第27回
64〜65話
2021.04.27更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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15‐1 自分の目的を達するために他人に犠牲を強いてはいけない
【現代語訳】
滕の文公が問うて言った。「我が滕の国は小国である。全力を尽くして大国に仕えても、その圧迫、侵略から免れることができていない。どうしたらよいだろうか」。孟子は答えて言った。「昔、周の大王は邠におられましたが、野蛮国の狄が侵略してきました。大王は、獣の皮や絹織物などを贈って、狄に仕えたが、侵略から免れることはできませんでした。また、犬や馬を贈って、狄に仕えましたが、やはり侵略を免れることはできませんでした。さらに、珠玉を贈って仕えましたが、それでもだめでした。そこで大王は、邠の長老たちを集めて言いました。『狄の欲しているものは、この土地である。私はこう聞いている。すなわち君子は、自分の目的を達するために他人の犠牲にしてはいけない、と。つまりこの土地はそこに住む民の生活のためにあり、その民の犠牲を出してまで、私が居すわろうとするのはおかしい。皆は、私が去っても狄の下で暮らせる。だから私はここを立ち去ることにする』と。こうして大王は邠を去って梁山を越えて、岐山のふもとに集落をつくって住みました。すると、邠の人たちは、『大王は本当に仁人である。あのような君を失ってはならない』と言って大王の後についていき、まるで市場に買い物にでも出かけるように、ぞろぞろと歩いていきました。以上に対して、もう一つ別のやり方もあると思います。それは、『この国は、先祖代々ずっと守り伝えてきたものである。自分一人の勝手で放り出すことなどできない。だから死んでも、立ち退くな』と言うことです。つまり死守するということです。王よ。この二つの方法のうちから一つを選んでください」。
【読み下し文】
滕(とう)の文公(ぶんこう)問(と)うて曰(いわ)く、滕(とう)は小国(しょうこく)なり。力(ちから)を竭(つく)して以(もっ)て大国(たいこく)に事(つか)うるも、則(すなわ)ち免(まぬか)るるを得(え)ず。之(これ)を如何(いか)にせば則(すなわ)ち可(か)ならん。孟子(もうし)対(こた)えて曰(いわ)く、昔者(むかし)大王(だいおう)邠(ひん)に居(お)る。狄人(てきひと)之(これ)を侵(おか)す。之(これ)に事(つか)うるに皮弊(ひへい)(※)を以(もっ)てすれども、免(まぬか)るるを得(え)ず。之(これ)に事(つか)うるに犬馬(けんば)を以(もっ)てすれども、免(まぬか)るるを得(え)ず。之(これ)に事(つか)うるに珠玉(しゅぎょく)(※)を以(もっ)てすれども、免(まぬか)るるを得(え)ず。乃(すなわ)ち其(そ)の耆老(きろう)(※)を属(あつ)め而(しか)して之(これ)に告(つ)げて曰(いわ)く、狄人(てきひと)の欲(ほっ)する所(ところ)の者(もの)は、吾(わ)が土地(とち)なり。吾(わ)れ之(これ)を聞(き)く、君子(くんし)は其(そ)の人(ひと)を養(やしな)う所以(ゆえん)の者(もの)を以(もっ)て人(ひと)を害(がい)せず。二三子(にさんし)(※)、何(なん)ぞ君(きみ)無(な)きを患(うれ)えん。我(われ)将(まさ)に之(これ)を去(さ)らんとす、と。邠(ひん)を去(さ)り、梁山(りょうざん)を踰(こ)え、岐山(きざん)の下(もと)に邑(ゆう)して(※)居(お)る。邠人(ひんひと)曰(いわ)く、仁人(じんじん)なり。失(うしな)うべからざるなり、と。之(これ)に従(したが)う者(もの)市(し)に帰(おもむ)くが如(ごと)し。或(あるい)は曰(いわ)く、世〻(よよ)の守(まもり)なり。身(み)の能(よ)く為(な)す所(ところ)に非(あら)ざるなり。死(し)を効(いた)すも去(さ)ること勿(な)かれ、と。君(きみ)請(こ)う(※)斯(こ)の二者(にしゃ)に択(えら)べ。
(※)皮弊……「皮」は美しい獣の皮。「弊」は絹織物の類。
(※)珠玉……「珠」は海でとれる宝物。「玉」は山でとれる宝物。
(※)耆老……ここでは長老を指す。六十以上を「耆」と言い、七十以上を「老」と言う。
(※)二三子……「お前たち」とか「あなたたち」とかの呼びかけの言葉。なお、『論語』でも、孔子が弟子たちに呼びかけるときに使っている。
(※)邑して……集落をつくって。村をつくって。なお、「邑」は、古代中国の王の領地を指すこともある。
