第25回
60〜61話
2021.04.23更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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12‐1 兵が将校と一体になっていないと軍は弱い
【現代語訳】
鄒と魯とが戦った。負けた鄒の穆公は孟子に聞いた。「今度の戦いで、我が将校たちは三十三人も戦死した。しかるに、民衆出身の兵卒は、将校とともに戦って死んだものはない(戦わずに逃げた)。けしからんことなので、兵卒たちを罰して処刑したいけれども、あまりにも多い数なので、そういうわけにはいかない。かといって処刑しないと、上の将校の戦死を、いい気味だと見殺してしまう罪を見逃してしまうことになる。どうしたらいいのだろうか」。
【読み下し文】
鄒(すう)(※)と魯(ろ)(※)と閧(たたか)う。穆公(ぼくこう)問(と)うて曰(いわ)く、吾(わ)が有司(ゆうし)(※)死(し)する者(もの)三十三人(さんじゅうさんにん)。而(しか)るに民之(たみこれ)に死(し)する莫(な)きなり。之(これ)を誅(ちゅう)せんとせば、則(すなわ)ち勝(あ)げて誅(ちゅう)す(※)べからず。誅(ちゅう)せざらんとせば、則(すなわ)ち其(そ)の長(ちょう)上(じょう)の死(し)を疾視(しつし)(※)して救(すく)わず。之(これ)を如何(いか)にせば則(すなわ)ち可(か)ならん。
(※)鄒……孟子の生まれた国で、今の山東省あたりにあった小国。
(※)魯……孔子の生まれた国で、鄒の隣国。なお、孔子の生まれたのは魯のなかにあった鄹(すう)という地。同じ読みだが字が違う。孟子は魯の隣国ということもあったのか、孔子を尊敬して“私淑”した(離婁(下)第二十二章および尽心(下)第三十八章参照。孟子は孔子より約百数十年後の人)。
(※)有司……役人のこと。ここでは将校を指す。
(※)勝げて誅す……一人残らずすべてを処刑する。
(※)疾視……兵卒(役人である将校ではなく民衆出身の兵)が、将校の死を、いい気味だと見すごす。
【原文】
鄒與魯閧、穆公問曰、吾有司死者三十三人、而民莫之死也、誅之則不可勝誅、不誅、則疾視其長上之死而不救、如之何則可也、
12‐2 すべては自分に(上に立つ者に)原因があると思え
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。孟子は答えて言った。「悪疫が流行した年や飢饉の年に穆公の国の民において、老人や幼い子どもは、みぞや谷間に転がって死んでおり、若者は、家を離れて四方に行ってしまう者が何千人ともしれません。それなのに、王の米倉はいっぱいに満ちていて、金倉も財貨でいっぱいです。役人たちは民の窮情を知っているのに、上に告げもしない。これは上に立つべき者の怠惰で、下の民たちを見殺していることになるのです。曾子はこう言っています。『これを戒めよ。これを戒めよ。なんじがやったことは、なんじに必ずかえることになる』と。民は、今初めて、役人たち上の者に仕返しができたのです(つまり、役人たちの自業自得です)。だから、王は、このことをとがめてはなりません。もし王が、仁政を行うなら、民は上の者、役人たちとも親しみ、命を捨てて一緒になって戦うようになるでしょう」。
【読み下し文】
孟子(もうし)対(こた)えて曰(いわ)く、凶年(きょうねん)(※)饑歳(きさい)には、君(きみ)の民(たみ)老弱(ろうじゃく)は溝壑(こうがく)に転(てん)じ、壮者(そうしゃ)は散(さん)じて四方(しほう)に之(ゆ)く者(もの)幾千人(いくせんにん)ぞ。而(しか)るに君(きみ)の倉稟(そうりん)(※)は実(み)ち、府庫(ふこ)は充(み)つ。有司(ゆうし)以(もっ)て告(つ)ぐる莫(な)し。是(こ)れ上(かみ)慢(まん)にして下(しも)を残(そこな)う(※)なり。曾子(そうし)(※)曰(いわ)く、之(これ)を戒(いまし)めよ、之(これ)を戒(いまし)めよ、爾(なんじ)に出(い)づる者(もの)は爾(なんじ)に反(かえ)る者(もの)なり、と。夫(そ)れ民(たみ)今(いま)にして後(のち)、之(これ)を反(かえ)すことを得(え)たるなり。君(きみ)尤(とが)むること無(な)かれ。君(きみ)仁政(じんせい)を行(おこな)わば、斯(ここ)に民(たみ)其(そ)の上(かみ)に親(した)しみ、其(そ)の長(ちょう)に死(し)なん(※)。
(※)凶年……一般には飢饉の年を意味するが、すぐ後に「饑歳」と出てくるので、ここでは「悪疫が流行した年」と解する。
(※)倉稟……米倉。なお、管仲の言葉とされる有名な言葉がある。「倉稟(そうりん)みちて礼節(れいせつ)を知(し)る」である。意味は、「人間は経済的に豊かになって、はじめて礼儀や節操を重んじる余裕が生じる」というものである(『故事ことわざの辞典』小学館)。孟子の「恒産有りて恒心有り」と同じ趣旨の言葉である。
(※)残う……見殺しにする。そこない苦しめる。
(※)曾子……孔子の弟子。なお、孟子は、この曾子が教えたという孔子の孫、子思の門人に教わったという。つまり、曾子派の流れをくむ。その性善説、王道主義などは、孔子の忠信説を尊重する曾子派の影響下から出たものであると解される。
(※)長に死なん……命を捨てて、一緒になって戦うことになるでしょう。なお、『孫子』も、まずは「道」つまり民政なくして「民をして上(かみ)と意を同じくせしむるなり。故にこれと死すべく、これと生くべくして、危きを畏れざらしむるなり」は、無理だとする(計篇)。また、将軍は、「卒(そつ)を視(み)ること愛子(あいし)の如(ごと)し、故(ゆえ)にこれと倶(とも)に死(し)すべし」とする(地形篇)。ということは兵法上からも孟子の説明は正しいものである。
【原文】
孟子對曰、凶年饑歳、君之民老弱轉乎溝壑、壯者散而之四方者幾千人矣、而君之倉廩實、府庫充、有司莫以告、是上慢而殘下也、曾子曰、戒之、戒之、出乎爾者反乎爾者也、夫民今而後、得反之也、君無尤焉、君行仁政、斯民親其上、死其長矣、
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