第173回
429〜431話
2021.12.02更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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37‐1 『論語』を深く理解する
【現代語訳】
万章が問うた。「孔子が陳にいたときに、『さあ、魯の国へ帰ろう。魯にいる我が弟子たちは、志は大きいけれど、まだ完成できていない。進取の精神に富み、その初めの志を忘れないでいるのだ』と言ったそうですが、孔子はどうして陳にいるとき、魯にいる狂者たちを思ったのでしょうか」。孟子は答えた。「孔子は、中庸の道を行く者たちと一緒に事にあたれないとしたら、狂者か獧者を得て、一緒に事にあたりたいものだと考えた。狂者は志を進んで行おうと積極的であり、獧者は不善を為さないことを堅く守ろうとする。孔子は、どうして中庸の道を行う者を求めないことがあろうか。ただそのような人はなかなかいないので、その次の者を望んだのである」。万章はさらに質問した。「あえて教えてほしいのですが、どういう人を狂者というのでしょうか」。孟子は言った。「琴張(子張)・曾晳・牧皮などは、孔子の言った狂者である」。万章は聞いた。「その人たちは、どうして狂者とされたのですか」。孟子は言った。「彼らは、志がとても大きくて、やたら、『古の人』、『古の人』と言うけれど、その行いを冷静に見てみると、口で言う通りにはなっていない。それで狂者と言うのである。ところが、この狂者もなかなか得ることは難しい。そこで、不潔な行い(不善)を潔しとしない人物を得て、これと一緒に事を行おうとするのである。このような人を獧者という。このように獧者は狂者の次に得べき人物ということになる」。
【読み下し文】
万章(ばんしょう)問(と)うて曰(いわ)く、孔子(こうし)陳(ちん)に在(あ)りて曰(いわ)く、盍(なん)ぞ帰(かえ)らざる。吾(わ)が党(とう)の士(し)は狂簡(きょうかん)(※)にして進取(しんしゅ)なり。其(そ)の初(はじ)めを忘(わす)れず、と。孔子(こうし)陳(ちん)に在(あ)りて、何(なん)ぞ魯(ろ)の狂士(きょうし)を思(おも)うや。孟子(もうし)曰(いわ)く、孔子(こうし)は道(ちゅうどう)を得(え)て之(これ)に与(くみ)せずんば、必(かなら)ず狂獧(きょうけん)(※)か。狂者(きょうしゃ)は進(すす)んで取(と)り、獧者(けんしゃ)は為(な)さざる所(ところ)有(あ)るなり。孔子(こうし)豈(あに)中道(ちゅうどう)を欲(ほっ)せざらんや。必(かなら)ずしも得(う)べからず。故(ゆえ)に其(そ)の次(つぎ)を思(おも)うなり。敢(あえ)て問(と)う、何如(いか)なれば斯(ここ)に狂(きょう)と謂(い)うべき。曰(いわ)く、琴張(きんちょう)(※)・曾晳(そうせき)・牧皮(ぼくひ)(※)の如(ごと)き者(もの)は、孔子(こうし)の所謂(いわゆる)狂(きょう)なり。何(なに)を以(もっ)て之(これ)を狂(きょう)と謂(い)うや。曰(いわ)く、其(そ)の志(こころざし)嘐嘐然(こうこうぜん)(※)たり。古(いにしえ)の人(ひと)、古(いにしえ)の人(ひと)と曰(い)うも、其(そ)の行(おこな)いを夷(い)考(こう)(※)すれば、焉(これ)を掩(おお)わざる者(もの)なり。狂者(きょうしゃ)又(また)得(う)べからず。不潔(ふけつ)を屑(いさぎよ)しとせざるの士(し)を得(え)て、之(これ)に与(くみ)せんと欲(ほっ)す。是(こ)れ獧(けん)なり。是(こ)れ又(また)其(そ)の次(つぎ)なり。
(※)狂簡……志は大きいけれど、まだ完成されていない。なお、『論語』では次のようにある「子(し)、陳(ちん)に在(あ)りて曰(いわ)く、帰(かえ)らんか、帰(かえ)らんか。吾(わ)が党(とう)の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)にして、斐(ひ)然(ぜん)として章(しょう)を成(な)すも、之(これ)を裁(さい)する所以(ゆえん)を知(し)らざるなり」(公冶長第五)。
(※)狂獧……「狂者」は、心を進んで行おうと積極的な人。「獧者」は不善をなさないことを堅く守ろうとする人。なお、『論語』では次のようにある「子(し)曰(いわ)く、中(ちゅう)行(こう)を得(え)て之(これ)に与(くみ)せずんば、必(かなら)ず狂狷(きょうけん)か。狂(きょう)なる者(もの)は進(すす)みて取(と)り、狷(けん)なる者(もの)は為(な)さざる所(ところ)有(あ)るなり」(子路第十三)。このように「中行」となっているが、これは「中道」と同じ意味であろう。また、『論語』では「狷」となっているが、『孟子』では「獧(けん)」としている。これも同音仮借で、同じ意味だろう。
