第106回
256〜258話
2021.08.24更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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6‐1 天は賢者に譲位させる場合と子に譲位させる場合がある
【現代語訳】
万章が問うて言った。「世の中の人が次のように言っています。『禹のときになると、徳が衰えて、賢者に位を譲らずに、子に譲っている』と。これは本当のことですか」。孟子は答えた。「いや、そうではない。天は賢者に与えるべきと思えば賢者に与え、子に与えるべきと思うと子に与えるのだ。昔、舜が禹を天に推薦すること十七年であり、舜が崩じて三年の喪が終わると、禹は舜の子に遠慮して陽城に身を退いた。しかし、天下の民は、禹に従い、それは、堯が崩じてもその子に従わないで、舜に従ったと同じようであった。禹は、益を天に推薦すること七年だった。禹が崩じ、三年の喪が終わると、益は禹の子に遠慮して箕山に身を退いた。すると、朝覲をしたり、裁判したい者は、益に行かずに、禹の子である啓のところに行った。そして、言ったのだ。『啓こそは我が君の御子である』と。また、徳を讃えて歌をうたう者も、益を歌わず啓をうたったのだ。『啓こそは我が君の御子である』と」。
【読み下し文】
万章(ばんしょう)問(と)うて曰(いわ)く、人(ひと)言(い)えること有(あ)り。禹(う)に至(いた)りて徳(とく)衰(おとろ)え、賢(けん)に伝(つた)えずして、子(こ)に伝(つた)う、と。諸(これ)有(あ)りや。孟子(もうし)曰(いわ)く、否(いな)、然(しか)らざるなり。天(てん)、賢(けん)に与(あた)うれば則(すなわ)ち賢(けん)に与(あた)え、天(てん)、子(こ)に与(あた)うれば則(すなわ)ち子(こ)に与(あた)う。昔者(むかし)舜(しゅん)、禹(う)を天(てん)に薦(すす)むること十七年(じゅうゆうしちねん)。舜(しゅん)崩(ほう)じ、三年(さんねん)の喪(も)畢(おわ)りて、禹(う)、舜(しゅん)の子(こ)を陽城(ようじょう)に避(さ)く。天下(てんか)の民(たみ)之(これ)に従(したが)うこと、堯(ぎょう)崩(ほう)ずるの後(のち)、堯(ぎょう)の子(こ)に従(したが)わずして、舜(しゅん)に従(したが)うが若(ごと)きなり。禹(う)、益(えき)を天(てん)に薦(すす)むること七年(しちねん)。禹(う)崩(ほう)じ、三年(さんねん)の喪(も)畢(おわ)りて、益(えき)、禹(う)の子(こ)を箕山(きざん)の陰(きた)に避(さ)く。朝覲(ちょうきん)・訟獄(しょうごく)する者(もの)、益(えき)に之(ゆ)かずして、啓(けい)に之(ゆ)く。曰(いわ)く、吾(わ)が君(きみ)の子(こ)なり、と。謳歌(おうか)する者(もの)、益(えき)を謳歌(おうか)せずして、啓(けい)を謳歌(おうか)す。曰(いわ)く、吾(わ)が君(きみ)の子(こ)なり、と。
【原文】
萬章問曰、人有言、至於禹而德衰、不傳於賢、而傳於子、有諸、孟子曰、否、不然也、天、與賢則與賢、天、與子則與子、昔者舜、薦禹於天十有七年、舜崩、三年之喪畢、禹、避舜之子於陽城、天下之民從之、若堯崩之後、不從堯之子而從舜也、禹、薦益於天七年、禹崩、三年之喪畢、益、避禹之子於箕山之陰、朝觀・訟獄者、不之益、而之啓、曰、吾君之子也、謳歌者、不謳歌益、而謳歌啓、曰吾君之子也、
6‐2 孔子が天子にならなかった理由
