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多様性を「生きる」。違いを「楽しむ」。アフリカ人と結婚した文化人類学者が、いま考えること。 鈴木裕之

第13回

ストリートのレクイエム

2019.04.01更新

読了時間

文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
「目次」はこちら

死から学ぶ

 先日、ロックンローラーの内田裕也が亡くなり、つづいてショーケンこと萩原健一が逝ってしまった。

 

 テレビをつけると、さまざまな番組で追悼の意を込めて故人の足跡を紹介していた。

 

 それを見ながら、人生とはまさに「作品」のようなものだと思った。

 

 死によって流れゆく生に終止符が打たれると、人生は始まりと終わりがあるひとつの絵巻物として定着する。

 

 人はそこからさまざまな意味を紡ぎだし、自身の人生をより豊かにしてゆくことができる。

 

 それはなにも、有名人の「死=完結した人生」である必要はない。

 

 自分と関わった誰かの死。

 

 そこに思いを馳せると、じつにさまざまなことを学ばせてもらったことがわかるのである。

 

 今回は、私がアビジャンのストリートで出会った3つの死について語らせていただこう。

 

忠実な友

 

 彼の名は「エムソ」。

 

 顔がでかく、人相は悪く、ヌボーッとして、一見するとあきらかに恐い。

 

 頭の回転もけっして速いほうではなく、むしろ愚鈍という形容詞がよく似合う。

 

 だが、私の忠実な友であり、信頼できる子分であった。

 

 前回のエッセイで、私がルバに脅された際に、余計なことをしゃべって顔面を強打されたのが彼である。

 

 日本大使館の近くで自動車見張り番をしていた若者で、私の最初の子分のひとりであった。

 

 自動車見張り番は4、5人でグループをつくり、交差点で挟まれた道路の一区画を縄張りとし、その路肩に駐車している自動車が泥棒やいたずらの被害に遭わないよう監視し、運転手から手間賃をもらう。

 

 私はしばしば、彼らの縄張りを訪れた。

 

 私が9時頃到着すると、エムソが「スズキッ」と叫びながら駆けよってきて、折りたたみ式の椅子を路肩に置く。これが私の特等席だ。

 

 私は彼らの活動を観察し、彼らとおしゃべりしながら最新のスラングを覚える。

 

 彼らが喧嘩をはじめると、私が仲裁に入り、事を治める。

 

 ときに彼らが落花生をおごってくれたりすると、私は椰子酒をおごり、いっしょに飲んだ。

 

 昼時になるとみなで近くの安食堂にゆき、昼飯を食べる。3回に1回くらいの割合でみなにおごってやったが、たまに私が「おごってくれよ」とごねたりすると、なけなしの金をはたいて本当におごろうとするのは、いつもエムソであった。もちろん、冗談で言っているので、その気持ちだけをありがたくもらっておく。

 

 ある朝、縄張りにゆくと、みなが「スズキーッ」と叫びながら私を取り囲んだ。

 

「エムソがバスの無賃乗車で捕まったんだ」

 

 聞くと、昨日の夕方、いつものようにバスにタダ乗りして家路についたエムソが、運悪く検察官のチェックにあい、逮捕されたという。

 

 私は子分を引き連れ、中央警察所の地下にある留置所に向かう。

 

 鉄格子の向こうには、大勢のストリート・ボーイたちがひしめきあう。

 

 その中から「スズキーッ」というエムソの叫び声が聞こえてくる。

 

 私が罰金を払うと、看守が彼を引き渡してくれる。

 

 彼は人相の悪い顔を歪めながら、バツの悪そうな笑顔を浮かべる。

 

「スズキは俺たちの親友だよな」

 

 縄張りに帰る道すがら、エムソがそう叫ぶと、他の連中がおおきく頷き、みなが大声で笑う。

 

 私のストリートにおける日常は、こんなふうに過ぎていった。

 

名もなきストリート・ボーイ

 

 長期のフィールドワークが終わった後も、彼らとの関係はつづいた。

 

 私がアビジャンを訪れる度に、彼らを集め、近況を訊ね、小遣いを渡した。

 

 年を経るにつれ、彼らも大人になり、ある者は夫となり、父となった。

 

 エムソは相変わらず独身で、ゲットーのバラック小屋にひとりで住んでいた。

 

 時とともに、彼の顔から独特の無邪気さが消え、苦悩の影が濃くなっていくように思えた。

 

 ある年、集まった面子のなかに彼の顔が見えなかった。

 

「エムソは、死んだよ」

 

 仲間のひとりが言った。

 

 もはや自動車見張り番のグループは解散し、それぞれが仕事を探していた。

 

 不器用で他者とのコミュニケーションが苦手なエムソが苦労したことは、想像に難くない。

 

 彼はゲットーの掘っ立て小屋の家賃さえ払えず、路上生活者となり、心身ともに弱っていった。

 

