第5回
プロローグその5 匿名と実名のあわいで〜フレディが陥った“倒錯”
2019.02.27更新
メディアで「LGBT」を見聞きする機会が増えています。昨今の多様な生き方を尊重する世界的な流れに乗じて、日本における「LGBT」への理解も少しずつ進んでいるかのようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。この連載は、元東京新聞ニューヨーク支局長でジャーナリストの北丸雄二さんによる、「LGBT」のお話です。24年間のニューヨーク生活から見えてきた視点で「LGBT」ブームへの違和感について読み解いていきます。東京レインボープライドとの連動企画です。
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ところでアメリカは60年代の女性解放運動や性の解放の時代に、そんな“幻想”や“ポエム”に頼らない、そのままの「性」を探究しました。ヒッピー文化とかフリーセックスとか麻薬とかによって、「人間性の拡張」が唱導された時代です。
ところがゲイ男性の自叙伝として史上初めて全米図書賞を受賞したポール・モネットの『Becoming a Man(男になるということ)』(1992年、日本未刊行)が、当時の時代状況を「ヒッピーの性革命はだれもがだれとでもセックスできるということではあったが、ゲイであってもいいということではなかった。女性にも有色人種にも戦争にも政治哲学はあったが、ゲイにはなんの政治的意味もなかったのだ」と書いています。 奇妙な逸話も紹介されています。ある作家が70年代初期に、思想・政治分野を扱う専門書店でゲイに関する本があるかと訊いたら「ポルノや変態モノは置いてない」と言われたというものです。店の本棚には女性、少数民族、さらには動物への抑圧という本まであったのですが、ゲイに対する抑圧は「なかった」。
アメリカ合衆国はもともとピューリタンの国で、大雑把にいえば俗に堕したカトリックのヨーロッパから、もっと聖書に忠実な国を作ろうとやってきたプロテスタントの人たちが西へ西へと拠点ごとに教会を作りながら拓いてきた土地です。なので、「アメリカはセックスにもおおらかでポルノも見放題」と言うのは実は微妙に思い違いで(ヨーロッパ人と比べると、アメリカ人はお風呂で裸を見せ合うことさえ恥ずかしがることが多いです)、性表現やポルノはあくまで「表現の自由」を保障した合衆国憲法修正第一条で保護されているだけであって、実際には厳しくゾーニング(表現のTPO規制)されています。逆にいえばゾーニングさえ守れば性の享楽も保障されているのですが、前段で示したように、ゲイは60年代の性解放運動からも除外され、社会的弱者の政治運動からも排除されてきた。どうすりゃいいんだよ!? ってなもんです。
前回、比喩として歌舞伎町(男性異性愛者たち)と新宿2丁目(男性同性愛者たち)の比較を挙げましたが、クローゼット(自分の性の在り方を「押入れ=プライベートな場所」に隠しておかなければならない状態)という意味では宗教的制約の実感が乏しい日本の異性愛者たちより、プロテスタントの国であるアメリカの異性愛者たちは比率としてはもっとずっとクローゼットかもしれません。当然の帰結として同性愛者たちもまた同じく、アメリカではもっと過酷にクローゼットであることを強いられました。そしてそこに、自分たちだけが除外され排除された「性の解放」と「人権運動」の気運が、「いや、そんなことはないはずだ」という反作用として、後追いあるいは後付けの形で入ってくるのです。これも第3回で触れた1969年の「ストーンウォール・インの暴動」がきっかけでもあったはずです。
ところがいくら「性の解放」と「人権」と言っても、ゲイにとっては当時、それはまだ厳しく匿名での言挙げだったのです。なぜなら異性間と違って、同性愛者たちにはソドミー法(生殖に関係ない性行為=反自然な性行為をすべて違法とする法律の総称)が存在していたからです。ソドミー法によって性行為に関係することが(つまりは性愛のすべてが)一括りに犯罪とされた社会で、社会生活を営みつつゲイであると実名を明かすことはリスキーに過ぎた──なぜならカミングアウトは、「犯罪者としての名乗り」でもあったのですから。
