第144回
343〜345話
2021.10.20更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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14‐1 君子が仕える場合と辞めて去る場合
【現代語訳】
(弟子の)陳子が聞いた。「昔の君子はどういう場合に仕えたのでしょうか」。孟子は言った。「仕える場合が三つ、辞めて去る場合が三つある。まず、国君が迎え入れる場合に、敬意を尽くし、そして礼をもってし、その言葉は、自分の意見を用いてくれそうな場合に仕えるのである。この場合、君が自分に対して気持ちや態度が変わらなくても、自分の意見が用いられないようであれば去るようにする。その次は、国君が自分の意見をすぐに用いなくても、敬意を尽くし、そして礼をもって迎えてくれれば仕える。この場合、君の自分に対する気持ちや態度が落ちてきたら、去るようにする。さらに最後の場合は、朝食も食べられず、夕食も食べられず、飢えのため門外に出ることもできないでいるとき、国君がこれを聞き、『自分は、大にして彼の説く道を行うことができず、また彼の言を受け入れてやることはできない。しかし、我が領土内で飢えさせたことは恥である』と言って、禄を与えて救ってくれたなら、これを受けるべきでる。ただ、死を免れれば足りるので、多くを受けてはならず、久しからず去るようにする」。
【読み下し文】
陳子(ちんし)曰(いわ)く、古(いにしえ)の君子(くんし)は、如何(いか)なれば則(すなわ)ち仕(つか)うる。孟子(もうし)曰(いわ)く、就(つ)く所(ところ)三(さん)、去(さ)る所(ところ)三(さん)(※)。之(これ)を迎(むか)うるに敬(けい)を致(いた)して、以(もっ)て礼(れい)有(あ)り。言(げん)、将(まさ)に其(そ)の言(げん)を行(おこな)わんとすれば、則(すなわ)ち之(これ)に就(つ)く。礼貌(れいぼう)(※)未(いま)だ衰(おとろ)えざるも、言行(げんおこな)わざれば、則(すなわ)ち之(これ)を去(さ)る。其(そ)の次(つぎ)は、未(いま)だ其(そ)の言(げん)を行(おこな)わずと雖(いえど)も、之(これ)を迎(むか)うるに敬(けい)を致(いた)して、以(もっ)て礼(れい)有(あ)れば、則(すなわ)ち之(これ)に就(つ)く。礼貌(れいぼう)衰(おと)うれば、則(すなわ)ち之(これ)を去(さ)る。其(そ)の下(した)は、朝(あした)に食(くら)わず、夕(ゆうべ)に食(くら)わず、飢餓(きが)して門戸(もんこ)を出(い)づること能(あた)わず。君之(きみこれ)を聞(き)きて曰(いわ)く、吾(わ)れ大(だい)にしては其(そ)の道(みち)を行(おこな)うこと能(あた)わず、又(また)其(そ)の言(げん)に従(したが)うこと能(あた)わざるなり。我(わ)が土地(とち)に飢餓(きが)せしむるは、吾(わ)れ之(これ)を恥(は)ず、と。之(これ)を周(すく)わば(※)、亦(また)受(う)くべきなり。死(し)を免(まぬが)るるのみ(※)。
(※)就く所三、去る所三……仕える場合が三つ、辞めて去る場合が三つ。万章(下)第四章四に孔子の仕え方を三つ述べている。すなわち、「見可行の仕え」「際可の仕え」「公養の仕え」である。本章の仕える三つの場合もほぼそれに近いものである。
(※)礼貌……礼儀正しい気持ちや態度。
(※)周わば……救ってくれたなら。
(※)死を免るるのみ……餓死を免れるだけのことである。だから多くを受けてはならず、久しからず去るようになる。本章の初めに「去る所三」と述べているように、この場合も去ることに含まれていることになる。
【原文】