(※)琴張……子張とされているが、別人だとの説もある。
(※)牧皮……孔子の弟子とされているが、詳しくはよくわかっていない。
(※)嘐嘐然……志がとても大きく、言うことも大きい様。
(※)夷考……冷静に見てみる。
【原文】
萬章問曰、孔子在陳曰、盍歸乎來、吾黨之士狂簡進取、不忘其初、孔子在陳、何思魯之狂士、孟子曰、孔子不得中道而與之、必也狂獧乎、狂者進取、獧者所不爲也、孔子豈不欲中道哉、不可必得、故思其次也、敢問、何如斯可謂狂矣、曰、如琴張・曾晳・牧皮者、孔子之所謂狂矣、何以謂之狂也、曰、其志嘐嘐然、曰古之人、古之人、夷考其行、而不掩焉者也、狂者又不可得、欲得不屑不絜之士、而與之、是獧也、是又其次也。
37‐2 郷原(偽善者)には気をつける
【現代語訳】
〈前項から続いて万章が問うた〉。「孔子は、『我が家の門前を通りながら、私の家を訪問せずに通りすぎても、残念に思わないのは、郷原だけであろうか。郷原は徳をそこなう食わせ者だからだ』と言ったようですが、この郷原とはどういう人間ですか」。孟子は言った。「郷原とは次のような人間を言う。すなわち、狂者については、『どうしてあのように大げさに志を語り、大きなことを言うのだろう。行いのことを考えずに物を言い、言葉のことを考えずに行って、言行一致がない。そして古の人、古の人とばかり口にする』と言う。そして獧者については、『どうして、あんなにも独りよがりで孤独的なのだろう。この世に生まれてきた以上、この世の人らしく生き、人から善い人だと評判が良ければ、それでいいはずだ』と言う。このように自分の本心を隠して、世間にこびへつらってうまく生きる者が、郷原という人間なのである」。
【読み下し文】
孔子(こうし)曰(いわ)く、我(わ)が門(もん)を過(す)ぎて我(わ)が室(しつ)に入(い)らざるも、我(われ)焉(これ)を憾(うら)みざる者(もの)は、其(そ)れ惟(ただ)郷原(きょうげん)(※)か。郷原(きょうげん)は徳(とく)の賊(ぞく)なり、と。曰(いわ)く、何如(いか)なれば斯(ここ)に之(これ)を郷原(きょうげん)と謂(い)うべき。曰(いわ)く、何(なに)を以(もっ)て是(これ)れ嘐嘐(こうこう)たるや。言(げん)に行(おこな)いを顧(かえり)みず。行(おこな)いに言(げん)を顧(かえり)みず。則(すなわ)ち古(いにしえ)の人(ひと)、古(いにしえ)の人(ひと)と曰(い)う。行(おこな)い何(なん)為(す)れぞ踽踽(くく)(※)涼涼(りょうりょう)(※)たる。斯(こ)の世(よ)に生(う)まれては、斯(こ)の世(よ)たり。善(よみ)せらるれば斯(ここ)に可(か)なり、と。閹然(えんぜん)(※)として世(よ)に媚(こ)ぶる者(もの)は、是(こ)れ郷原(きょうげん)なり。
(※)郷原……偽善者。ニセ紳士。なお、『論語』では次のように言っている。「子(し)曰(いわ)く、郷原(きょうげん)は徳(とく)の賊(ぞく)なり」(陽貨第十七)。
(※)踽踽……独りよがり。
(※)涼涼……孤独。
(※)閹然……本心を隠している。
【原文】
孔子曰、過我門而不入我室、我不憾焉者、其惟郷原乎、郷原德之賊也、曰、何如斯可謂之郷原矣、曰、何以是嘐嘐也、言不顧行、行不顧言、則曰古之人、古之人、行何爲踽踽涼涼、生斯世也、爲斯世也、善斯可矣、閹然媚於世也者、是郷原也。
37‐3 庶民が興れば邪悪はなくなる
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。万章が問うた。「村じゅうの人が原人すなわち、真面目で慎み深い人だと評判し、どこに行ってもそのようにいわれる人と見られそうなのに、孔子はこれを徳の賊だとするのはどうしてでしょうか」。孟子は答えた。「原人というのは偽善者だが、これを非難しようとしても非難すべきをうまく隠しているので非難できず、これを攻撃しようにも、攻撃する材料を見つけることもできない。世間の流れのなかでうまく生き、汚れた世とうまく調子を合わせて生きている。いかにも忠信の人らしく身を処し、行いも廉潔の人のように振る舞う。だから世間の人は、皆、この原人のすることに好意を持ち、原人もそれでいいと思っているけれども、とても堯・舜の道には入ることのできない人間である。だから孔子は徳の賊だと言ったのである。孔子は次のように言う。『私は似て非なる者を憎む。莠(はぐさ)を憎むのは、それが穀物の苗に似て、まぎらわしいからである。口先の上手な者を憎むのは、その言がいかにも義を装ってまぎらわしいからである。うまいことをしゃべって黒を白と言う利口を憎むのは、真実がまぎらわしいからである。鄭の音楽を憎むのは、それが正しい音楽に似せてはいるが、本物とは違ってまぎらわしいからである。紫色を憎むのは、正色である朱を乱すからである(朱色を変化させてまぎらわしいからである)。(偽善者の)郷原を憎むのは、それが徳がある者に似ていて、まぎらわしいからである』と。君子は、万世不易の常道に立ち返るだけである。この常道さえ正しく行われるようになったら、庶民は必ず奮い立つ。庶民が奮い立てば、郷原のような邪悪な者はいなくなるのである」。
