第126回
301話〜302話
2021.09.22更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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7‐1 我々凡人も聖人と同じ人間である
【現代語訳】
孟子は言った。「豊作の年は、若者に頼もしい人(善い行いをする人)が多く、凶作の年には若者に、乱暴をはたらく人(悪い行いをする人)が多いようだ。しかし、天が人に才(本性のはたらき)を与えることに違いがあるわけではない。ただ凶作の年は、物資欠乏のために、人の欲望に引きずり込まれることが多くなる。今、大麦の種をまいて上から土をかけたとする。土地も同じようであり、時も同じである。やがてむくむくと芽を出し、夏至のころになると皆成熟する。収穫に差が出るにしても、それは土地に肥えたのとやせたのとがあり、雨水や農夫の手入れの差があるからである(種そのものに違いがあるわけではない)。このように、同じ種類のものは、大体似ているようなものである。どうして人間だけが、本性が異なることを疑うことができようか。聖人といわれる人も我々と同類である(同じ善性を持っている)。だから、昔の賢人の龍子も言っている。『足の大きさを知らないで靴をつくったとしても、それが蕢(もっこ)のように大きくはならないことはわかる』と。靴の大きさが似たりよったりなのは、天下の人々の足が大体同じであるからである」。
【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、富歳(ふさい)には子弟(してい)頼(らい)(※)多(おお)く、凶歳(きょうさい)には子弟(してい)暴(ぼう)多(おお)し。天(てん)の才(さい)を降(くだ)すこと爾(しか)く殊(こと)なるに非(あら)ざるなり。其(そ)の、其(そ)の心(こころ)を陥溺(かんでき)する所以(ゆえん)の者(もの)然(しか)るなり。今(いま)夫(そ)れ麰麦(ぼうばく)(※)、種(たね)を播(は)して之(これ)を耰(ゆう)す。其(そ)の地(ち)同(おな)じく、之(これ)を樹(う)うる時(とき)又(また)同(おな)じ。浡然(ぼつぜん)(※)として生(しょう)じ、日至(にっし)(※)の時(とき)に至(いた)りて皆(みな)熟(じゅく)す。同(おな)じからざる有(あ)りと雖(いえど)も、則(すなわ)ち地(ち)に肥磽(ひこう)(※)有(あ)り、雨露(うろ)の養(やしな)い、人事(じんじ)の斉(ひと)しからざればなり。故(ゆえ)に凡(およ)そ類(るい)を同(おな)じうする者(もの)は、挙(みな)相似(あいに)たり。何(なん)ぞ独(ひと)り人(ひと)に至(いた)りて之(これ)を疑(うたが)わん。聖人(せいじん)も我(われ)と類(るい)を同(おな)じうする者(もの)なり。故(ゆえ)に龍子(りょうし)(※)曰(いわ)く、足(あし)を知(し)らずして屨(くつ)を為(つく)るも、我(われ)其(そ)の蕢(き)(※)たらざるを知(し)る、と。屨(くつ)の相似(あいに)たるは、天下(てんか)の足(あし)同(おな)じければなり。
(※)頼……頼もしい人(善い行いをする人)。「頼」を「よきもの」と読む人もある。
(※)麰麦……大麦。
(※)浡然……むくむくと。
(※)日至……夏至、冬至を指すが、ここでは、夏至のこと。離婁(下)第二十六章参照。
(※)肥磽……肥えた土地と痩せた土地。
(※)龍子……滕文公(上)第三章二参照。
(※)蕢……もっこ。土を運ぶ道具。『論語』にも次のように出てくるところがある。「子(し)曰(いわ)く、譬(たと)えば山(やま)を為(つく)るが如(ごと)し。未(いま)だ成(な)らざること一簣(いっき)なるも、止(や)むは吾(わ)れ止(や)むなり。譬(たと)えば地(ち)を平(たい)らにするが如(ごと)し。一簣(いっき)を覆(かえ)すと雖(いえど)も、進(すす)むは吾(わ)れ往(ゆ)くなり」(子罕第九)。
【原文】
孟子曰、富歲子弟多賴、凶歲子弟多暴、非天之降才爾殊也、其、所以陷溺其心者然也、今夫麰麥、播種而耰之、其地同、樹之時又同、浡然而生、至於日至之時皆熟矣、雖有不同、則地有肥磽、雨露之養、人事之不齊也、故凡同類者、擧相似也、何獨至於人而疑之、垩人與我同類者、故龍子曰、不知足而爲屨、我知其不爲蕢也、屨之相似、天下之足同也。
7‐2 理や義が私たちの心を喜ばせるのは、おいしい肉を喜ぶのと同じようである
