第7回
15〜17話
2021.03.30更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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5‐1 仇を討って恥をすすぎたい
【現代語訳】
梁の恵王が言った。「我が晋の国は、天下にこれより強い国はなかった。このことは先生も知っておられると思う。しかし、自分の代になると、東では斉に敗れて、長男も捕まって死んでしまった。西は秦に領地を七百里四方も奪われた。南はというと楚に敗れて辱めを受けてしまった。私はこれらのことが残念で恥ずかしく思う。願わくは、死んでしまった者たちのためにも、何とか一度、仇を討って恥をそそぎたいものだ。そのためにはどうすればよいのだろうか」。
【読み下し文】
梁(りょう)の恵王(けいおう)曰(いわ)く、晋国(しんこく)(※)は天下(てんか)焉(これ)より強(つよ)きは莫(な)し。叟(そう)の知(し)れる所(ところ)なり。寡人(かじん)の身(み)に及(およ)び、東(ひがし)は斉(せい)に敗(やぶ)れ、長子(ちょうし)死(し)す。西(にし)は地(ち)を秦(しん)に喪(うしな)うこと七百里(しちひゃくり)。南(みなみ)は楚(そ)に辱(はずかし)めらる。寡人(かじん)之(これ)を恥(は)ず。願(ねが)わくは死者(ししゃ)の比(ため)に(※)一(ひと)たび之(これ)を洒(すす)がん(※)。之(これ)を如何(いか)にせば則(すなわ)ち可(か)ならん。
(※)晋国……梁すなわち魏は、趙(ちょう)、韓(かん)二国とともに春秋の覇者の晋国を分割してできた国である(晋は一応なくなったことになる)。しかし、魏は、晋国の首府のあった山西省西南部あたりを領有していたので、晋国を継承するとして、晋国と呼ぶこともあった。ここで恵王が自国を晋国と称しているのは、晋国の文公(重耳〈ちょうじ〉)の時代、覇者であったその夢を再びという野望のためである。なお、尽心(下)第一章参照。
(※)比に……ために。このほかにも「比」を「代」という字と同じに見る説、「及」という字と同じに見る説などがある。
(※)洒がん……仇を討って恥をすすぎたい。
【原文】
梁惠王曰、晉國天下莫强焉、叟之所知也、及寡人之身、東敗於齊、長子死焉、西喪地於秦七百里、南辱於楚、寡人恥之、願比死者壹洒之、如之何則可、
5‐2 仁政を施している国は強い
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。孟子は答えて言った。「領地がたった百里四方しかない小さな国であっても、天下の王者となることができます。王がもし、仁政を民に施し、刑罰をなるべく軽くし、税金の取り立てを少なくし、農地を深く耕し、よく管理させ、きちんと草取りをさせ、若者には農事の暇なときに孝悌忠信の徳をよく教育し、家ではよく父兄につかえ、社会において目上の人によく仕えるように導くなら、棒をひっさげて行くだけで、秦や楚の堅固な甲冑や鋭利な武器でも倒すことができるようになるでしょう」。
【読み下し文】
孟子(もうし)対(こた)えて曰(いわ)く、地(ち)、方百里(ほうひゃくり)にして以(もっ)て王(おう)たるべし。王(おう)如(も)し仁政(じんせい)(※)を民(たみ)に施(ほどこ)し、刑罰(けいばつ)を省(はぶ)き、税斂(ぜいれん)(※)を薄(うす)くし、深(ふか)く耕(たがや)し易(おさ)め(※)耨(くさぎ)らしめ(※)、壮者(そうしゃ)は暇(か)日(じつ)を以(もっ)て其(そ)の孝悌(こうてい)忠信(ちゅうしん)を脩(おさ)め、入(い)りては以(もっ)て其(そ)の父(ふ)兄(けい)に事(つか)え、出(い)でては以(もっ)て其(そ)の長(ちょう)上(じょう)に事(つか)えば、梃(てい)を制(せい)して以(もっ)て秦(しん)・楚(そ)の堅甲利兵(けんこうりへい)(※)を撻(う)たしむべし。
(※)仁政……民に思いやりのある政治。民を救う政治。この「仁政」という言葉は『論語』にも見られない『孟子』が初めて使ったものと思われる。
(※)税斂……税の取り立て。
(※)易め……田をうまく管理すること。朱子も「易」は「治」とする。
(※)耨らしめ……きちんと草取りをさせる。
(※)堅甲利兵……堅固な甲冑や鋭利な武器。つまり、強兵。なお、本項の孟子の考え方は、孫子の兵法の柱である「五事」に合う。すなわち「五事」の第一は「道」である。「道(みち)とは、民(たみ)をして上(かみ)と意(い)を同(おな)じくせしむるなり。故(ゆえ)にこれと死(し)すべく、これと生(い)くべくして、危(あやう)きを畏(おそ)れざらしむるなり」(計篇)とする。孫子は孔子とほぼ同世代の人であるから、孟子よりも前の人である。当然、孟子も孫子の兵法は知っていたはずである。
【原文】
孟子對曰、地、方百里而可以王、王如施仁政於民、省刑罰、薄税斂、深耕易耨、壯者以暇日脩其孝悌忠信、入以事其父兄、出以事其長上、可使制梃以撻秦・楚之堅甲利兵矣、
5‐3 仁者に敵なし
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。「これに対し、王が敵と考えている国々(秦や楚など)は、民が農業をする上で大切な時期でも、平気で夫役を課してしまい、そのため父母を養うこともできないようにしています。そのため父母は餓え凍(こご)え、兄弟妻子も離散の憂きめに遭っています。このように彼らの国々は、民を穴に突き落とし、水のなかに溺らせるような悪政をしているのです。こんなときですから、王がさきほどのような仁政を行っている自国の兵を連れて、彼らの国々を征したら、誰が敵するでしょうか。だから昔から言われているのです。『仁者に敵無し』と。王よ、このことを疑ってはいけませんぞ」。
【読み下し文】
彼(かれ)は其(そ)の民(たみ)の時(とき)(※)を奪(うば)い、耕(こう)耨(どう)して以(もっ)て其(そ)の父母(ふぼ)を養(やしな)うことを得(え)ざらしむ。父母(ふぼ)凍餓(とうが)し、兄弟(けいてい)妻子(さいし)離散(りさん)す。彼(かれ)は其(そ)の民(たみ)を陥溺(かんでき)す。王(おう)往(ゆ)きて之(これ)を征(せい)せば、夫(そ)れ誰(たれ)か王(おう)と敵(てき)せん。故(ゆえ)に曰(いわ)く、仁者(じんしゃ)に敵(てき)無(な)し、と。(※)。王(おう)請(こ)う疑(うたが)うこと勿(な)かれ。
(※)民の時……民が農業をする上で大切な時期。
(※)仁者に敵無し……孟子の口ぶりだと、古くからあった言葉なのかもしれない。吉田松陰も『孟子』の影響からであろうが、この言葉を好んだ。
【原文】
彼奪其民時、使不得耕耨以養其父母、父母凍餓、兄弟妻子離散、彼陷溺其民、王往而征之、夫誰與王敵、故曰、仁者無敵、王請勿疑、
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