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第125回

299話〜300話

2021.09.21更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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6‐1 本性論と性善説

【現代語訳】
公都子は言った。「告子は、『人の本性には善も不善もない』と言うし、ある人は、『人の本性は善をなすこともでき、不善を為すこともできるという二面性を持っている。だから文王・武王などの聖君が興ると、民は善を好むようになるが、幽王・厲王などの暴君が興ると、民は暴を好むようになる』と言う。また別のある人は、『本性の善なる人もあるし、不善なる人もある。だから堯を君にいだきながらも、象のような悪人もいる。そして瞽瞍のような悪い父を持ちながらも舜のような聖人もいる。紂王のような暴君を兄の子とし、かつ君としながらも、微子啓・王子比干のような賢者もいるのだ』と言う。ところが、今、先生は、『人の本性は善である』と言われます。とすれば、すでに申した三つの説はすべて間違っているのでしょうか」。孟子が言った。「およそ人の本質の表れである情は、善を行うものである。だから人の本性は善と言うのだ。人は不善をなす場合もあるが、それは本性のはたらきである才のせいではなく、外の状況や物欲のために本性がくらまされているにすぎない」。

【読み下し文】
公都子(こうとし)曰(いわ)く、告子(こくし)曰(いわ)く、性(せい)は善(ぜん)も無(な)く、不善(ふぜん)も無(な)し、と。或(ある)ひとは曰(いわ)く、性(せい)は以(もっ)て善(ぜん)を為(な)すべく、以(もっ)て不善(ふぜん)を為(な)すべし。是(こ)の故(ゆえ)に文(ぶん)・武(ぶ)(※)興(おこ)れば、則(すなわ)ち民(たみ)善(ぜん)を好(この)み、幽(ゆう)・厲(れい)(※)興(おこ)れば、則(すなわ)ち民(たみ)暴(ぼう)を好(この)む、と。或(ある)ひとは曰(いわ)く、性(せい)善(ぜん)なる有(あ)り、性(せい)不善(ふぜん)なる有(あ)り。是(こ)の故(ゆえ)に堯(ぎょう)を以(もっ)て君(きみ)と為(な)して、象(しょう)(※)有(あ)り。瞽瞍(こそう)(※)を以(もっ)て父(ちち)と為(な)して、舜(しゅん)有(あ)り。紂(ちゅう)を以(もっ)て兄(あに)の子(こ)と為(な)し、且(か)つ以(もっ)て君(きみ)と為(な)して、微子啓(びしけい)・王子比干(おうしひかん)(※)有(あ)り、と。今(いま)性(せい)は善(ぜん)なりと曰(い)う。然(しか)らば則(すなわ)ち彼(かれ)は皆(みな)非(ひ)なるか。孟子(もうし)曰(いわ)く、乃(すなわ)ち其(そ)の情(じょう)(※)の若(ごと)きは、則(すなわ)ち以(もっ)て善(ぜん)を為(な)すべし。乃(すなわ)ち所謂(いわゆる)善(ぜん)なり。夫(か)の不善(ふぜん)を為(な)すが若(ごと)きは、才(さい)の罪(つみ)に非(あら)ざるなり。

(※)文・武……周の文王・武王のこと。
(※)幽・厲……周の幽王・厲王で暴君として知られている。
(※)象……万章(上)第二章二参照。
(※)瞽瞍……万章(上)第二章二参照。
(※)微子啓・王子比干……ここでは、孟子は紂を兄の子としているが、一般には微子は庶長子(紂の兄)、王子比干は紂のおじとされている(公孫丑(上)第一章三参照)。
(※)情……人の本性が物に触れて自然に出たもの。これがさらに、はたらきあるものになったのが才である。なお、本性論は、ここでの三説と孟子の性善説、後に出た荀子の性悪説を併せると五説があったことになる。

【原文】
公都子曰、吿子曰、性無善、無不善也、或曰、性可以爲善、可以爲不善、是故文・武興、則民好善、幽・厲興、則民好暴、或曰、有性善、有性不善、是故以堯爲君、而有象、以瞽瞍爲父、而有舜、以紂爲兄之子、且以爲君、而有微子諬・王子比干、今曰性善、然則彼皆非與、孟子曰、乃若其情、則可以爲善矣、乃所謂善也、若夫爲不善、非才之罪也。