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。口と味の関係も同様で、人は大体同じようにおいしいものを好むものである。昔の名料理人として有名な易牙は、人よりも先に我々の口がうまいとして好む味を心得た者である。もし口の味わい方が、易牙の好みとほかの人の好みが違っていること、犬馬と人間とのように類を異にするほどであったら、天下の人の好みは、易牙の料理をおいしいとは思わないだろう。ところが、天下の人は、易牙ほどのうまい料理人はいないという。それは、天下の人の味の好みが大体似ているからである。このことは、耳についても同様である。音楽においては、昔の楽人である師曠が最高であると天下の人が言う。これは天下の人の聴覚が似たようなものだからである。目も同様である。子都の美しさを、天下の人で知らない人はいない。子都の美しさを知らない者があるとすれば、それは目がない者である。だから自分は言うのである。口で物を味わう場合、人は大体同じように好む。耳で聞く場合、人は同じような音楽を良いと聴く。目で色(美人)を見る場合、人は同じように美しいとする。だとすれば、心だけが、同じように考えないことはできないのではないか。心について人が同じようにそうだと言えるものとは何か。それは私が言う理であり、義である。聖人は、先に私たちがそうだと思うところのことを、得ることができた人にすぎない。だから理や義が私たちの心を喜ばせることは、ちょうど牛や豚のおいしい肉が私たちの口を喜ばせるようなものと同じなのである」。
【読み下し文】
口(くち)の味(あじ)に於(お)ける、同(おな)じく耆(たしな)むこと有(あ)るなり。易牙(えきが)は先(ま)ず我(わ)が口(くち)の耆(たしな)む所(ところ)を得(え)たる者(もの)なり。如(も)し口(くち)の味(あじ)に於(お)けるや、其(そ)の性人(せいひと)と殊(こと)なること、犬馬(けんば)の我(われ)と類(るい)を同(おな)じうせざるが若(ごと)くならしめば、則(すなわ)ち天下(てんか)何(なん)ぞ耆(たしな)むこと、皆(みな)易牙(えきが)(※)の味(あじ)に於(お)けるに従(したが)わんや。味(あじ)に至(いた)りては、天下(てんか)易牙(えきが)に期(き)す。是(こ)れ天下(てんか)の口(くち)相似(あいに)たればなり。惟(ただ)耳(みみ)も亦(また)然(しか)り。声(こえ)に至(いた)りては、天下(てんか)師曠(しこう)(※)に期(き)す。是(こ)れ天下(てんか)の耳(みみ)相似(あいに)たればなり。惟(ただ)目(め)も亦(また)然(しか)り。子都(しと)(※)に至(いた)りては、天下(てんか)其(そ)の姣(こう)(※)を知(し)らざる莫(な)きなり。子都(しと)の姣(こう)を知(し)らざる者(もの)は、目(め)無(な)き者(もの)なり。故(ゆえ)に曰(いわ)く、口(くち)の味(あじ)に於(お)けるや、同(おな)じく耆(たしな)むこと有(あ)り。耳(みみ)の声(こえ)に於(お)けるや、同(おな)じく聴(き)くこと有(あ)り。目(め)の色(いろ)に於(お)けるや、同(おな)じく美(び)とすること有(あ)り。心(こころ)に至(いた)りて、独(ひと)り同(おな)じく然(しか)りとする所(ところ)無(な)からんや。心(こころ)の同(おな)じく然(しか)とする所(ところ)の者(もの)は何(なん)ぞや。謂(い)わく、理(り)なり、義(ぎ)なり。聖人(せいじん)は先(ま)ず我(わ)が心(こころ)の同(おな)じく然(しか)りとする所(ところ)を得(え)たるのみ。故(ゆえ)に理義(りぎ)の我(わ)が心(こころ)を悦(よろこ)ばすは、猶(な)お芻(すう)豢(かん)(※)の我(わ)が口(くち)を悦(よろこ)ばすがごとし。
(※)易牙……昔の有名な料理人。斉の桓公に仕えたという。
(※)師曠……昔の有名な楽師。晋の平公のときの人。離婁(上)第一章参照。
(※)子都……昔の美人。男か女かよくわからない。
(※)姣……美しさ。
(※)芻豢……「芻」は草食の牛や羊。「豢」は穀物を食べる動物の豚や犬。
【原文】
口之於味、有同耆也、易牙先得我口之所耆者也、如使口之於味也、其性與人殊、若犬馬之與我不同類也、則天下何耆、皆從易牙之於味也、至於味、天下期於易牙、是天下之口相似也、惟耳亦然、至於聲、天下期於師曠、是天下之耳相似也、惟目亦然、至於子都、天下莫不知其姣也、不知子都之姣者、無目者也、故曰、口之於味也、有同耆焉、耳之於聲也、有同聽焉、目之於色也、有同美焉、至於心、獨無所同然乎、心之所同然者何也、謂、理也、義也、聖人先得我心之所同然耳、故理義之悅我心、猶芻拳之悅我口。
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