第176回
解説(2)
2021.12.07更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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二、孟子とはどういう人か、思想の根本はどういうものか
孟子の名は軻(か)という(子は尊称で、先生というような意味である)。字(あざな)は子(し)輿(よ)とか子車(ししゃ)とかいわれることもあるが、確かな証拠はないようだ。
前述のように鄒という小国(現在の山東省鄒県あたり)に生まれた。孔子の故郷である魯の国の近くである(尽心下篇第三十八章参照)。自らも述べているように孔子より百数十年後のこととなる。
どんな家庭に生まれたかの確かな証拠はないが、父が母より先に死んでいること、上流貴族の出ではないが、まったくの下層階級でもない。いわゆる中流の家庭に生まれたとされている。
漢の時代、劉向(りゅうきょう)という人が書いた『列女伝』で、孟子の母のことが紹介され、今によく伝わっている。日本でも「孟母三遷(もうぼさんせん)」「断機(だんき)の戒(いまし)め」という故事は有名である。
本当にあったことかは疑わしいとされるものの、孟子の母がいかに立派だったかを伝えるものとなっている。
前者については本文のなかですでに紹介した。我が幼児(おさなご)の教育を考えて、より良い環境を求めて三回も引越しをしたという話である。
後者は、青年孟子の学問修業への覚悟を忘れないようにする母の厳しい態度、教えである。孟子が修業途中で帰省したとき、母から勉強の進み具合をたずねられ、「相変わらずです」というちょっと曖昧な返事をしたため、母が織りかけの機(はた)を刃物で断ち切るという戒めである。途中で投げ出すことは、これと同じだという教えである。
この母にしてこの子というのが孟子であるのかもしれない。相手がどんなに権力があろうが、偉かろうが、自分が正しいと思う考え、施策をズバスバと言う。そこに遠慮というのはあまり感じられない。弟子の教育においても妥協はない。厳しいものがある。
しかし、その根底は、母のように強烈な愛と思いやりがあるのである(まったくの偶然でしかないが、私のこれまでの生き方とよく似たところがある。だからか、おこがましいけれど、孟子と似たところがあって、よく人にも嫌われもした。しかし、今回『孟子』を勉強してみて、自分のつまらない生き方にも何か光のようなものがあるのを感じた)。
孔子の「仁」(つまり、最高で適切な愛を実践する徳)をめざし、それを実践していくに、今求められている世の中の秩序に沿った「義」を貫いていこうとするのが孟子の根本である。
孟子の言葉を借りると、「仁」は私たちの心であり、「義」は正しい道、生き方なのである。この孟子の仁義説はよくできているものだと思う。中国社会では、古くから個人主義が尊重されていることがあり(小島祐馬博士の『中国思想史』KKベストセラーズ参照)、自分と家族(あるいは自分たちの結社・グループ)を大事にすればよいとなりやすい。孟子は、これを認めつつも、さらに世の中や社会全般にその仁(愛)を広めていくために「義」も大事にしていこうとすると見ることもできる。
個人主義が中国ほどではなかった日本で、より孟子は合い、吉田松陰が孟子を信奉したのもそのためもあったように解される(孟子が義を人間の内心から出てくるもので、決して外から求められるものではないという主張に、松陰は中国人にこのことは理解しづらいと言っているのはそういうことだろう)。
一歩踏み込んで私見を述べさせてもらうと、「仁」という人を愛するということに最大価値を置くのは、世の中がどう変わっていこうと揺るがないであろう。あとは、その愛の実践の仕方をどうするのかが、「義」によって定めていかねばならないことになる。
昔のいわゆる五倫は、今やそのままでは通用しない時代となった。それでも、まったくの個人主義、つまり自分だけよければ後はどうでもいいなんていう世の中にはならない。いやなるべきではない。その時代、その場所に求められる適切な関係、人の愛し方を求めて実践していくことにあろう。
こう見ていくと孟子の「仁義説」の現代的価値は何ら減ずるものではないのではないか。
さらに孟子の思想の特徴を二つの言葉で表すと「性善説」と「王道政治」とがある。
性善説は、人というのは本来、善であり、それを見出し、延ばしていこうというものである。
もちろん孟子も、現代世界に悪がはびこっているのはよく知っている。嫌いでしかたない人物もいた。しかし、そのことを知った上で、人間の性善を信じて人を愛して、人類愛に溢れる社会を追い求めるのだという、自分の考えの実践のための理論として求めているのが性善説なのであろう。そこには未来を信じる楽天的な思考がある。王や弟子に話す言葉は厳しいが、孟子の根本思想は人類愛の実現である。
もう一つの王道政治は、時代の制約から致しかたないものがある。孟子の生きた時代のなかで、どうしたら、人々を幸せにできるのかを考えたとき、仁義の徳を実践する王道政治となったのである。人の善性から導かれる仁(愛と思いやり)の心を広めていく、社会全般に及ぼしていくという王道政治こそが求められるとした。そこにはやはり人類愛の実現法に悩む孟子の姿が見える。
もちろん現在の世の中では、王道政治はありえない。しかし、政治に携わる者、広く組織に携わり、人の上に立つ者が、求められる資質として、仁徳が求められることには変わりがない(現代最高峰とされる欧米の経営学者も、企業のトップに求められるのは誠実性、真摯性などの徳であると述べている)。だから制度としてはありえないにしても、人々の徳のあり方として孟子の王道政治論を学ぶ意義はなくならない
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