第1回
プロローグその1 映画『ボヘミアン・ラプソディ』と「普遍的な愛の物語」
2019.01.30更新
メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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日本でも4カ月近くも好調な興行を続ける『ボヘミアン・ラプソディ』が、米国ゴールデン・グローブ賞を取ったと伝えるNHKニュースの紹介のしかたが「英国のロックグループ『クイーン』が世界的なバンドになるまでを描いた映画」というものだったので、おいおいそんな内容じゃあ賞は取れんだろ、と一人でツッ込んでいたのですが、でもまあ世間じゃあそういう無難な紹介文が好まれるのかなと思う自分もいます。どうせ、わかる人はわかるし、わからない人はこの映画を見ることもないだろうし、と。
でもしかし、とすぐにまた思い直します。そういう1つ1つ(の些細なこと、あるいは些細なこととされること)を何十年も打っ棄ってきたせいで、私たちの「世間」では、人権先進国の欧米では通じる話を下支える基本情報や知識が共有できていない。共有できていないから唐突に導き出される結論が何周も前の無知や偏見に彩られたものだとすら気づかないままだったりします。
「英国のロックグループ『クイーン』が世界的なバンドになるまでを描いた映画」という紹介テキストはもちろんポイントを外した要約です。クイーンそのものというよりメイン・ヴォーカリストのフレディ・マーキュリーが軸である映画なのですが、肝は、彼が男性同(/両?)性愛者で、HIVに感染するということです。そこに“家族”としてのバンド・メンバーの友情が関係してくる。その構造がなければこの映画は「世界的なバンドになるまでの成功譚」という凡庸な内容となって、ゴールデン・グローブ賞にはノミネートすらされなかった。
短いニュース原稿の中でそんな詳細まではとても言えない、というのは当然です。ゲイだとかエイズだとかに触れてもそれだけでは逆に偏った紹介になってしまうし、勢い、いろんなことを今更ながら説明しなくてはならなくなる。そうするとだんだんと面倒くさい話になってきて、そんなことまで聞きたくない、となります。ゲイだとかエイズだとか、急に言われたってこちとら関係ないよ、となる。だからなのです、そういう1つ1つの些細なこと、あるいは些細なこととされることを、後になって急に一気に開陳するのではなく、その都度その都度話してゆくことが大切なのは。
ちなみに、ゲイだとかエイズだとかの話を面倒くさいと感じるのは、日本社会だけではありません。先ほど人権先進国と書いた欧米でだって五十歩百歩です。実はこの『ボヘミアン・ラプソディ』の公開に先立ち、配給の20世紀フォックスは「フレディ・マーキュリー」がヘテロセクシュアルのように見える(女性といちゃつくシーンはあるがゲイのシーンはない)予告編第1号を作り、かつその映画サイトではフレディの病名をエイズではなく「命を脅かす病(a life-threatening illness)」としか記述していませんでした。実際の映画の編集では「ゲイ」のサインがのっけからちりばめられていましたし、エイズであることも正面から取り上げられていたのですが、結果、配給会社のそのような腰砕けの姿勢を知ったプロデューサーのブライアン・フラーやメディアがこの広告戦略に厳しい批判を展開し、逆にそれがSNS上で話題を呼びもしたのです。
そういうことはこれまでもよくありました。ゲイやエイズを「面倒くさい」とするだろう「世間」の推定反応を背景に、それらを(その種の話なら見に行かないという)マーケティング上のリスクとして排除・消去する行いを「De-Gay(脱ゲイ化=ゲイ的要素を消し去る)」、あるいは「straight-washing(異性愛洗浄=異性愛の振りで洗い覆うこと)」と呼びます。ここでは同時に「De-AIDS(脱エイズ化)」も。それは頻繁に行われてきました。なにせこの「商品」のメインの標的顧客層は、ゲイにもエイズにも無関係な(と思われている)圧倒的多数層だからです。
欧米でさえそうなのですから、日本ではこの振る舞いは公然と批判されることもなく続いてきています。古くは一般公開のゲイ映画として話題になった『アナザー・カントリー』(1984)の主演俳優ルパート・エヴェレットが、ゲイであることをオープンにしていたにも関わらず日本の配給会社の“配慮”でプロモーションでの来日時には“ガールフレンド”同伴で登場させられていたことです。オスカーを受賞したあの紛うことないゲイ映画『ブロークバック・マウンテン』(2006)は、やはり配給会社から「ゲイ映画」として宣伝することは控えてほしいとの要望が評論家らに伝えられていました。日本で昨年公開されてヒットし、オスカーにもノミネートされた『君の名前で僕を呼んで』(2017)の日本語サイトにもまた、「同性愛」を示唆するような言葉は1つも出てきません。そう、いずれの場合も「これはゲイ映画ではなく、人間の普遍的な愛の物語だ」というのが謳い文句なのです。
実例を示しましょう。手元に、ある配給会社から報道向けに届いた「お願い」と題した紙切れがあります。そこには「ご掲載の際の注意事項 ※必ずご一読くださいますようお願い申し上げます」と下線が引かれた太字のテキストがあり、その下に次のような具体的な指示が記されてありました。
「本作のご掲載に関しましては、製作元の意向により、“レズビアン”、“レズ映画”などの表記、又は劇中のセクシャルな描写のみを取り上げる形での掲載はNGとさせて頂きます。本作は、レズビアンがテーマなのではなく、たまたま巡りあった人間二人が惹かれあうことをテーマにした映画である、という理由です。何卒、ご協力下さいますようお願い申し上げます。」
続く。次回は2月6日(水)更新予定