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ブックデザイナー 鈴木一誌の生活と意見

第2回

沈黙の一拍

2017.07.31更新

読了時間

長年ブックデザイナーとして活動し映画やデザインの評論でも知られる著者が、グローバル化する政治経済や情報環境、災害や紛争などによって激しく揺さぶられる現代社会を、デザイナーならではの視点からするどく捉えます。
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 早朝、印刷工場へ〈刷り出し立ち会い〉に行くことがしばしばある。校正刷りで確認はしているものの、本番印刷での刷り上がりを確認するためだ。「確認する」とは言っても単なる気休めではなく、校正刷りと本番印刷との差に愕然とすることも多く、条件が許すかぎり刷り出し立ち会いに行く。工場が始動するその時間が、ちょうど通勤時間帯に重なっていて、出勤途上の人びとの群れに逆らうかたちで歩くことになる。コンビニの袋をぶら下げているひとが多いのに気づく。始業時間前に、まだすませていない朝食をとろうとしているのか、あるいは昼食の用意なのかはわからないが、実にさまざまな食品を入れているその袋からは、微細な欲望が発散してくる。これが食べたい、あれが飲みたいとの、いま現在の欲求が、袋の内容物に1対1で対応してしまっているかのようだ。

 スーパーマーケットでレジの列に並び、前の客が大量に買い求めた品物を目の当たりにするとき、他人の家庭のこれから1週間の食生活を覗いてしまうようで、気恥ずかしさを覚える。めったなことでは逆方向から来る人間に道を譲ろうとはしない出勤途上の人びとの集団が持つ袋からは、目前の食生活がいっせいに見えるようで、ちょっと怖ろしい。ひとごとではない……。〈そこにある欲求〉という点では、ドラッグストアも似ていて、品物を手にとる客を眺めながら、あなたは身体のその部位に不満・不安を抱えているんですね、と思えておかしいのだが、コンビニが満たそうとする〈そこにある欲求〉と、ドラッグストアが埋めようとする〈そこにある欲求〉では、どこかちがう気がする。能動的な欲求と受動的な欲求のちがいというか、能動的、受動的という感触がともどもに幻想なのかもしれぬが、両者は補完しあっているようにみえる。

 富裕層ということばを、最近よく耳にする。トヨタのレクサス・ブランドについての新聞記事では、富裕層がターゲット、と書いてあって、どこか変に思う。「成金がターゲット」とか「上流階級がターゲット」という言葉は記事に書けそうもないのに、なぜ「富裕層がターゲット」とは書けるのだろうか。

 話を単純化してしまえば、コンビニが客にカロリーを摂取させようとしつつ、ドラッグストアが客のカロリーを排出させようとすることにおいて、両者は連絡している。摂りたい/排出したいという、凹凸の欲望が、消費者の内部で円環しているのだろうが、無限につづきうるように思えるその循環に、報道が触れることは少ない。〈富裕層〉の存在を前提とする言説は、暗黙のうちに〈困窮層〉の存在をおそらく是認している。〈中流〉というパイがほぼ一定ならば、中流の部分的分離である富裕層のひとりの出現は、100人規模の困窮層を生みだしている、と素人にも予想がつく。「富裕層がターゲット」と書かれて違和感なく読めてしまうとき、困窮層の存在を同時に是認することになるのだと思え、言説上の仕掛けの、だれともなく仕組まれたその巧妙さにおどろく。富裕層ということばとセットになっているかのような文脈でよく語られるのが、〈ブランド〉と〈顕示的消費〉なる修辞である。ここでも欲望が露わになっているのだ。

 ファッション史に詳しい中野香織の書くものはおもしろく、『スーツの神話』(文春新書、2000年)で、たとえば、たばこを吸う仕草が洒落て見えるのは「「健康的で幸せな生活」に対する無関心がほの見えるから」だという文章を引きながら、〈大人のマナー〉として「ものごとに動じないこと」をあげている。大人のマナーとは、ものごとに動じないふりをいかにうまくやるか、とも言い換えられそうだ。大人のマナーは、ときにはジェントルマンシップや、またダンディズムとも呼ばれ、この両者間にも微妙な差異がありそうなのだが、ここでは立ち入らない。言いたいのは、現在、「ものごとにすぐ動じる」のが、われわれの行動原理となりつつあるのではないか。すぐキレるひとやいきなり怒鳴りだすひとを見かけることも多いが、それは、食べたい、飲みたい、いい車に乗りたいといった、無数のミクロな欲望を行動へと直結させようとする社会的なシステムの、正直な反映ではないのか。食べたくないふりをする、飲みたくないふりをする、いい車に乗りたくないふりをする、沈黙の一拍がないのだ。

 かつてのみすず書房や白水社の装丁は、「読んでもらわなくてもよいのだけど」と「別に読まねばならないと思っているわけではないが」という、版元と読者の意地どうしを交流させた。「ものごとに動じない」ことにおいて交感していたそんな装丁は、もはや稀少である。前回、「点に留どまる」と書いた。〈点〉は、「ものごとに動じない」ためにはどうすればよいか、と震えながらそこにたたずんでいる。

(初出『at』第1号 2005・9)

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著者

鈴木一誌

ブックデザイナー。1950年東京都生まれ。杉浦康平氏のアシスタントを12年間つとめ、1985年に独立。映画や写真の批評も手がけつつ、デザイン批評誌『d/SIGN』を戸田ツトムとともに責任編集(2001〜2011年)。神戸芸術工科大学客員教授。著書に『画面の誕生』(2002年)『ページと力』(2002年)『重力のデザイン』(2007年)『「三里塚の夏」を観る』(2012年)。共編著書に『知恵蔵裁判全記録』(2001年)『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(2006年)『全貌フレデリック・ワイズマン』(2011年)、『1969 新宿西口地下広場』(2014年)『デザインの種』(2015年)『絶対平面都市』(2016年)など。

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