第2回
プロローグその2 「脱ゲイ化」で助長される「性のバケモノ」
2019.02.06更新
メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
「目次」はこちら
ことは映画に限りません。つい先日お会いした米国系出版社の外国人社長は、翻訳刊行されたばかりの自社の本(アルツハイマーに見舞われた老齢の父親と息子の感動のノンフィクション)で、著者である息子の紹介文から「ゲイ」という単語を排除した顛末を教えてくれました。
「この本の内容は、著者がゲイであることとは直接的にはなんの関係ありません。父親のことを書いたのがたまたまゲイの息子だったというだけのことです。それでも私は、紹介文に著者が『ゲイ』であると記すことは普通に当然のことと思っていました。それは著者がイギリス人でアイルランド系で、というのと同じ背景情報だと思うからです。けれど日本人スタッフから『だからこそ「ゲイ」と書かない方がいい』と言われました。『ゲイの話かと最初から敬遠される恐れがあるから』と言うのです。まさかそう言われるとは予想していませんでした。まだそんなことを言ってるんですかと反論しましたが、ここは日本、その出版風土を知っている彼らに結局押し切られました」
べつにいちいちゲイだと言わなくてもいいじゃないか、とも言われます。そのとおりでしょう。ただ、「いちいち言挙げする」というのではなく、ふつうにゲイであることは言ったっていいはずです。さらにはイギリス人だとかアメリカ人だとかはパッっと見てだいたいはすぐ外国人だとはわかる一方で、ゲイとかレズビアンとかは見ただけではわからないし、私たちの「世間」では「そう」だと言わない限りは「そうじゃない」(異性愛者である)ことがデフォルトとして大前提のようです。普通はそれでも結構ですが、私たちの「世間」はよくそこから踏み込んで「ご結婚は?」「お付き合いは?」「お子さんは?」と、本当は大して興味のない質問でもそれを訊くことが、さらに一歩お互いの親密さへと踏み進むことであるかのように慣習的に推奨されています。そしてその筋で進んでいくとどんどん話が合わなくなってくるのです。
つまりはその話の大元の「大前提」が、必ずしも真実とは限らないのだという情報アップデートのためにも、さりげなく普通にゲイであると言ったって全然問題はないのではないか? ゲイが存在することが見過ごされたり軽んじられたり敢えて無視されたりしてきた経緯があることを知ればなおさら、いちいちとは言わぬまでも肝心なところでは普通にゲイだと言って悪いわけがありません。ところがなかなかそのさりげなさが難しい。なぜなのでしょう?
それは、「ゲイ」という存在が長いことただの性的倒錯者だったり変態だったりセックスのバケモノだったりと思われていた歴史が続いてきたからです。西洋や中東ではユダヤ教の昔から、アジアでもヒンドゥー教や仏教の法典・経典に禁忌として示されています。つまりはもっぱら性行為のモラルの問題として「ゲイ」が語られてきた。ゲイというのは「セックスや性的快楽の追求しか考えていない不道徳なヘンタイ」だったのです。だから「なぜいちいちゲイだと言わなければならないのか?」と眉をひそめられる。
さすがに今では表立ってそこまでの嫌悪を表明する人は余程の宗教原理主義者くらいしかいないでしょうが、しかしゲイのことを表立って話さないこと、あるいはより積極的にその言挙げを忌避すること、つまり「脱ゲイ化」を通用させることは、いつまでたっても「ゲイ」がセックスのバケモノであるという旧来の情報を、アップデートしないままに放置してしまうことにつながるわけです。
ちなみに、私は性的”倒錯”やセックスのバケモノという在り方自体を否定しているわけではありません。人間は、というか生き物はすべて性的な存在ですし、性に関して生殖以外の意味を発見したのも人間的なあり方だと思っています。レオ・ベルサーニの『Is the Rectum a Grave?(直腸は墓場か?)』なんか、受動的な性行為をとことん考えていかないとたどり着けない領域ですし、ときどき考えてきた「セックスに愛が邪魔だ」という感覚が何なのかを最初に気づかせてくれた論考でした。ですので、私が反論しているのは「ただの性的倒錯者やただのセックスのバケモノ」とだけ規定されてしまうやり方です。それはいずれ詳述しますね。
さて冒頭近くで「私たちの『世間』では、人権先進国の欧米では通じる話を下支える基本情報や知識が共有できていない。共有できていないから唐突に導き出される結論が何周も前の無知や偏見に彩られたものだとすら気づかないままだったり」する、ということを書きました。その仕組みはそういう「放置」が背景なのです。私たちが日々相手をする仕事相手とか目にする時事問題とか遭遇する経済事情とか、様々な分野で、様々な状況下で、これまでアップデートしてこなかったことによる様々な齟齬が生じ始めています。同性婚が合法化された国がすでに26カ国あり、そこにすぐに台湾やコスタリカも加わります。その同性婚の合法化の理由が、私たちの「世間」ではなかなか理解されないままです。
ちなみに、欧米の企業が自社のLGBT社員を日本に長期派遣しようとする場合、その社員(入れ替えのきかない幹部社員の場合が多いようです)のパートナーに配偶者ビザが発給されないなどの問題が生じ、結局、派遣を断念するケースも生じているそうです。そこで米国の在日商工会議所(ACCJ)が昨年9月、日本政府に対し、オーストラリア、ニュージーランド、英国、カナダ、アイルランドの在日商工会議所との連名で「LGBTのカップルにも婚姻の権利を認めることを提言する」とする、異例の声明を提示しているのです。
どうして外国の企業や自治体が自分たちの従業員や職員の同性カップルに異性カップルと同じ福利厚生を与えているのか? それもセックスや性的快楽のことだけを考えていたらよくわからないままでしょう。そうした国々や企業などと仕事や学問や家族や友人知人を通じてつながるとしても、そこを触れないでお付き合いできるならばいいのですが(「ご結婚は?」「お付き合いは?」「お子さんは?」)、なかなかそれは難しいかもしれません。
冒頭の『ボヘミアン・ラプソディ』でも同じことが起きます。観客たちは、そこに描かれる「ゲイ」や「エイズ」という重要なサブプロットの正体を充分に理解できないまま物語を咀嚼しなければならなくなります──フレディはどうして女性ではなく男性に惹かれていくのか? なぜセックスに溺れたのか? どうしてHIVに感染してしまうのか? そもそも同性愛って、何なのか? そしてなぜ映画のバンド・メンバーたちは、彼がゲイでHIV感染とわかった後でもああも優しく描かれているのか?
私たちの「世間」では、「クイーン QUEEN」というバンド名が、実は英語でいう「女王さま=オネエさま」という隠語でもあったということもあまり知られていないのですから。
続く。次回は2月13日(水)更新予定