第21回
学問について
2019.07.30更新
文化人類学者であり、国士館大学教授の鈴木裕之先生による新連載が始まります。20年間にわたりアフリカ人の妻と日本で暮らす鈴木先生の日常は、私たちにとって異文化そのものです。しかしこの連載は、いわゆる「国際結婚エッセイ」ではありません。生活を通してナマの異文化を体現してきた血の通った言葉で、現代の「多様性」について読み解いていきます。
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学問ノススメ
学問は、したほうが良いと思う。
もちろん、受験の話をしているのではない。
多様性の話をしているのだ。
多様性の問題とは、すなわち世界認識の問題である。
自分はこの世界をどう捉えているのか。その認識の仕方が、あなたの多様性に関する態度を決定する。
自分を取りまく環境が、そこから受けとる情報が、知らず知らずのうちに自分の世界観を規定してゆく。
テレビやネットから流れでる言葉、モスクや教会で話される説教、カフェや居酒屋で交わされる会話、学校の先生から教わったこと、本や雑誌で読んだこと……たまたまキャッチした情報の総体が、あなたという人間の生き方に反映されてゆく。
そこに学問というリソースを組みこんでみよう。
学問は、人間の「知りたい」という本源的な欲求から生まれた。これはホモ・サピエンスという動物の持つ性のようなものである。
さまざまな先達たちが、この知的欲求にしたがって膨大な業績を積みあげてきた。それは人間の知性の宝庫だ。
受験用にカスタマイズされた勉強から解放されて、それらと直接対峙してみる。
テレビのバラエティー番組用に商品化された見せかけは脇に置いて、先達の声に耳を傾けてみる。
するとそこには、頑固で個性的な魂が、刃物のように鋭い判断力が、目から鱗の独創性が、万華鏡のように広がってゆくことだろう。
もはやこれは、人類全体の共有財産である。
私たちはたしかにグローバル社会を生きているが、それはもはや個人がひとつの世界観に埋没することが許されない社会である。
みずからすすんで複数の価値観を学び、それらの意味を自分の頭で考え、心で感じ、そのうえで自身の立ち位置をみずからの意志で選びとってゆく。
そのためには、意識的に「知」を鍛えてゆく必要がある。
ただし、知を提供してくれるのは学問だけに限られるわけではない。
この世界には、さまざまな知が存在している。
白人の学校
アフリカでは、西洋式の学校を「白人の学校」と呼ぶ。もしかしたら地域的な偏差はあるかもしれないが、すくなくとも私のフィールドである西アフリカでは広範囲にわたってそう呼ばれている。
19世紀のヨーロッパによるアフリカの植民地化にともない、白人は「言うことを聞く」現地人エリートを育成するためにヨーロッパ式の学校を導入し、独立後のアフリカ諸国もそれを継承しながら近代教育システムを定着・発展させようとしてきた。
白人によりもたらされ、白人のように物事を考える教育がおこなわれるので、たとえ黒人が通っているとしても「白人の学校」と呼ばれるわけである。
では「黒人の学校」があるかというと、ない。
白人がやってくる前に普及したのは、イスラム教の教育を施すコーラン学校だ。
7世紀前半に成立したイスラム教は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて北アフリカとスペインにまで広がり、その後、サハラ砂漠を縦断する交易を通して西アフリカに広がっていった。妻の民族であるマンデの起源となったマリ帝国は、サハラ交易を基盤として13世紀に成立した、イスラム化された国であった。
イスラム教は現地の文化と融合しながら普及し、その過程でコーラン学校が各地につくられていった。たくさんの子どもたちが先生にしたがってコーランの朗誦を繰り返す様は、学校というより日本の寺子屋のイメージに近いかもしれない。
さらにアフリカには民族ごとに、イニシエーション(いわゆる成人式)の文化が広く残っている。
これは村単位でおこなわれ、一定年齢に達した男子あるいは女子を一定期間隔離し、歌やダンスを伴ったさまざまな儀礼を施しながら、短期間のうちに精神的・肉体的に大人へと成長させるための儀式である。その過程で各共同体に伝承されている知識が世代から世代へと伝達されてゆく。まさに伝統的な学校といえよう。