【読み下し文】
万子(ばんし)(万章(ばんしょう))曰(いわ)く、一郷(いっきょう)皆(みな)原人(げんじん)と称(しょう)す。往(ゆ)く所(ところ)として原人(げんじん)(※)たらざる無(な)し。孔子(こうし)以(もっ)て徳(とく)の賊(ぞく)と為(な)すは、何(なん)ぞや。曰(いわ)く、之(これ)を非(ひ)(※)とせんに挙(あ)ぐべき無(な)く、之(これ)を刺(そし)らん(※)に刺(そし)るべき無(な)し。流俗(りゅうぞく)に同(おな)じくし、汙世(おせい)に合(がっ)す。之(これ)に居(お)ること忠信(ちゅうしん)に似(に)、之(これ)を行(おこな)うこと廉潔(れんけつ)に似(に)たり。衆(しゅう)皆(みな)之(これ)を悦(よろこ)び、自(みずか)ら以(もっ)て是(ぜ)と為(な)すも、而(しか)も与(とも)に堯(ぎょう)・舜(しゅん)の道(みち)に入(い)るべからず。故(ゆえ)に徳(とく)の賊(ぞく)と曰(い)うなり。孔子(こうし)曰(いわ)く、似(に)て非(ひ)なる者(もの)を悪(にく)む。莠(ゆう)(※)を悪(にく)むは、其(そ)の苗(なえ)を乱(みだ)るを恐(おそ)るればなり。佞(ねい)を悪(にく)むは、其(そ)の義(ぎ)を乱(みだ)るを恐(おそ)るればなり。利口(りこう)(※)を悪(にく)むは、其(そ)の信(しん)を乱(みだ)るを恐(おそ)るればなり。鄭声(ていせい)(※)を悪(にく)むは、其(そ)の楽(がく)を乱(みだ)るを恐(おそ)るればなり。紫(むらさき)を悪(にく)むは、其(そ)の朱(しゅ)を乱(みだ)るを恐(おそ)るればなり。郷原(きょうげん)を悪(にく)むは、其(そ)の徳(とく)を乱(みだ)るを、恐(おそ)るればなり。君子(くんし)は経(けい)に反(かえ)るのみ。経(けい)(※)正(ただ)しければ、則(すなわ)ち庶民(しょみん)興(おこ)る。庶民(しょみん)興(おこ)れば、斯(ここ)に邪慝(じゃとく)(※)無(な)し。
(※)原人……真面目で、慎み深い人。「原」は愿と同じで、謹言なこと、真面目なことをいう。ただ、孔子は、先に見たように「郷原(きょうげん)は徳(とく)の賊(ぞく)なり」と言っているように、「原人」も、ここでは、偽善者の意味も含まれている。
(※)非……非難する。
(※)刺らん……攻撃しようと思う。
(※)莠……はぐさと訓じる。苗に似た雑草。
(※)利口……うまいことを言って真実をごまかす。なお、『論語』では次のように言っている。「子(し)曰(いわ)く、紫(むらさき)の朱(しゅ)を奪(うば)うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽(がらく)を乱(みだ)すを悪(にく)む。利口(りこう)の家(ほうか)を覆(くつがえ)す者(もの)を悪(にく)む」(陽貨第十七)。
(※)鄭声……鄭の音楽。淫びなものであったとされる。
(※)経……ここでは、万世不易の常道を意味する。
(※)邪慝……邪悪。ここでは「郷原」などを指している。なお、福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、孔子、孟子の儒教を強く批判しているようだが、中身をよく読むとそうでもない。ここで孟子が言っている「庶民(しょみん)興(おこ)れば、斯(ここ)に邪(じゃ)慝(とく)無(な)し」を主張する書でもある。福沢は「郷原」とは言わず、「偽君子」が問題なのだと言っている(十一篇参照)。
【原文】
萬子曰、一郷皆稱原人焉、無所往而不爲原人、孔子以爲德之賊、何哉、曰、非之無擧也、刺之無刺也、同乎流俗、合乎汙世、居之似忠信、行之似廉絜、衆皆悅之、自以爲是、而不可與入堯・舜之道、故曰德之賊也、孔子曰、惡似而非者、惡莠、恐其亂苗也、惡佞、恐其亂義也、惡利口、恐其亂信也、惡鄭聲、恐其亂樂也、惡紫、恐其亂朱也、惡郷原、恐其亂德也、君子反經而已矣、經正、則庶民興、庶民興、斯無邪慝矣。
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