 そしてある朝、冷たくなって道端に横たわっていた。

 

 私の「元」子分たちが駆けつけた。

 

 エムソの親戚が遺体をひきとるのを断ったので、彼らが金をだしあってなんとか埋葬を済ませた。

 

 道端の遺体は無残に病み、汚れていたため、それを直接抱きあげた「元」子分の腕は皮膚病に罹ってしまったという。

 

 エムソは冷たい地面に横たわり、夜の闇のなかで息を引きとったのだろうか。

 

 あるいは、明け方の空気を吸いこんで、逝ってしまったのだろうか。

 

 その眼は星を見たのか、あるいは朝日を見たのか。

 

 最後に、私と過ごした日々を思いだしてくれたであろうか。

 

 私はアビジャンでストリート文化の生成のメカニズムに目を凝らしてきたが、その現場を支えているのはエムソのような名もなきストリート・ボーイの群れである。

 

 そのひとりひとりの肉体のうえに、魂のうえに、アビジャンのストリート世界が打ち建てられているのだという啓示を、彼の死が与えてくれた。

 

ストリートの成りあがり

 

 彼の名は「ロッシュ・ビー」。

 

 ストリート出身のラップ・スターである。

 

 もともと自動車見張り番であったが、独学でラップをマスターし、スラングでストリート・ライフをラップし、自動車見張り番の生き様を描いた曲で大ブレイクし、あっという間にトップ・スターとなった。

 

 はじめて彼と会ったとき、インタビューを申しこむと、取材料として5万フラン払えと言ってきた。ミュージシャンの取材で金を払ったりしないと断ると、「じゃあ、しょうがないなあ」と言いながら、しっかりとインタビューに答え、写真撮影にも応じてくれた。

 

 ダメもとでとりあえず金をねだってみる。ストリートの常識である。

 

 いつのまにか、私たちは親友になっていた。

 

 私は彼と連れだって、アビジャンのゲットーを徘徊し、写真を撮った。

 

 彼の生い立ちについてインタビューし、難解なスラングの歌詞の意味を教えてもらった。

 

 村で生まれ、父親の仕事の関係でアビジャンに引っ越し、10歳を過ぎてはじめて小学校に入学した。

 

 年下の同級生に囲まれ、学校に馴染めず、父が第二夫人をもらい、家庭がギクシャクし、ストリートに「降りて」いった。

 

 近所の「先輩」に連れられ、アビジャンの中心街に通い、財務省前を縄張りとする自動車見張り番となった。

 

 音楽が大好きで、当時流行りはじめていたラップに夢中になった。

 

 インストの曲をカセットテープに吹き込み、それに自分のラップをのせたデモ・テープを自動車見張り番の「常連客」だったあるテレビの有名アナウンサーに売りこみ、その伝手でチャンスをつかんだ。

 

 まさにストリートの成りあがり者である。

 

 ある時、ロッシュ・ビーの住むゲットーを徘徊していた時のこと。

 

 彼は地元の友人と連れだって私の前を歩きながら、「人生ってのはなあ、いかに良き友を持つかが大事なんだ。俺とスズキのようにな……」としきりに説教している。

 

 その後ろ姿を見ながら、私は感心してしまった。

 

 彼がくりだす一歩一歩は軽快かつ着実なステップとなり、風を切る肩の動きは緩やかで優美なリズムを奏で、喋りにあわせて自由自在に動きまわる両手のジェスチャーは、まるで独立した生き物が踊っているかのようであった。

 

 ただ歩きながら喋っているだけなのに、身体全体が歌い、踊っている。

 

 天性の芸術家が、そこにいた。

 

転落した「本物」

 

 最初のロッシュ・ビー・フィーバーも一段落し、そろそろ次のアルバム制作に取りかかるべき時期となった。

 

 私は彼と連れだって、プロデューサー探しに奔走した。

 

 相手は大スター、ロッシュ・ビーである。売れないわけがない。

 

 私はすぐにプロデューサーが見つかり、エキサイティングなレコーディングがおこなわれ、カッコいい曲が発表され、次なるフィーバーがやってくるものだとばかり思っていた。

 

 だが、いっこうにプロデューサーが見つからない。

 

 みな、一様に興味を示し、話に乗ってくるのだが、最後のところで首を縦に振らない。

 

 その理由は、彼があまりにも「本物」のストリート・ボーイだったからである。

 

 最初のプロデューサーと金の件で揉めたとき(アビジャンではよくあることだ)、彼はルバふたりを連れて乗りこんできた。彼からすると「対話」のつもりであったが、プロデューサーにとっては「脅し」以外の何物でもなかった。

 

 彼は、ストリート・マナー以外のコミュニケーション様式を知らなかった。

 