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「(堯の子)丹朱は不肖の子であり、舜の子もまた不肖であった。舜は堯の宰相として、禹は舜の宰相として、いずれも長い年月を務めたので、民に対する恩恵を施す年月も長かった。ところが(禹の子)啓は賢明で、よく慎んで禹の道を継承した。一方、益が禹の宰相となってからの年月はそんなに長くなかった。そのため民に恩恵を施す年月は長くなかった。このように舜、禹、益は宰相としての年数に差があり(舜は二十八年、禹は十七年、啓は七年)、その子が賢明であるか不肖であるかについても差があった。これはすべて天命であり、人力でどうなるものでもない。つまり、人力でやろうとしなくても、自然にそうなるのは天のやることである。人力で招こうとしなくても、自然にやってくるのは命である。ところで一介の平民でありながらも天下を保つ天子となる者は、徳が舜や禹のように高く、かつ天子がこれを天に推薦した人でなければならない。だから孔子は、その徳は高かったけれども、天子の推薦がなかったので天下を保つには至らなかったのである。また、親から世を承け継いだ者が、天より廃されるのは、(夏の)桀や(殷の)紂のような暴君の場合に限られる(先祖の徳が高ければ、天はその子孫を容易に廃することはない)。だから益、伊尹、周公などは徳が高かったけれども天下を保つようにはならなかったのである」。
【読み下し文】
丹朱(たんしゅ)は不肖(ふしょう)(※)、舜(しゅん)の子(こ)も亦(また)不肖(ふしょう)なり。舜(しゅん)の堯(ぎょう)に相(しょう)たり、禹(う)の舜(しゅん)に相(しょう)たるや、年(とし)を歴(ふ)ること多(おお)く、沢(たく)を民(たみ)に施(ほどこ)すこと久(ひさ)し。啓(けい)、賢(けん)にして、能(よ)く敬(つつし)んで禹(う)の道(みち)を承(う)け継(つ)ぐ。益(えき)の禹(う)に相(しょう)たるや、年(とし)を歴(ふ)ること少(すくな)く、沢(たく)を民(たみ)に施(ほどこ)すこと未(いま)だ久(ひさ)しからず。舜(しゅん)・禹(う)・益(えき)、相(あい)去(さ)ること久遠(きゅうえん)に(※)、其(そ)の子(こ)の賢(けん)不肖(ふしょう)なる、皆(みな)天(てん)なり。人(ひと)の能(よ)く為(な)す所(ところ)に非(あら)ざるなり。之(これ)を為(な)すこと莫(な)くして為(な)る者(もの)は、天(てん)なり。之(これ)を致(いた)すこと莫(な)くして至(いた)る者(もの)は、命(めい)なり。匹夫(ひっぷ)にして天下(てんか)を有(たも)つ者(もの)は、徳(とく)必(かなら)ず舜(しゅん)・禹(う)の若(ごと)くにして、又(また)天子(てんし)の之(これ)を薦(すす)むる者(もの)有(あ)り。故(ゆえ)に仲尼(ちゅうじ)は天下(てんか)を有(たも)たず。世(よ)を継(つ)いで以(もっ)て天下(てんか)を有(たも)つもの、天(てん)の廃(はい)する所(ところ)は、必(かなら)ず桀(けつ)・紂(ちゅう)の若(ごと)き者(もの)なり。故(ゆえ)に益(えき)・伊(い)尹(いん)・周(しゅう)公(こう)は、天下(てんか)を有(たも)たず。
(※)不肖……賢明でない者のこと。「肖」は似るの意味なので、天に似ずとか父に似ずとかを不肖と言って、愚か者であることを指す。この語は現代でもよく使われる。自分をへりくだって言うときにも使う。
(※)相去ること久遠に……宰相としての年数に差があり。意味を理解し、訳するのが難しいのでいろいろな説がある。原文の「相去久遠」の「去」を「之」の字に「遠」の字を「近」の字に変えるべきだとする説、「去」の字は「之」に「遠」は「速」にすべきだとする説などがある。
【原文】