陳子曰、古之君子、何如則仕、孟子曰、所就三、所去三、迎之致敬、以有禮、言、將行其言也、則就之、禮貌未衰、言弗行也、則去之、其次、雖未行其言也、迎之致敬、以有禮、則就之、禮貌衰、則去之、其下、朝不食、夕不食、飢餓不能出門戶、君聞之曰、吾大者不能行其道、又不能從其言也、使飢餓於我土地、吾恥之、周之亦可受也、免死而已矣。
15‐1 大人物になる人には多くの試練、困難が与えられる
【現代語訳】
孟子は言った。「舜は田んぼを耕していたところを、(堯から)引き上げられ、天子までになった。傅説は土木工事人夫から(殷の高宗武丁より)引き上げられた。膠鬲は魚や塩の商売人であったのを(周の文王に)引き上げられた。管夷吾(管仲)は士であったのを(桓公に)引き上げられた。孫叔敖は海辺に隠れ住んでいたのを(楚の荘王に)引き上げられた。百里奚は市井の間に隠れ住んでいたのを(秦の繆公に)引き上げられた。これらからもよくわかるように、天がこの人に大きな役割、任務を与えようとするときは、必ずまず心や志を苦しめ、筋骨を疲れさせ、肉体を飢えさせ、生活を窮乏させ、することなすことがしようとする意図と違うようにしてしまう。これは、その人を発憤させ、その人の本性を忍耐強いものにし、今までできなかったこともできるように、その人の能力を増大させ、そして大任を負わせるに足る大人物にしようとするためである。人というのは、過ちてその後で改め、心に苦しんで、考えに余ってはじめて発奮し、煩悶や苦痛が顔色、声に出るようになって、ようやく悟ることができるのである。国家も同様である。内には、法制に通じていてこれを良く守る譜代の臣がいなく、また正義をもって君を助ける賢人の臣なく、外には敵対する敵国や外国からの脅威がないと、国は油断し、安逸となり滅ぶものである。このように、個人にせよ、国家にせよ、憂患があってこそ人は真の生き方ができるようになり、安楽にふけるようだと死を招くこととなるのがよくわかる」。
【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、舜(しゅん)は畎畝(けんぼ)の中(うち)より発(おこ)り(※)、傅説(ふえつ)(※)は版築(はんちく)(※)の間(あいだ)より挙(あ)げられ、膠鬲(こうかく)(※)は魚塩(ぎょえん)の中(うち)より挙(あ)げられ、管夷吾(かんいご)(※)は士(し)より挙(あ)げられ、孫叔敖(そんしゅくごう)(※)は海(うみ)より挙(あ)げられ、百里奚(ひゃくりけい)(※)は市(し)より挙(あ)げられる。故(ゆえ)に天(てん)の将(まさ)に大任(たいにん)を是(こ)の人(ひと)に降(くだ)さんとするや、必(かなら)ず先(ま)ず其(そ)の心志(しんし)を苦(くる)しめ、其(そ)の筋骨(きんこつ)を労(ろう)せしめ、其(そ)の体膚(たいふ)を餓(う)えしめ、其(そ)の身(み)を空乏(くうぼう)(※)にし、行(おこな)うこと其(そ)の為(な)さんとする所(ところ)に払乱(ふつらん)せしむ。心(こころ)を動(うご)かし性(せい)を忍(しの)ばせ、其(そ)の能(よ)くせざる所(ところ)を曾益(ぞうえき)(※)せしむる所以(ゆえん)なり。人(ひと)恒(つね)に過(あやま)ちて、然(しか)る後(のち)に能(よ)く改(あらた)め、心(こころ)に困(くる)しみ、慮(おもんばかり)に衡(よこた)わって、而(しか)る後(のち)に作(おこ)り、色(いろ)に徴(あらわ)れ、声(こえ)に発(はっ)して、而(しか)る後(のち)に喩(さと)る。入(い)りては則(すなわ)ち法家(ほうか)(※)・払士(ひっし)(※)無(な)く、出(い)でては則(すなわ)ち敵国(てきこく)・外患(がいかん)無(な)き者(もの)は、国(くに)恒(つね)に亡(ほろ)ぶ。然(しか)る後(のち)に、憂患(ゆうかん)に生(しょう)じて、安楽(あんらく)に死(し)する(※)ことを知(し)るなり。
(※)発り……引き上げられ。身を起こし。