こうして、白人の学校があり、コーラン学校があり、伝統的な世界観が現役で生きているアフリカ。
ある者は白人の学校に入り、高等教育まで受けて、パワーエリートに、あるいはビジネスマンになる。
ある者はコーラン学校に入り、イスラムの伝統のなかに生きる。
白人の学校をドロップアウトしてストリート・ボーイになる者もいれば、コーラン学校に形ばかり通ったうえで、自動車修理工や建具屋の見習いになる者もいる。
政治家や企業家として出世した者がイニシエーションを受けていなければ、村に帰ったときには子ども扱いされ、同い年で百姓をしている「大人」の幼なじみより格下扱いされるだろう。
複数の異なる価値観と教育システムが併存しているアフリカ社会。西洋式の学校教育がすべてを覆いつくし、文部科学省を介しての国家からの強力な絞めつけに逆らうことのできない学校に通ってきた私たち日本人の目に、それはカオスと映ることだろう。
教育は国家の礎である。であるから、法により、行政により、国家は教育課程に介入し、それをコントロールし、国家の意に沿った人づくりを強要しようとする。
日本では白人の学校が定着し、西洋合理主義の教育がおこなわれ、ほぼ「常識的」な人材を社会に送りだすシステムがいちおう整っている。
アフリカでは教育システムが一元化されず、そもそも就学率が低いので、学校教育を受けない人も大勢いる。
そこで育まれる世界観は、おのずと日本人のそれとは異なってくるであろう。
それは常識ではない
私たちが常識だと思っていることがすべての人々に共有されていると思ったら、大間違いである。
地球は丸い。これは常識か?
私の妻は正式な学校教育を受けていないので、地球が丸いという情報をインプットされてこなかった。日本に来てから私がいちおう説明したことがあるが、どこまで理解できたのかは今もってわからない。
彼女の母親にいたっては、これはもう正真正銘、完全無欠の伝統的アフリカ女性なので、地球が丸いなどといったら、「とうとうウチの婿の頭がおかしくなったわい」などと思われかねない。
だが、地球は丸く、自転し、さらに太陽のまわりを公転し、太陽系は銀河系に含まれ、銀河系を含む宇宙空間は膨張している。日本人であれば、お馬鹿キャラでないかぎり、このくらいのことは知っているだろう。
でも、なぜ知っているのか? この目で見たのか?
いや、学校で教わったのだ。
それにしても、私たちの生活感覚では到底想像できないような壮大なイメージをともなった事実を、どうしていともたやすく受け容れることができるのだろう。
月が丸いというのは、見ればわかる。
だが、地球が丸いなどと、どうして実感できよう。しかもそれが回転しているというではないか。
私たちがその事実を受け容れるのは、科学を信じているからである。西洋近代文明の基礎となり、その圧倒的な物質文化でもって私たちに便利な生活を保障してくれる科学の力に信頼をおいているからである。その科学が地球は丸いといっているのだから、どうして疑う必要があろう。
私たちが一生のうちで見聞きし、体験できる範囲など、たかが知れている。
私たちの知識のほとんどは、学校教育やマスメディアを通して得た間接的なものである。その情報提供者への信頼が、その知識の真正性を保証してくれる。
ところで、学校で教えてくれる科学的な知識への信頼感はどこからきているのだろう。
私たちは、生まれてから学校教育を受けはじめるまでのあいだ、一度でも科学に対する信頼性を吟味する機会を持ったことがあるだろうか?
ふつうは、疑問の余地などなく、一点の曇りもない信頼感を持って、子どもは学校教育のレールに乗せられてゆく。
それはあたかも、イスラム教徒の子どもが、あたりまえのように神の道に入ってゆくがごとくである。
科学の優位性
私は日本の学校教育のなかで普通に育ち、高等教育を大学院の博士課程まで受け、欧米発祥の文化人類学を専攻する職業的研究者となった。
この学問を究めるためにアフリカに赴き、フィールドワークをおこなった。
そこには私たちと異なる価値観にしたがい、異なる慣習を生きる人々がいる。
文化人類学の目的は、それらを観察し、記録し、解釈し、私たちの理解できる言語で説明することである。
ところで、この場合の「私たち」とは誰か?
