第6回
世紀末芸術
2016.12.14更新
絵画は意外とおしゃべり。描かれた当時の事件や流行、注文主の趣味、画家の秘密……。名画が発するメッセージをキャッチして楽しむちょっとしたコツをお教えします。
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つかの間の平和がヨーロッパに訪れた頃、工業化がすすむ社会や対立を深める国際関係などへの不安を敏感に感じ取った一群の芸術家たちから、世紀末芸術と総称される芸術が生まれます。内なる感覚や神秘体験などを描き、抽象絵画などの先駆けともなりました。
■文明社会への反動から生まれた内的表現を重視した芸術
文明社会への反動から生まれた内的表現を重視した芸術世紀末芸術は19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各地で同時発生的に開花した芸術様式です。画派や主義とは異なり、この時代の画家たちが始めた様々なかたちの新しい芸術表現を総称するものです。
ユニークな点は、異なる地域で生まれた美術に同じような傾向がみられること。その背景には、産業革命以降の大量生産時代の幕開けが深く関係しています。都市が発展し社会が豊かになる反面、鋭い感覚をもつ画家のなかには、表面的な平和の裏に国際間の緊張や人間の堕落を感じとる者も。物質文明に疑問を抱いた彼らのうち、自身の思いを自然を使って表現したのが印象派です。これに対し、世紀末芸術の画家は、人間の内面や神秘的な観念などを重視する傾向がありました。
■世紀末芸術の中核をなした象徴主義
機械や文明に対する嫌悪感、終末への漠然とした不安などから、内面的な感覚を重視したこの時代の画家たちの活動は「象徴主義」とよばれ、世紀末芸術の中核をなしました。モチーフ選びにこだわるのも特徴のひとつで、彼らは目に見えるものではなく、想像力から生まれる視覚表現や、自分のなかの幻想性や神秘体験などを視覚化することに重点をおきました。
大都市間を結びつける鉄道の発達によって画家同士の交流が活発になったことも、同時期に各地で同傾向の美術が生まれる要因になりました。
また、ウィリアム・モリスがイギリスで「アーツ・アンド・クラフツ運動」を起こすなど、手仕事による装飾美術の復権を示す動きが始まったのもこの時代の特徴のひとつです。
■スラヴ民族の歴史を描いた壮大なシリーズ
世紀末のパリでグラフィック・デザイナーとして成功し、絶大な人気を誇ったミュシャ。全20枚の連作群『スラヴ叙事詩』を制作したきっかけは、1900年のパリ万博にありました。パリ万博でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を依頼されたミュシャは、スラヴの歴史と文化に目を向けます。また、アメリカ滞在中にスメタナ作曲の『わが祖国』を聴き、スラヴの団結のために芸術を通してスラヴ民族の文化を世に広めようと決意します。
1928年、チェコスロヴァキア共和国独立10周年に合わせて完成させ、プラハ市に寄贈。しかし一時的に展示されただけで時代遅れとみなされ、地方の古城で保管されることに。『スラヴ賛歌』は連作の最後、20枚目に描かれた集大成的な作品です。
① チェコの独立と希望
『スラヴ賛歌』は1918年にオーストリア・ハンガリー帝国から独立を果たしたチェコを、シンボリックに描いた作品です。両手を広げた青年が独立を象徴し、青年の背後のキリストと中央の光をあびた人々がチェコの栄光と未来を表しています。
② 古代のスラヴ民族
画面右下の青白く浮かび上がったように描かれた人々は、農業を営みながら平和に暮らしていた古代のスラヴ民族を表しています。その対角にあたる斜め左上の部分には、暗い影がかかったような色彩で過去の敵対者たちが描かれています。
③ 星条旗
画面右の星条旗は本作の支援者、アメリカの富豪チャールズ・クレーンに敬意を表したものです。
○テンペラと油彩
大きいものでは1枚の大きさが6×8mにも及ぶ画布にテンペラで下塗りしたあと、細部は油彩で仕上げられました。
○全20枚の大作
ミュシャは20枚の主題をチェコ人とほかのスラヴ人の歴史に平等に分け、寓意、宗教、軍事、文化の諸テーマで描いています。
■優美でしなやかな女性像でパリの人々を魅了