(※)君請う……王よ、択んでください。決めてください。なお、吉田松陰は、二者択一のうち、孟子の真意は第十三章と同じように「死を効(いた)すも去ること勿かれ」にあるという。外国の侵出を危惧する幕末の日本状況下を考えたら、松陰は当然そういう結論に賛成するだろう。また、穂積重遠氏も次のように述べる。「孟子は二者いずれを択べとも言わなかったが、どこへでも引っ越し先のある大昔とは違って、大王流の移住策はとうてい実行不可能故、第二の死守策を採る外ない。前二章から見ても、孟子は仁政をもって民心を得た上で、人民とともに祖国を死守しなさい。天の時、地の利、人の和のあるところ、大国といえども恐るるに足らずと、文公に勇気づけたものに相違ない」(『新訳孟子』穂積重遠著 講談社学術文庫)。
【原文】
滕文公問曰、滕小國也、竭力以事大國、則不得免焉、如之何則可、孟子對曰、昔者大王居邠、狄人侵之、事之以皮幣、不得免焉、事之以犬馬、不得免焉、事之以珠玉、不得免焉、乃屬其耆老而告之曰、狄人之所欲者、吾土地也、吾聞之也、君子不以其所以養人者害人、二三子、何患乎無君、我將去之、去邠、踰梁山、邑于岐山之下居焉、邠人曰、仁人也、不可失也、從之者如歸市、或曰、世守也、非身之所能爲也、效死勿去、君請擇於斯二者、
16‐1 取り巻きにすぐ影響を受けやすいリーダーはダメである
【現代語訳】
魯の平公が出かけようとした。取り巻きの側近である臧倉が言った。「これまで君が出かけられるときは、必ず係の役人に行く先を命じられました。しかし、今日は馬車の用意もできておりますのに、係の者はまだ行き先を知りません。どうか、どこに行かれるのか、教えてください」。平公は答えた。「今から、孟子に会いに行こうと思う」。臧倉は言った。「何ということでしょう。君ともあろう身分の高い方が、軽々しくも身分の低いつまらない男にすぎない孟子に会いに出かけられるなんて。孟子を賢者と思われたためでしょうか。孟子は賢者ではありません。礼儀というのは、賢者から出てくるものですが、後で死んだ母の葬式は、前に死んだ父の葬式に比べて、はるかに立派になされていました。このことからもわかるように賢者でない孟子に、君が会うというのはやめたほうがよいのではないですか」。これを聞いて平公は「わかった、そうする」と答えた。
【読み下し文】
魯(ろ)の平公(へいこう)(※)将(まさ)に出(い)でんとす。嬖人(へいじん)(※)臧倉(ぞうそう)なる者(もの)請(こ)うて曰(いわ)く、他日(たじつ)君(きみ)出(い)づれば、則(すなわ)ち必(かなら)ず有司(ゆうし)に之(ゆ)く所(ところ)を命(めい)ぜり。今(いま)乗輿(じょうよ)(※)已(すで)に駕(が)(※)せり。有司(ゆうし)未(いま)だ之(ゆ)く所(ところ)を知(し)らず。敢(あえ)て請(こ)う。公(こう)曰(いわ)く、将(まさ)に孟子(もうし)を見(み)んとす。曰(いわ)く、何(なん)ぞや、君(きみ)の身(み)を軽(かろ)んじて以(もっ)て匹夫(ひっぷ)(※)に先立(さきだ)つことを為(な)す所(ところ)の者(もの)は、以(もっ)て賢(けん)と為(な)すか。礼義(れいぎ)は賢者(けんじゃ)より出(い)づ。而(しか)るに孟子(もうし)の後(こう)喪(そう)(※)は前喪(ぜんそう)に踰(こ)えたり。君(きみ)見(み)ること無(な)かれ。公(こう)曰(いわ)く、諾(だく)。
(※)平公……魯の王。孟子は、斉を去った後故郷の鄒に帰る前に魯に寄った。梁の恵王に会ってから(梁恵王(上)第一章参照)、約十五年間の遊説の旅の終わりである。その遊説は年齢的には五十五歳ごろから七十歳ごろとみられている。平公の諡である「平」には、穏やかとかの意味があるほか、平凡とか、簡単とかの意味もある。これからもわかるように、大した人物ではなかったようだ。
(※)嬖人……取り巻きの側近。お気に入りの家来。
(※)乗輿……ここでは馬車。乗りものの総称。
(※)駕……馬に車をつけて引かせる用意をすること。
(※)匹夫……身分の低いつまらない男。なお、梁恵王(下)第八章の「一夫」も参照。
(※)後喪……孟子は父を先に失ったので父の喪儀が前喪となり、母の喪儀が「後喪」となる。
【原文】
魯平公將出、嬖人臧倉者請曰、他日君出、則必命有司所之、今乘輿已駕矣、有司未知所之、敢請、公曰、將見孟子、曰、何哉、君所爲輕身以先於匹夫者、以爲賢乎、禮儀由賢者出、而孟子之後喪踰前喪、君無見焉、公曰、諾、
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