それでも性愛への希求は募ります。性愛=性欲と恋愛欲、そのどちらも同じステロイド分泌の結果なのですが、しかし匿名でも可能なものは性愛の「性」の部分でした。「愛」は匿名では為し得ない。社会生活においてはなおさら。けれど「性」は匿名で‟処理”できるのです。性欲を処理する→ステロイド分泌の欲動に片を付ける→恋愛欲も片が付く。そういうことです。
「性の解放」はしかし、本来はもっと大きな「性の可能性の拡張」のことでした。異性愛者にとってそれは文字通り「人間性=生き方の可能性の拡張」だった。彼らにとって、「性」は「生き方」の根幹の一部だったからです。
ところが、匿名のままの「生き方」を強いられた同性愛者たちにとっては、「性」は「可能である自分」の全てでした。「性」以外に匿名で可能なものはなかったからです。そこにしか自分につながる「本当」がなかった。「性」は「生」と切り離さざるを得なかった。「性の可能性の拡張」は「人間性=生き方の可能性の拡張」とは遮断されていたのです。
「性」以外の残りの「生」の部分で社会生活を営み、仕事もし、人とも話し、家族親戚とも付き合っているのだけれど、実名でのそんな生活の方が「ウソ」に思えて、匿名でのセックスだけが「本当」の自分に思えてくる。それこそが“倒錯”でした。ですが、どうしようもないのです。それが“倒錯”だと気づいたら、あとはクローゼットから出る以外にない。にもかかわらず、クローゼットから出た途端に同性愛者たちは性犯罪者になったのです。
もちろん「愛なんてポエムは必要ないさ、セックスだけで100%満足」と嘯く人が存在するのは、異性愛者も同性愛者も分け隔てありません。‟片付け”のメカニズムは誰にでも平等に働きます。さらに進めて言えば、異性愛者にも同性愛者にも、男性の場合、射精してしまえばそれで終わりというタイプ(A)と、射精してから相手がより愛おしくなるタイプ(B)とがいます。もちろんこれも二元論ではなくて相手によって違うという人が多いでしょうから、ここは偏差、傾向で判別してください。そして異性愛・同性愛どちらのタイプAにも、そのためだけの場所はビジネスとしてもすでに用意されています。私たちはそんなすごい規範化の社会に生きています。
(それと最近知った言葉ですが、射精し終わった男性には「賢者タイム」というのがあるらしい。英語では post-coital tristesse 性交後憂鬱? post-cum clarity 射精後明晰? いや「賢者タイム」の方が言い得て妙……なるほどね。愛なんて、ね、ですね。)
まあそういう諸々の事情の詳細は、ここで私が口を挟みたいことではありません。私がいま口を挟んでいるのは、どうしてレインボーマーチ札幌のパンフレット協賛広告が性産業のものに偏っていたのか、の背景の、一つの説明です。このプロローグの冒頭に記した『ボヘミアン・ラプソディ』の話に立ち戻れば、フレディはなぜセックスに溺れたのか、の答えの可能性に関してです。
そしてフレディがそうだったように、「性の解放」と「人権」とが結びつき始めた不完全な匿名の過渡期に、ゲイ・コミュニティにエイズ・ウイルスが襲いかかる──。
列挙しながらもまだ説明していないことがあります。フレディはどうして女性ではなく男性に惹かれたのか? そもそも同性愛って、何なのか? そしてなぜ映画のバンド・メンバーたちは、彼がゲイでHIV感染とわかった後でもああも優しく描かれているのか?──その優しさは、1990年代を経てやがて21世紀の最初の年から、人権先進国での同性婚(結婚の平等)の動きへとつながっていきます。ほどこしではなく、平等の気づきとしての友愛の優しさとして。
それらをこれからおいおい書いていくつもりです。それはおそらく、私たちの生きる「世間」の謎解きでもあり、同時に、私たちの様々な「生き方」の練習問題にもなるはずだと思っています。
続く。次回は3月13日(水)更新予定