 その「本物」らしさがアーティストとしての最大の強みであると同時に、ビジネス面での最大の弱みとなった。

 

 ショウビジネスの基準から外れた無理難題をふっかけ、ときに強圧的な雰囲気を感じさせる。ストリートで培ったオーラが、ビジネスマンたちを尻込みさせた。

 

 アビジャンのプロデューサーのもとを軒並み回って空振りしたあとで、彼は無為に時を過ごすことがおおくなった。

 

 彼は私が下町に借りていた部屋に居候し、私が調査で出かけているときはひとり残った。

 

 ある日、散歩の途中で近くの藪の中に潜む麻薬の密売人と知りあい、ヘロインを覚えた。

 

 私がそのことに気づいたのは、だいぶ経ってからのことである。

 

 私は彼を追いだした。麻薬中毒患者といっしょに住むことはできない。

 

 私は彼の心の弱さを罵り、彼をケアしきれなかった自分の無力を呪った。

 

 それから1年以上たって、私はアビジャンの中心街で偶然彼と再会した。

 

 ボロボロの服に身を包み、擦り切れたサンダルを履いた浮浪者然とした若者があのロッシュ・ビーであるとは、誰も気づかなかったであろう。

 

 唖然とした私は、彼にサンドイッチとビールをおごり、近況をたずねた。だが重度のヘロイン中毒に陥っていた彼は、まともに受け答えができなかった。

 

 私は砂を噛むような虚しさを覚えながら、彼と別れた。

 

 それからまた1年以上たって、アビジャンの中心街の一角で、次に紹介するレゲエ・スターといっしょに立ちションをしていると、いきなりひとりの男が私たちの横にやってきて立ちションをはじめた。なんと、ロッシュ・ビーであった。

 

 あいかわらず麻薬中毒者然としているが、前回よりは話ができる状態にあった。

 

 今はすぐそこの橋の下に、仲間といっしょに住んでいるという。橋の下は、路上生活者にとって格好の居住空間となる。

 

 私は現役のレゲエ・アーティストと過去のラップ・アーティストに挟まれて、アビジャンの入り江を眺めながら用を足した。

 

 ロッシュ・ビーは私のすぐ隣に立っているが、ふたりの間の距離がもはや取り戻せないほど離れてしまっているのはあきらかだった。

 

 それからさらに1年以上たって、彼が死んだことを知った。

 

 路上生活者に転落し、重度の麻薬中毒者となった彼の最期の詳細を、私は知らない。

 

 だが、彼の栄光の日々と転落の日々との距離が、マスメディアで消費されるストリート文化と、肉体と魂を持ったストリート・ボーイの現実との間の距離であると、私は悟ったのである。

 

狂気を武器に

 

 彼の名は「タンガラ・スピード・ゴダ」。

 

 本エッセイの第5回でも紹介したレゲエ・シンガーである。

 

 元ルバで、ワルとして鳴らしたあと、レゲエと出会ってラスタとなり、パリに不法滞在中にアルバムをレコーディングし、帰国後に「ルバ・フィーリング」というストリート直送の曲で大ブレイクした。

 

 あるポップ・グループのローディーを務めたこともある彼は、その豊富な経験と鋭い知性で、ショウビジネスの本質を理解していた。


 相手に食い物にされる前に自分から攻めるのが、ストリートの流儀である。

 

 ドレッドロックスの顔にサングラスをかけ、アーミールックの上に厚手のコートを羽織り、重厚な軍用靴で闊歩する。

 

 テレビのインタビューでは奇声を発しながら大暴れし、女性アナウンサーを威嚇する。

 

 あいつは狂ってる。気をつけろ。いや、面白いじゃないか。今度はなにをしてくれるんだ。

 

 マスメディアの人間に恐怖心を抱かせ、同時に人々からの注目を集めるため、「狂気」を演じたのだ。だがそれは、彼の「知性」に裏づけられた戦略的演出であった。

 

 支配される前に、相手を支配しなければならない。

 

 心ある者は彼の本性を見抜き、その芸術性を高く評価した。私もそんなひとりであった。

 

 彼は自宅を「ハキリ・ソ=知恵の家」と呼んでいたが、私がそこに通いつめ、家族ぐるみのつきあいをしていたことは、第5回のエッセイに記したとおりである。

 

 時とともに、彼の言動から「道化」的部分が減少し、それと反比例するように「知」的部分が増加し、その切れ味鋭い批判精神に人々が舌を巻くようになっていった。

 

 レベルの高いアルバムを発表しながらも、あくまでもゲットーに留まりつづけ、ストリート・スタイルをけっして崩さない彼は、いつの間にか老若男女から尊敬されるご意見番となっていた。

 