6‐2 人は美徳を好むものである

【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「惻隠の心、すなわち人の不幸をあわれむ心は、人は皆持っている。羞悪の心、すなわち自分の不義、不正を羞じ憎む心は、人は皆持っている。恭敬の心、すなわち慎み敬う心は、人は皆持っている。是非の心、すなわち善悪を見分ける心は、人は皆持っている。惻隠の心は、仁の萌芽である。羞悪の心は、義の萌芽である。是非の心は、智の萌芽である。このような仁義礼智は、外から持ってきて、自分にめっきしたものではなく、自分がもとから有していたものである。ただ、人はそれを思っていないだけである。だから、人が、それらの徳を求めれば、必ず得ることができるが、放ってしまうと徳は失われてしまうのだ。そうすると、善悪や賢愚の差が二倍にも五倍にもなり、しまいには計算もできないほどの差がついてしまう。これは、本性のはたらきである才を十分に出し、広めなかったためである。『詩経』は、次のように言う。『天が万民を生ずるにあたって、事物があれば必ずそこに法則があるようにした(この法則が美徳と言える)。こうした天の心を受けて、民は常にその不易の本性に従うからこそ、美徳を好むのである』と。孔子も、この詩を評して次のように言った。『この詩をつくった者は、人の道を良く知っているものであろう』と。このように、天下に事物があれば必ずそこに法則がある。民は、その不易の本性に従うのであり、ゆえに美徳を好むのである」。


【読み下し文】
惻隠(そくいん)の心(こころ)は、人(ひと)皆(みな)之(これ)有(あ)り。羞悪(しゅうお)の心(こころ)は、人(ひと)皆(みな)之(これ)有(あ)り。恭敬(きょうけい)の心(こころ)は、人(ひと)皆(みな)之(これ)有(あ)り。是非(ぜひ)の心(こころ)は、人(ひと)皆(みな)之(これ)有(あ)り。惻隠(そくいん)の心(こころ)は、仁(じん)なり。羞悪(しゅうお)の心(こころ)は、義(ぎ)なり。恭敬(きょうけい)の心(こころ)は、礼(れい)なり。是非(ぜひ)の心(こころ)は、智(ち)なり。仁義(じんぎ)礼(れい)智(ち)は、外(そと)由(よ)り我(われ)を鑠(しゃく)する(※)に非(あら)ざるなり。我(われ)之(これ)を固有(こゆう)するなり。思(おも)わざるのみ。故(ゆえ)に曰(いわ)く、求(もと)むれば則(すなわ)ち之(これ)を得(え)、舎(す)つれば則(すなわ)ち之(これ)を失(うしな)う。或(ある)いは相(あい)倍蓰(ばいし)(※)して、算(さん)無(な)き者(もの)は、其(そ)の才(さい)を尽(つ)くすこと能(あた)わざる者(もの)なり。詩(し)に曰(いわ)く、天(てん)の蒸民(じょうみん)(※)を生(しょう)ずる、物(もの)有(あ)れば則(のり)有(あ)り。民(たみ)の秉夷(へいい)(※)、是(こ)の懿徳(いとく)(※)を好(この)む、と。孔子(こうし)曰(いわ)く、此(こ)の詩(し)を為(つく)る者(もの)は、其(そ)れ道(みち)を知(し)れるか、と。故(ゆえ)に物(もの)有(あ)れば必(かなら)ず則(のり)有(あ)り。民(たみ)の秉(へい)夷(い)や、故(ゆえ)に是(こ)の懿徳(いとく)を好(この)む。


(※)鑠する……めっきする。
(※)倍蓰……二倍にも五倍にもなる。「蓰」は五倍のこと。
(※)蒸民……万民。
(※)秉夷……常にその不易の本性に従う。「秉」は執るの意。「夷」は常にの意。
(※)懿徳……美徳。


【原文】
惻隱之心、人皆有之、羞惡之心、人皆有之、恭敬之心、人皆有之、是非之心、人皆有之、惻隱之心、仁也、羞惡之心、義也、恭敬之心、禮也、是非之心、智也、仁義禮智、非由外鑠我也、我固有之也、弗思耳也、故曰、求則得之、舍則失之、或相倍蓰、而無算者、不能盡其才者也、詩曰、天生蒸民、有物有則、民之秉夷、好是懿德、孔子曰、爲此詩者、其知衜乎、故有物必有則、民之秉夷也、故好是懿德。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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