丹朱之不肖、舜之子亦不肖、舜之相堯、禹之相舜也、歷年多、施澤於民久、諬、賢、能敬承繼禹之衜、益之相禹也、歷年少、施澤於民未久、舜・禹・益、相去久遠、其子之賢不肖、皆天也、非人之所能爲也、莫之爲而爲者、天也、莫之致而至者、命也、匹夫而有天下者、德必若舜・禹、而又有天子薦之者、故仲尼不有天下、繼世以有天下、天之所廢、必若桀・紂者也、故益・伊尹・周公、不有天下。
6‐3 禅譲も継嗣も天命によるという義は同じである
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「伊尹は(殷の)湯王の宰相として王を助け、湯王を天下の王とさせた。その後、湯王が亡くなり、太子の太丁はまだ位に就かないうちに没してしまったので、(その弟の)外丙が位に就いたが、二年で没してしまい、さらに(その弟の)仲壬が位に就いたが、これも四年で亡くなった。そこで(太丁の子である)太甲が天子の位に就いたものの、湯王が定めた常法を壊すなどの暴政を行った。そこで伊尹は、太甲を桐というところに追放して反省させること三年であった。そこで太甲は自分の過ちを反省し、修養に努めて仁の道に従い、義の行いをするようになっていった。そして三年後、伊尹の自分への教えをよく聞き入れたので(湯の都)亳に戻って位に就くことになった。(このようなわけで伊尹は自らが天子にならなかった。)周公が、天子となり天下を保つようにならなかったのも、ちょうど益の夏における場合と、伊尹の殷における場合と同じである。孔子も言っている。『唐・虞、すなわち堯・舜は位を賢者に禅譲し、夏后・殷・周は子孫が継承した。いずれも、それは天意にもとづくものであり、その義(私欲を含まないという道理においては)同一である』と」。
【読み下し文】
伊尹(いいん)(※)は湯(とう)に相(しょう)として、以(もっ)て天下(てんか)に王(おう)たらしむ。湯(とう)崩(ほう)じ、大丁(たいてい)未(いま)だ立(た)たず。外丙(がいへい)は二年(にねん)。仲壬(ちゅうじん)は四年(よねん)。大甲(たいこう)、湯(とう)の典刑(てんけい)(※)を顚覆(てんぷく)す。伊尹(いいん)之(これ)を桐(とう)に放(ほう)すること三年(さんねん)なり。大甲(たいこう)過(あやま)ちを悔(く)い、自(みずか)ら怨(うら)み(※)自(みずか)ら艾(おさ)めて(※)、桐(とう)に於(お)いて仁(じん)に処(お)り義(ぎ)に遷(うつ)ること三年(さんねん)、以(もっ)て伊(い)尹(いん)の己(おのれ)に訓(おし)うるを聴(き)くや、亳(はく)に復帰(ふっき)す。周公(しゅうこう)の天下(てんか)を有(たも)たざるは、猶(な)お益(えき)の夏(か)に於(お)ける、伊尹(いいん)の殷(いん)に於(お)けるがごときなり。孔子(こうし)曰(いわ)く、唐(とう)・虞(ぐ)(※)は禅(ゆず)り(※)、夏后(かこう)・殷(いん)・周(しゅう)は継(つ)ぐ(※)。其(そ)の義(ぎ)は一(いつ)なり、と。
(※)伊尹……公孫丑(上)第二章十、尽心(上)第三十一章参照。
(※)典刑……常法。
(※)自ら怨み……反省し。
(※)自ら艾めて……自ら修養に努め。
(※)唐・虞……堯と舜のこと。堯を陶唐氏、舜を有虞氏と言ったからである。なお、『論語』でも「唐虞」と述べているところがある(泰伯第八参照)。
(※)禅り……禅譲。賢者に位を譲ること。
(※)継ぐ……継嗣。子孫に位を継承させる。
【原文】
伊尹相湯、以王於天下、湯崩、太丁未立、外丙二年、仲壬四年、太甲、顚覆湯之典刑、伊尹放之於桐三年、太甲悔過、自怨自艾、於桐處仁迁義三年、以聽伊尹之訓己也、復歸于亳、周公之不有天下、猶益之於夏、伊尹之於殷也、孔子曰、唐・虞禪、夏后・殷・周繼、其義一也。
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