第53回
126〜127話
2021.06.08更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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13‐1 やるべきことのある人は決して不気嫌のときはない
【現代語訳】
孟子が斉を去った。弟子の充虞がその途中で孟子に聞いた。「先生におかれましては不機嫌そうな顔色をなさっているように見えます。以前に、先生からこう教わったことがあります。『君子というのは、どんなことがあろうと天をうらまないし、人をとがめたりしない』と。孟子は答えた。「あのときはあのとき、このときはこのときなのだ。何が言いたいかというと、君子の心は一つであり、あのとき言いたかったのは自分についてのことであり、今は、天下のことを考えていたから、そう見えたのだ。大体、王者というのは五百年ごとに興るものだ。そしてその際は、必ず世に名のある者が出て、その王者を助けている。ところで周の初めから今日まで、七百年余経っている。すると、もう五百年は過ぎている。これを考えると今王者が興ってもいいころだ。未だに興らないということは天がまだ天下を平治しようと欲していないのである。もし天下を平治しようと欲したならば、今の世にあって、王者を助けそれを実現させているのは、自分しかないであろう。だから私は(天下の平治ならんことを憂いはしても)、自分の心が不機嫌であるなどは決してないのだ」。
【読み下し文】
孟子(もうし)斉(せい)を去(さ)る。充虞(じゅうぐ)路(みち)に問(と)うて曰(いわ)く、夫子(ふうし)不予(ふよ)(※)の色(いろ)有(あ)るが若(ごと)く然(しか)り。前日(ぜんじつ)、虞(ぐ)諸(これ)を夫子(ふうし)に聞(き)けり。曰(いわ)く、君子(くんし)は天(てん)を怨(うら)みず(※)、人(ひと)を尤(とが)めず、と。曰(いわ)く、彼(かれ)も一時(いちじ)なり、此(これ)も一時(いちじ)なり(※)。五百年(ごひゃくねん)にして必(かなら)ず王者(おうじゃ)の興(おこ)る有(あ)り。其(そ)の間(かん)必(かなら)ず世(よ)に名(な)ある者(もの)有(あ)り。周(しゅう)より而来(このかた)、七百(しちひゃく)有余(ゆうよ)歳(さい)なり。其(そ)の数(すう)を以(もっ)てすれば則(すなわ)ち過(す)ぎたり。其(そ)の時(とき)を以(もっ)て之(これ)を考(かんが)えうれば則(すなわ)ち可(か)なり。夫(そ)れ天(てん)未(いま)だ天下(てんか)を平治(へいち)せんことを欲(ほっ)せざるなり。如(も)し天下(てんか)を平治(へいち)せんことを欲(ほっ)せば、今(いま)の世(よ)に当(あ)たりて、我(われ)を舎(お)きて其(そ)れ誰(たれ)ぞや(※)、吾(わ)れ何(なん)為(す)れぞ不予(ふよ)ならんや。
(※)不予……不機嫌。悦ばない。梁恵王(下)第二章参照。
(※)天を怨みず、人を尤めず……『論語』にも「天(てん)を怨(うら)みず、人(ひと)を尤(とが)めず」とある(憲問第十四)。孟子も、これを引き継いで弟子たちに教えていたことがわかる。
(※)彼も一時なり、此も一時なり……説は分かれるが、吉田松陰の見解によった。松陰は「君子(くんし)の心(こころ)、両般(りょうはん)あり」とし、一般は「己(おのれ)を処(しょ)する」ものであり、一般は「世(よ)を憂(うれ)うる」ものでありとする。これは離婁(下)第二十八章二にある「君子(くんし)には終身(しゅうしん)の憂(うれい)有(あ)るも、一朝(いっちょう)の患(わずらい)無(な)きなり」と同趣旨である。
(※)我舎きて其れ誰ぞや……自分しかないであろう。『論語』にも同じような孔子の次の言葉がある。一つは「天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人(きょうひと)、其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん」(子罕第九)。もう一つは、「徳(とく)を予(われ)に生(しょう)ぜしならば、桓魋(かんたい)、其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん」(述而第七)である。
【原文】
孟子去齊、充虞路問曰、夫子若有不豫色然、前日、虞聞諸夫子、曰、君子不怨天、不尤人、曰、彼一時、此一時也、五百年必有王者興、其閒必有名世者、由周而來、七百年有餘歳矣、以其數則過矣、以其時考之則可矣、夫天未欲平治天下也、如欲平治天下、當今之世、舎我其誰也、吾何爲不豫哉。
14‐1 いい加減な気持ちでは俸禄は受けられない
【現代語訳】
孟子は斉を去って休というところにいた。そのとき、公孫丑が聞いた。「先生が斉でしたように、君に仕えながらも、禄を受けないということは、昔からの正しい道なのでしょうか」。孟子は答えた。「いや、そうではない。私は崇というところで、斉王にお会いすることができたが、御前から退いたときに、(どうしても斉王は私の考えを受け入れてくれない気がして)、斉を去る気持ちがあった。そこで、もし、禄を受けることとしたら、自分の気持ちがぶれてしまわないか心配だった。だから禄を受けなかったのだ。その後すぐから戦争が次々と起こり、ついついと長く斉にいて、なかなかいとまを願うことができなかったのだ。斉にこんなに長くいることは私の本意ではなかったのだ」。
【読み下し文】
孟子(もうし)斉(せい)を去(さ)りて休(きゅう)に居(お)る。公孫丑(こうそんちゅう)問(と)うて曰(いわ)く、仕(つか)えて禄(ろく)を受(う)けざるは、古(いにしえ)の道(みち)か。曰(いわ)く非(ひ)なり。崇(すう)に於(お)いて吾(わ)れ王(おう)に見(まみ)ゆることを得(え)、退(しりぞ)いて去(さ)る志(こころざし)有(あ)り。変(へん)ずるを欲(ほっ)せず(※)、故(ゆえ)に受(う)けざるなり。継(つ)いで師命(しめい)(※)あり、以(もっ)て請(こ)うべからず。斉(せい)に久(ひさ)しきは、我(わ)が志(こころざし)に非(あら)ざるなり。
(※)変ずるを欲せず……自分の気持ちがぶれてしまわないか心配だった。なお、本章と前章や前々章の孟子の言っていることとの少々の矛盾を指摘する人が多い。しかし、斉王のことを信じたかったけれども、最初からずっと信じられない孟子があったのではないか。何とか天下のために、斉王が変わってほしいという願いを捨てきることはできなかったのだろう。だから、それもあって孟子は斉のことを決して悪く言わなかったのである。かといって、斉王から禄をもらい、臣になってしまうことは、孟子の考えからは許されない。あくまでも王者を目指す、実践してくれる人を助けるのが自分だからだと考えていたのではないか。この孟子の揺れる心情を見て、ある学者のように、「人間として欠点が多い人であった」と言うこともできようが、私には孟子の純心さ、人間らしさと評価するべきではなかろうかと思われる。
(※)師命……戦争が起こる。
【原文】
孟子去齊居休、公孫丑問曰、仕而不受祿、古之道乎、曰、非也、於崇吾得見王、退而有去志、不欲變、故不受也、繼而有師命、不可以請、久於齊、非我志也。
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