 私は、彼がアビジャンでレコーディングした2枚目のアルバムの資金の大部分を提供し、カナダで3枚目のアルバムを録音した際には、資金が尽きて困っていた彼に、最後のマスタリングの費用を日本から送金してやり、その音楽的キャリアに少なからず貢献したのであった。

 

不条理な死

 

 2000年の夏、ドイツのハノーヴァーで万博が開催されたが、コートジボワールの代表としてタンガラ・スピード・ゴダが会場で演奏することとなった。

 

 3枚目のアルバムの評判も上々で、彼はこれを機にヨーロッパに滞在し、国際的キャリアを積んでゆくつもりであった。

 

 その直前、アビジャンに短期滞在していた私は、ちょうど出発する日に彼の練習を見学した。

 

 私の隣に座った彼が言う。

 

「俺は今まで、特定の個人のために歌ったことはない。でもこれは特別だ」

 

 そう言って立ちあがるとマイクをつかみ、「アブバカール・シリキ、これはおまえのためだ!」と叫んで歌いだした。

 

 アブバカール・シリキとは私のイスラム名である。彼は私に捧げる歌をつくり、バンドで練習していた。

 

 タイトルは「ミリヤ=考えろ」。

 

「神の造りたもうたものたちは考える。

 

 人も、牛も、羊も、鳥も……考えている。

 

 木も、草も、石も、水も……考えている。

 

 太陽も、月も、星も、大地も、海も、風も、考えている。

 

 考えろ、考えろ、真実がみつかるまで、考えるんだ」

 

 曲の最後に、私がそれまで示した厚意のすべてに感謝することばを述べて、私を送りだしてくれた。

 

 しばらくして、彼がハノーヴァーでコンサート前に倒れ、昏睡状態に陥ったという知らせが届いた。当時パリに滞在していた私は、すぐさま駆けつけた。

 

 病院のベッドに横たわっていた彼は、まったくの別人となっていた。

 

 そこにいるのは、タンガラ・スピード・ゴダの抜け殻であった。

 

 昏睡からさめた彼は、まるで生まれたての赤子のようで、言葉をしゃべることもなく、ほとんど白痴状態となっていた。

 

 あまりに変わりはてた姿に、私は心底恐怖を覚えた。

 

 あの鋭い知性と熱く煮えたぎる魂は、どこへ行ってしまったのか。

 

 誰もが、彼がヨーロッパで活躍の場を広げ、世界的なアーティストとして大成するものとばかり思っていた。

 

 アビジャンで、ゲットーのアイデンティティを保ちながら、ショウビジネスの手綱をさばき、優れた音楽を送りだしながら、市場のおばちゃんから政治家にまで尊敬されていたタンガラ・スピード・ゴダ。

 

 きっと、なんらかの医学的説明はつくのだろう。 

 

 だが、なぜここで倒れなければならないのか、その意味が私には理解できなかった。

 

 やがてアビジャンに搬送された彼は、自宅で療養するが、その症状はいっこうに改善されなかった。

 

 かつて彼に憧れ、彼を尊敬する訪問者たちで賑わっていたハキリ・ソを訪れる者は、もはやいなかった。

 

 1年以上もそんな状態がつづき、やがて彼はひっそりと息をひきとった。

 

 彼の死の意味を、私はいまだに理解できない。

 

 それは道端で野垂れ死にした名もなきストリート・ボーイの死とも、栄光からどん底へ突き落とされたかつてのスターの死とも異なっている。

 

 そこにはなんの必然性も感じられない。たんなる不幸であり、不条理である。

 

 神の業とはこのようなものなのであろうか。

 

 あるいは、不幸が襲った際に多くのアフリカ人が考えるように、悪意ある妖術師の手に落ちたとでもいうのだろうか。

 

 いろいろ分かったような気になっても、じつは生とは私たちの手の届かないところにある。それでも考えつづけなければならないのだろう。

 

 タンガラ・スピード・ゴダが私に残してくれた曲で語ったように。

 

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著者

鈴木 裕之

慶應義塾大学出身。国士舘大学教授。文化人類学者。専門はアフリカ音楽。著書に『ストリートの歌―現代アフリカの若者文化』(世界思想社/2000年/渋沢・クローデル賞現代フランス・エッセイ賞受賞)、『恋する文化人類学者』(世界思想社/2015年)ほか多数。1989年~1994年まで4年間、コートジボワールの大都市アビジャンでフィールドワークを実施。その際にひとりのアフリカ人女性と知り合う。約7年間の恋人期間を経て1996年に現地にて結婚。彼女が有名な歌手になっていたことで結婚式は注目され、現地の複数の新聞・雑誌でとりあげられた。2015年、この結婚の顛末を題材にした文化人類学の入門書『恋する文化人類学者』を出版。朝日新聞、週刊新潮、ダ・ヴィンチなどの書評、TBSラジオ、文化放送などのラジオ番組でとりあげられ、大学入試問題にも採用された。

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