(※)傅説……殷の高宗武丁に引き上げられて宰相となる。
(※)版築……土木工事。
(※)膠鬲……周の文王に見出され、その臣下となる。後に文王の推せんで殷の紂王に仕えた賢者。
(※)管夷吾……管仲。公孫丑(上)第一章一参照。はじめ桓公の兄に仕えて桓公と争うが、捕まって桓公に仕えていた親友の鮑叔(ほうしゅく)の推せんで桓公に仕えた。「管鮑(かんぽう)の交(まじ)わり」とは、今でも使われる言葉で、親友の理想の姿を表現している。
(※)孫叔敖……楚の荘王に引き上げられた。
(※)百里奚……万章(上)第九章参照。
(※)空乏……窮乏。
(※)曾益……能力を増すこと。増益。
(※)法家……法制に通じていて、これを良く守る譜代の臣。
(※)払士……君を助ける賢人の臣。
(※)憂患に生じて安楽に死する……憂患(本章であるような有意の人に与えられる試練や困難など)があってこそ人は真の生き方ができるようになり、安楽にふけるようだと死を招くことになる。なお、吉田松陰によると、アメリカ渡航失敗の件で江戸の獄に入れられているとき、隣では師の一人であった佐久間象山が連座して入れられていたという。獄には四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)が置いてあったが、象山は『孟子』を毎日読んでいた。特に本章については毎日、声を上げて読んだらしい(『講孟箚記』)。このように『孟子』の特に本章の力強い励ましの名文に後世どれだけの人が勇気づけられ、奮起したことだろう。『孟子』の真骨頂のような章である。
【原文】
孟子曰、舜發於畎畝之中、傳說擧於版築之閒、膠鬲擧於魚鹽之中、管夷吾擧於士、孫叔敖擧於海、百里奚擧於市、故天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身、行拂亂其所爲、所以動心忍性、曾益其所不能、人恆過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徵於色、發於聲、而後喩、入則無法家・拂士、出則無敵國・外患者、國恆兦、然後、知生於憂患、而死於安樂也。
16‐1 教えることを断るという教え方もある
【現代語訳】
孟子は言った。「教える方法も、また、いろいろある。例えば、私が教え諭すことを潔しとせず、これを断るのも、一つの教える方法をやっていることなのだ」。
【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、教(おし)えも亦(また)術(じゅつ)多(おお)し(※)。予(われ)之(これ)が教誨(きょうかい)を屑(いさぎよ)しとせざる者(もの)も、是(こ)れ亦(また)之(これ)を教誨(きょうかい)するのみ。
(※)術多し……(教える方法も)いろいろある。なお、孔子の次の例もここで述べている例であるとされる。「孺悲(じゅひ)、孔子(こうし)に見(まみ)えんと欲(ほっ)す。孔子(こうし)、辞(じ)するに疾(やまい)を以(もっ)てす。命(めい)を将
(おこな)う者(もの)、戸(と)を出(い)づ。瑟(しつ)を取(と)りて歌(うた)い、之(これ)をして之(これ)を聞(き)かしむ」(陽貨第十七)。私は拙著の注釈で次のように述べている。「なぜ孔子が会わなかったのかについては、罪を孔子に得たためだろうという説、紹介によらずに(正式なアポイントもとらずに)訪ねてきたからだ、など諸説あるが、よくわかっていない。ただ会わないことをわからせて、そのわけを反省させようという孔子の意思があったことでは皆一致している」。(拙著『全文完全対照版 論語コンプリート』参照)。
【原文】
孟子曰、敎亦多術矣、予不屑之敎誨也者、是亦敎誨之而已矣。
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