現在のチェコで裁判所官吏の息子として生まれたミュシャは、初め裁判所の書記として働きながらデッサンに励みます。その後、プラハの美術アカデミーの受験に失敗。支援者を得てミュンヘン美術学校に留学し、卒業後パリへ出て挿絵の仕事を始めます。
1894年に舞台女優サラ・ベルナールを描いた宣伝用ポスター『ジスモンダ』で名声を高め、一躍時代の寵児に。華麗で優雅な女性像はミュシャ様式ともよばれ、室内装飾や宝飾品のデザインなど多方面で活躍しました。当時普及し始めた写真機でモデルを写し、作品を描いたことでも有名です。
アール・ヌーボーを代表する画家として大成功をおさめますが、1910年以降は故郷に戻り、祖国とスラヴの同胞のための仕事に専念しました。
※1『ジスモンダ』1894年/所蔵先複数
※2『椿姫』1896年/所蔵先複数
※3『ヒヤシンス姫』1911年/所蔵先複数
※4『ジョブ』1896年/所蔵先複数
※5チェコスロヴァキア共和国初の「切手」1918年/個人蔵
■クリムトの「黄金時代」を代表する作品
クリムトは1897年に旧体制から離別し、「ウィーン分離派」を旗揚げしました。しかし方向性の違いから内紛が生じ、1905年に仲間数名とともに同派を脱退してしまいます。『接吻』は発表の場を失ったクリムトたちが主催し、1908年に開催した展覧会「クンストシャウ・ウィーン」に出品された作品のひとつ。この展覧会では、黄金を使ったクリムトの近作群16点が展示されました。その中心に置かれた『接吻』は人々の注目を集めて大好評を博し、オーストリア政府の買い上げとなりました。
接吻のモチーフを通して「愛」のテーマを何度も描いた、クリムトの愛の賛歌ともいえる一枚です。世紀末芸術に特徴的な暗示や寓意、装飾性が多分に含まれています。
① モデル
官能的に抱き合う男女は、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲとされています。恋人への畏怖から、プラトニックを貫いていたクリムト。ある日彼女がカンヴァスの上に置いた金箔にインスピレーションを得て、『接吻』を描き上げました。
② がけ
男女が立つ切り立ったがけは、愛の絶頂期でも終わりの訪れを予感させます。当時流行した背徳的なテーマと結びつき、極限の愛を見事に表しています。
③ ○と□
男女の衣服にあしらわれた丸形と四角の装飾。これらは単純かつ対比的な男女の性的象徴として描かれています。
④ 接吻というテーマ
クリムトは「愛」を表現する新しい図像として接吻を選びました。接吻をモチーフに、抱き合い一体となった離れがたい男女の姿を描くことで、「愛の本質」を謳い上げています。
⑤ 黄金の背景
黄金の背景は、日本の琳派やビザンチンのモザイクの影響といわれています。本作でも、金箔を貼り付けたような四角を描くことで、日本の金屏風に。構図や紋様にも日本美術の影響が指摘されていますが、これらウィーン分離派のジャポニスムには、1900年のウィーンでの日本美術展が大きく影響しています。
■金細工や日本美術と西洋絵画の融合を目指す
クリムトは金銀細工師の父のもとウィーン郊外で生まれました。ウィーンの国立美術工芸学校で学び、在学中から弟と友人の3人で美術の仕事を始め、3人で手がけたウィーンの美術史美術館の装飾画で有名になります。
1897年に「ウィーン分離派」を結成。この頃からクリムトらしい装飾性と官能的かつ退廃的な表現が強まり、文部省の依頼で制作したウィーン大学の天井画の裸体像をめぐって大論争を巻き起こします。
その後ウィーン分離派を離れ、「黄金の時代」とよばれる作品群を制作。金細工の技術を応用し、ジャポニスムに影響されたこの時期の作品では、華やかな女性像のドレスに、服飾デザイナーとしても活動したクリムトのセンスを垣間見ることができます。
※1「隅板と柱の間の絵画」より『タナグラの少女』『パラス・アテナ』
1890〜91年/美術史美術館(ウィーン)
※2『哲学』1899 ~ 1907年/作品は現存せず
※3『第1回分離派展ポスター(検閲後)』1898年/美術史美術館(ウィーン)
※4『ストックレーフリーズ-期待(原図)』1905 ~ 09年/オーストリア応用美術博物館(ウィーン)
※5『死と生』1911 ~ 16年/レオポルド美術館(ウィーン)
※6『アッターゼーのシュロス・カマーⅠ』1910年以前/プラハ国立美術館(プラハ)
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