それは文化人類学を含む諸科学(自然、社会、人文のすべて)を支える言語、つまり西洋合理主義の説明体系にしたがって思考する人々のことである。
さて、ここにはある前提が隠されていることに気づいていただけただろうか。
それは「私たち」の科学的言語は他に優越するものであり、それゆえにすべてを説明する権利を持っている、という信念である。
であるから、アフリカの密林に住むピグミー、アラブの砂漠を移動するベドウィン、インドでヒンズー教の神々を崇拝する人々……この地上のすべての人々の異なる「生」を科学という単一の次元に還元し、合理性の枠内で説明できると考える。
この科学の優位性は、私たちの生活の隅々まで―すくなくとも表向きは―覆っている。テレビのニュース番組やバラエティー番組の解説で、研究者や大学教授のコメントが「決定版」として紹介されるのが、それを象徴しているといえよう。
だが、長期間アフリカの人々と共に生き、親戚にまでなった私が感じるのは、科学の優位性とは「私たち」の独りよがりにすぎない、ということである。
イスラム的な世界に生きる人々は、一神教的世界観を科学の上に置く。
アフリカの村人は、聖なる森の奥底に隠された秘密を、白人の科学がキャッチできるわけがないと考える。
西洋が国際政治のヘゲモニーを握り、資本主義経済が世界を覆い、白人の学校があちこちに建設されたからといって、天におわします神の存在や人の心の奥底に根づく世界観まで収奪し支配できるわけではなかろう。
「私たち」以外の人々も、自分たちの説明体系を持ち、その観点から「白人の科学」を時に揶揄し、時に畏怖し、時に憎み、時に受け容れる。
たしかに国家を運営するには、日本のように単一の価値観を共有している方が効率的であろう。複数の異なる価値観の併存はカオスのもとである。
だが、カオスには別称があることを忘れてはならない。
「多様性」という別称が。
知のポリフォニー
体系とは、一種の罠である。
物事を説明するには一貫した体系が必要である。
科学の体系、宗教の体系、民俗的な体系……
それらは一貫性を持つことで「合理的」に世界を把握することを可能にしてくれるが、それゆえに、たがいに排除せざるをえない。
その内側に位置する者は、他の体系を虚偽である、あるいはより高次な自分たちの体系に吸収されるものであると見なすようになる。
だが、「生」とはたったひとつの体系によって、簡単に説明されうるものなのだろうか?
そもそも私たちは、説明されるために生きているのだろうか?
近代以降、世界は西洋化され、その合理主義が人々を「啓蒙」してきた。
それは光をもたらす「文明」であると同時に、その内に「真理」という名の暴力と「普遍」という名の傲慢さを内包する狭量なシステムであった。
その結果、世界が、地球が、人々が悲鳴をあげている。
この辺で、科学には優等生の座を降りていただいて、他の諸体系と肩を並べてもらおう。
そして、さまざまな体系の果実である「知」を、すべていったん自身のなかにとり込んでみよう。
学問の知、宗教の知、民俗的な知……そのあいだに序列を設けず、先入観のない目でありのままを見つめるよう努力してみる。
すると、各々が独自の言葉をしゃべりながら、全体として「知のポリフォニー」が奏でられることであろう。
ポリフォニーとは、ある声部が主旋律をなし、他の声部がそれを和声的に伴奏するホモフォニー(単声音楽)に対し、複数の声部がたがいに対等の立場で絡みあいながら全体として音楽をつくる多声音楽のこと。アフリカのピグミーの合唱がとくに有名だ。
そこには主もなく従もなく、あるのは平等なアクターによってつくりだされる躍動的な全体性。
だがその全体性は、矛盾に満ちたものとなってしまうのではないかと言われるかもしれない。
そのとおり。
異なる体系を内包した時点で、矛盾が噴出することはあきらかである。
だがとりあえず、矛盾を矛盾として受けとめてみる。
やがてどこかで、矛盾が矛盾ではなくなるレベルに到達するかもしれないし、あるいは人間とは、そして世界とは、そもそも矛盾した存在であるという認識を得ることになるかもしれない。
そのとき、学問とは究極の回答ではなく、全体の一部にすぎないということを素直に受けとめることができるであろう。
ただ、それはとても重要な一部ではある、という一言は、文化人類学を生業とする者として付け加えておきたい。
だから、みなさん、今のうちからたくさん学問しておこう。