第71回
167〜168話
2021.07.02更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
「目次」はこちら
9‐2 周王朝建国の歴史
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「堯・舜が没してしまうと、聖人の道が衰えた。すると暴君が次々と現れ、民の住居を壊し、遊ぶための池をつくってしまうので、民は安らかに生活できなくなってしまった。また、民の田畑をつぶして、自分たちが遊び楽しむための花園や狩り場をつくり、民が衣食さえ手に入れることをできなくしたのだ。そのうえに、よこしまで誤った説を唱えたり、乱暴な行動をする者も現れた。悪い君主の遊ぶための花園、狩り場、池、沢などが多くなり、禽獣もさかんにやってくるようになったのである。そして、紂王のころになって天下はどうしようもないほどに乱れたのである。こうした状況となったので、遂に周公は兄の武王を助けて、紂王を誅し、さらに殷の同盟国であった奄を伐って三年かけてその君を滅ぼした。そして、紂王の寵臣だった飛廉を海辺の片隅まで追いやって殺した。こうして民を虐げていた五十数ヵ国を滅ぼした。虎、ひょう、さい、象なども遠くへと追いやった。このため民も大いに喜んだのである。『書経』にもこうある。『大いに明らかなことかな。文王の計画は。大いに、文王の計画を継承したるものかな、武王の功業は。我が周の子孫を助け導くに、正しい道をもってし、どこにも欠点はないのである』と」。
【読み下し文】
堯(ぎょう)・舜(しゅん)既(すで)に没(ぼっ)し、聖人(せいじん)の道(みち)衰(おとろ)う。暴君(ぼうくん)代〻(かわるがわ)る作(おこ)り、宮室(きゅうしつ)(※)を壊(やぶ)りて以(もっ)て汙池(おち)(※)と為(な)し、民(たみ)安息(あんそく)する所(ところ)無(な)し。田(でん)を棄(す)てて以(もっ)て園(えん)囿(ゆう)(※)と為(な)し、民(たみ)をして衣(い)食(しょく)するを得(え)ざらしむ。邪説(じゃせつ)暴行(ぼうこう)又(また)作(おこ)る(※)。園(えん)囿(ゆう)・汙池(おち)・沛沢(はいたく)多(おお)くして、禽獣(きんじゅう)至(いた)る。紂(ちゅう)の身(み)に及(およ)んで、天下(てんか)又(また)大(おお)いに乱(みだ)る。周公((しゅうこう)、武王(ぶおう)を相(たす)けて、紂(ちゅう)を誅(ちゅう)し奄(えん)を伐(う)ち、三年(さんねん)其(そ)の君(きみ)を討(う)つ。飛廉(ひれん)を海隅(かいぐう)に駆(か)りて之(これ)を戮(りく)す。国(くに)を滅(ほろ)ぼす者(もの)五十(ごじゅう)。虎(こ)豹(ひょう)犀(さい)象(ぞう)を駆(か)りて之(これ)を遠(とお)ざく。天下(てんか)大(おお)いに悦(よろこ)ぶ。書(しょ)に曰(いわ)く、丕(おお)いに顕(あき)らかなるかな文王(ぶんおう)の謀(はかりごと)。丕(おお)いに承(つ)げるかな武王(ぶおう)の烈(いさおし)。我(わ)が後人(こうじん)(※)を佑(ゆう)啓(けい)して、咸(みな)正(せい)を以(もっ)てし欠(か)くる無(な)し、と。
(※)宮室……民の住居。
(※)汙池……梁恵王(下)第三章三参照。
(※)園囿……「園」は花園。「囿」は狩り場。囿については梁恵王(下)第二章一参照。
(※)邪説暴行又作る……また、よこしまで誤った説を唱えたり、乱暴な行動をしたりする者も現れた。なお、「邪説暴行又作」の文字は、次項の三に出てくる「邪説暴行有作」がまぎれ込んだものとする説もある。
(※)我が後人……我が周の子孫。
【原文】
堯・舜既沒、垩人之衜衰、暴君代作、壞宮室以爲汙池、民無所安息、棄田以爲園囿、使民不得衣⻝、邪說暴行又作、園囿・汙池・沛澤多、而禽獸至、及紂之身、天下又大亂、周公、相武王、誅紂伐奄、三年討其君、驅飛廉於海隅而戮之、滅國者五十、驅虎豹犀象而遠之、天下大悅、書曰、丕顯哉文王謨、丕承哉武王烈、佑諬我後人、咸以正無缺。
9‐3 春秋の筆法
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「(周もだんだん末になると)世も次第に衰えて聖人の道があまり行われなくなり、よこしまで誤った説を唱えたり、乱暴な行動をする者が現れた。臣でありながらその君を弑する者があり、子でありながらその父を弑する者も出てきた。孔子は、こうした風潮を深く心配されて春秋をつくられた。この春秋は、諸侯以下の人々の善行をほめ、悪行は厳しく批判して、このようなことは元来、天子がなされることである。だから孔子は、『私の真意を知ってもらう者があるとすれば、それはただこの春秋によってであろう。また、私を越権なことをしたと非難する者があれば、やはりそれはただこの春秋であろう』と」。
【読み下し文】
世(よ)衰(おとろ)え道(みち)微(び)にして(※)、邪説(じゃせつ)暴行(ぼうこう)有(また)作(おこ)る。臣(しん)にして其(そ)の君(きみ)を弑(しい)する者(もの)之(これ)有(あ)り。子(こ)にして其(そ)の父(ちち)を弑(しい)する者(もの)之(これ)有(あ)り。孔子(こうし)懼(おそ)れて春秋(しゅんじゅう)を作(つく)る。春秋(しゅんじゅう)(※)は天子(てんし)の事(こと)なり。是(こ)の故(ゆえ)に孔子(こうし)曰(いわ)く、我(われ)を知(し)る者(もの)は、其(そ)れ惟(ただ)春秋(しゅんじゅう)か。我(われ)を罪(つみ)する者(もの)も、其(そ)れ惟(ただ)春秋(しゅんじゅう)か、と。
(※)道微にして……聖人の道があまり行われなくなり。
(※)春秋……魯の隠公元年(前七二二年)より、衰公十四年(前四八一年)までの二百四十二年間の魯の歴史を書いたもの。『春秋』は『書経』や『詩経』などとともにいわゆる「五経」の一つとされた。ここの孟子の文章で、これは孔子が乱れた世を直すための深い叡智で書いたものとしたことにより、後世、『春秋』を大事にし、研究されてきた。『五経』の一つにしたのも、朱子が孟子のこの文に多大な影響を受けたためであろう。なお、「春秋の筆法」という言葉もよく知られている。意味は「中国の経書『春秋』の文章の書き方。孔子の歴史批判が示されているとされるところから、『春秋』の表現に見られるような公正で厳しい批判的な態度をいう。また、間接的な原因を直接的な原因として表現する論理形式を指してもいう」(『故事ことわざの辞典』 小学館)とされる。
【原文】
世衰道微、邪説暴行有作、臣弑其君者有之、子弑其父者有之、孔子懼作春秋、春秋天子之事也、是故孔子曰、知我者、其惟春秋乎、罪我者、其惟春秋乎。
感想を書く