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第1回

まえがき

2021.03.22更新

読了時間

 「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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まえがき

 ご存じのように、『孟子』は『論語』と並ぶ古典、儒教の教えを伝えるものとされてきました。特に『孟子』が出てから約千年も経った宋の時代に生まれた新儒教ともいうべき朱子学が確立され、後の時代に長きにわたって中国のみならず、朝鮮、日本にと『孟子』はいわゆる“四書”の一つとして、重視されたのです。
 それにもかかわらず、『孟子』は、『論語』に次ぐ位置を与えられてきたかのようです。孔子は、聖人とされるのに、孟子はそれに次ぐ、「亜聖」ともいわれてきました。これは仕方のないことでもあったのかと思います。孟子自身も孔子をもっとも尊敬し、孔子を最大の目標として学び続け、生きたのですから。特に日本においては、孟子の人気は孔子よりかなり劣っていたようです。
 それは第一に、孟子自身の性格でしょう。『孟子』を読めば、すぐにわかるのですが、自分の主張を通すために、相手をやり込めていきます。時には、へりくつのような理論をつくって相手を言い負かしているように見えます。孔子がわりと自分の欠点を語り、その間違いを認めたり、弟子たちを温かく、広く見守る寛容性、そして広い人間性が私たちの尊敬を強固なものとしていくのと、対照的なところもあります。
 第二に、『論語』は、簡潔に語ってくれますが、『孟子』はその理論武装のためか、対話は長く(それは面白くて見事なものですが)、これでもかというように教えるところがあります。これもある人たちには嫌味にとらえられるところです。
 正直言うと、私もその一人だったのかもしれません。孟子の本当のすばらしさがよくわかっていなかったのでしょう。
 私は吉田松陰の研究もライフワークの一つとしています。すでに何冊かの本も世に出しています。不思議だったのは、その吉田松陰が、まるで自分と一体かのように『孟子』を愛していた点です。松陰の本を書くにあたって、その主著である『講孟箚記(こうもうさっき)』に何度も目を通していましたが、この疑念は強くなるばかりでした。
 その理由ははっきりとしています。私の『孟子』理解が不十分だったのです。
 このたび、誠文堂新光社編集部の青木耕太郎氏の強いすすめで『孟子』に取り組みました。私は本にするには大部すぎるのではと心配しましたが、氏の勇気ある後押しで挑戦しました。
 それから二、三年くらい毎日、『孟子』を読んでいきました。するとどうでしょう。これは素晴らしい内容で、松陰という人間も『孟子』がつくり上げた人間の一人ではないかと思うようになったのです。こうして私は『孟子』の魅力に取りつかれ、『孟子』に毎日取り組み、考えることが楽しくてしかたなくなったのです。
 それは、私の『論語』に対する解釈が、ほぼでき上がってから二十年は経っていたと思います。私の『論語』についての見方は、ほとんど変わりませんが、『孟子』は、その理解をより深めてくれました。これも、今回の『孟子』に取り組んだご褒美の一つです。それとともに、『孟子』は、『論語』とは違ったすばらしさと魅力で私にはなくてはならない本となりました。

 孟子と松陰について、生まじめすぎて少し狭量でないかと言う人たちもいます。それは私に言わせてもらうならば、それほどに二人は、まっすぐに自分の信じる正しい道をひたむきに進んだからなのです。
 松陰はそれほどまでに、孟子を自分に取り込み理解し、かつ実践した人です。これほど孟子の教えを実際に実践した人というのは、私の知る限りでは歴史上いないのではないでしょうか(よく渋沢栄一が『論語』を実践したといわれますが、松陰の『孟子』ほどではないと思います)。
 いや思い切って言うと、松陰だけでなく、これまでの多くの日本人と現在の日本人に強い影響を与えているのは、『論語』と『孟子』ではないかと考えます。
『論語』と『孟子』の影響は、それらを生んだ中国ではそれほどでもないのに、日本人に多大な影響を与えています。このことは、これからの研究に待つところも大きいのですが、かつて新渡戸稲造が名著『武士道』のなかで見事に指摘してくれているように、少なくとも日本人の「武士道」精神にはかなり取り込まれているようです(新渡戸の論を正確に言うと、『論語』と『孟子』の教えが、昔からあった日本人の考え方と合った)。例えば、孟子の「恥」についての教えは、日本人にこそ浸透していて、中国では全く違っています(尽心上篇第六章、第七章参照)。
 初めに述べましたように、『論語』と『孟子』は、儒教の教えを説いたものとされてきました。しかし、以上の考察から、私には単に儒教の教え以上の存在価値が、日本人にあったのだと思っています。
 現代の価値観はどんどん変わっています。上司・部下の関係、先輩・後輩の関係、師弟の関係、男女の関係、家庭のあり方、社会との向き合い方など、いわゆるこれまでの儒教が教えてきたものとは大きく違ったものになっているようです。この変化はこれからもさらに続いていくものだと思います。時間の経過とともに変わっていくのは当たり前のことなのです。
 ただ、変わらないものがあります。それは孟子が強く論じているように、一人一人の人間、そしてその人間が生活する社会を健全なものにしていくということです。ここに最高の価値を置くことは変わらないでしょうし、変わるべきではありません。そもそも日本人とその社会は儒教の教えだけでできあがっているのではありません(このことについては拙著『全文完全対照版 老子コンプリート』、『全文完全対照版 菜根譚コンプリート』誠文堂新光社参照)。
 私が、このたび『孟子』の魅力に引き込まれ、取り込まれていったのは、この人間尊重、一人一人の人間の幸せの実現のための社会のあり方、政治に携わる者、人の上に立つ者はこのことを片時も忘れてはならないという孟子の強い強い主張のためでした。この崇高な目標のためには、絶対妥協なんかしないというその覚悟に、共感したからです。
 確かに『孟子』は大部の本です。しかし、読めばわかるように、日本語となったものも少なくありません。どの章、どの文章も、人の幸せを実現しようという孟子の論で埋まっていて、そこには少しの妥協もないのです。
 たとえ人生のどん底にあるように見えても、それは本物の自分をつくり上げていくためのものだと強く語りかけてもくれています。このような孟子に、大きな勇気をもらい、命懸けで実践していったのが、これまでの日本人です。
 こうして『孟子』は、私たち日本人にとって儒教の教科書を超えた書というべきものになっています。このたびの本は、こうした、『孟子』の魅力を徹底して追求し、これまでにないほどの面白くて、ためになって、やさしい『孟子』になったのではないかと自負しています(こう恥ずかしくも言えるのはまさに孟子の教えを強く感じているからです)。

 私に、このような覚醒の機会を与えてくださった青木耕太郎氏と誠文堂新光社に感謝致します。

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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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