しく揺さぶられる現代社会を、デザイナーならではの視点からするどく捉えます。
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「保育園落ちた日本死ね!!!」と題されたブログは、いろいろと考えさせる。名文かどうかはともかく、読む者を立ち止まらせる力をもっている。頭の片隅にとどめられた文章が、その人間の文章にいつかは影響を与えていく。文体は時代とともに変化する。わたしたちの文章感覚は、物書きではない人物によって記された文章から多くの影響を受けている。
円谷幸吉の遺書を思い出すひともいるだろう。彼は1964年東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、そののち、メキシコ五輪を前にして自死(1968年)を遂げる。その際の、「美味しうございました」を呪文のように繰り返す遺文の語調は忘れがたい。
落書きや標語なども、専門家によらない文章として無視できない。いささか飛躍するが、グリコ・森永事件(1984—85年)での、「おまえら あほか 人数 たくさん おって なにしてるねん プロ やったら わしら つかまえてみ」といった関西弁を駆使した捜査陣への「挑戦状」も、記憶に刻まれている。世代によっては、2・26事件に連座した磯部浅一の「獄中手記」を覚えていたりもする。
読点をいっさい使わない「保育園落ちた日本死ね!!!」には、「もう専門家には任せておけない」との憤りを感じる。今年3月には大津地裁で、「高浜原発運転差し止め」判決が下された。そこからも、専門家による安全審査は信頼できない、との文脈が伝わった。杭打ちデータ改竄が引き起こしたのも、専門家への失望だった。深夜バス運行、廃棄食品横流し、教師の進路指導、官僚の無駄遣い……、専門家ほど当てにならない存在はない。
政治家も同様だ。ブログの「不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ」なるくだりには、多くの人間がうなずく。
白紙撤回されたあと、2020年東京五輪・パラリンピックの公式エンブレムが選び直されている。前案での教訓が「専門家は当てにならない」だったゆえ、今回の選考では、公募・公開・意見募集が標榜されている。結果として、冴えない4案が残った、との印象をもつ。1964年東京五輪マークの簡潔さと比べれば凡庸さは明らかだ。「エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ」に、胸を張って応えうる力感はない。
万人に受けようとするデザインは力をもたない。多数決が選びだすデザインが、つねに優秀であるわけではない。64年の東京五輪時には、信頼に足るデザイナーが存在し、デザインの出来を判断するプロがいた。公募・公開・意見募集は、優劣を見抜く責任の放棄でもある。
人びとの記憶に残る専門家によらない文章には、かならず口当たりの悪いざらつきがあった。その苦味を自身で味わってこそ、忘れがたい言葉となる。4案のうち、どれが公式エンブレムとなろうと、未来のデザインに影響を与えることはないだろう。無難さは、「専門家には任せておけない」が引き起こす負の側面である。「専門家には任せておけない」との思いを、積極さに転ずる方途を考えたい。
(初出『十勝毎日新聞』2016年4月21日付)
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