第3回
ケアはどのように行われてきたか
2016.08.17更新
【 この連載は… 】 2年間、寝たきりだった人が立ち上がり、自分の足で歩き出す。「ユマニチュード」とはいったい何なのか、「奇跡のような」効果が生まれるのはなぜなのか? 開発者本人の語り下ろしによる書籍刊行を記念して、本文の抜粋を5回にわたって連載!
「目次」はこちら
■患者に触れはしても、触れられることを避けるのはなぜか
医師も看護師も仕事として患者に触っています。ユマニチュードを学んだ医師がこう話してくれました。
「患者さんが何気なくこちらに触れようとしたとき、私はとっさに身を引いてしまいました。びっくりしたからです。けれどもよく考えたら、私たちは常に一方的に相手に触っています。そのことをそれまで不思議に思いもしなかった」
いまでは、その医師は相手から触れられることを嬉しいと感じています。ユマニチュードを学んで素晴らしい結果を出している看護師でも、数年前、ユマニチュードを学ぶ前に、患者が彼女に触れようとしたら拒否したことでしょう。一方的に触れることしか許されなかった考えの背景にあるのはなんでしょうか。全世界の看護師に共通しているのは、「この仕事に身を捧げている」という姿勢です。
しかしながら、それは一方的に相手に与え続けることでもあります。その結果待ち受けているのは、バーンアウト(燃え尽き)です。自分のエネルギーがなくなってしまった状態です。私はよく看護師にこう聞きます。
「あなたは相手から何を受け取っていますか?」
自分の感情を表してはいけない。愛情を表現するだけの距離に近づいてはいけない。それでは相手からも何も受け取れません。ケアの場において私にエネルギーを与えるものは何かといえば、それはケアを行う相手から受け取る反応です。その反応が前向きなもの、好意や優しさを示すものであれば、それはケアを行うエネルギーとして私に蓄えられます。看護師に相手からの反応を受け取ることを禁じているから燃え尽きてしまうのです。私は何かを相手に与えるとき、必ず相手から何かしらの反応を受け取ります。その相手からの贈り物が、私のエネルギーとなります。それが私を前進させてくれるのです。
ケアする側が患者に触るのは簡単です。でも触れられることを受け入れるのはとても難しい。「あの人はいやらしい」「乱暴だ」と捉えてしまいます。でも、看護師は患者の陰部に触っています。その一方で、患者が自分の手に触れただけでいやらしい、と拒絶する。
しかし、交換のないところに人間関係は生まれません。一方的に与えるだけの関係が成り立つのは、どちらかに絶対権限があるからです。ケアの現場でよく聞かれる言葉に「動かないでください」があります。たとえ、それを優しい声音で言っていたとしても、意味するところは「私が全権を持っていて、あなたにはない。だから動かないでください」なのです。
唯一、「あなたにも権利があります」を示す方法は、相手からのポジティブな働きかけを受け取ることです。相手からのポジティブな働きかけとは何でしょうか。私が感情を込めた優しいケアをすると相手はリラックスし、「ありがとう」と言います。私の手をとり、頬にキスしてくれます。相手が私に向けて言うこと、行いを私は受け取ります。担当している人が亡くなったとしても、家族が「私の父は亡くなりました。でも、あなたはとても優しい人だったと言い残して逝きました」と言うとき、それもまた贈り物です。
与えることと受け取ることがうまくいっているとき、私のエネルギーは満たされ、「奪われる」というような喪失感は生まれません。しかしながら、心理学の分野で教えられていることは、その逆で「自分の愛情表現をしては危険だ」と言います。これはある意味もっともな考えです。なぜなら私たちにとって他人は怖れの対象だからです。
怖れは人間と人間の間柄を損ないます。私がそうだと確信できるのは、患者はユマニチュードをしっかりと身につけている看護師と話したがり、触れたがるからです。ユマニチュードは自由への道です。伝統的なケア教育を受けてきた人は、患者に触れられることを好みません。それは別の言い方をすれば、自分が自由になることを拒否している態度です。
しかし、ひとたびこれまでの慣習を手放すことを本人が受け入れると、いままでもらえなかったような贈り物を相手から受け取れるようになります。では、どうすれば自由になれるのでしょうか。それを知るにはケアする側が培ってきた「怖れ」の文化の歴史を知る必要があります。
■ケアはどのように行われてきたか
「こういうことはやってはいけない」と何事につけ社会の良識はいいます。そうしたたくさんの禁止事項を私たちは学び、身につけていきます。そしてそれは、私たちの文化の一部となります。
禁止する理由がはっきりしていて、頭では納得したとしても、欲求が本能から生じる場合、理性と対立することになります。そういう場合、理性は本能的な欲求を「いけないことだ」と決めつけ、退けようとします。私たちは本当に自分が何を欲しているかわかっているでしょうか。私たちが深いところで求めているのは「博く愛されたい」ということです。
「あなたに愛されたい」と正直に言いたいのです。その自由が欲しいのです。しかし、あなたが怖い。愛し愛される自由を求めているけれど、文化や教育がまったく逆のことを教えています。「そういう欲求はよくないものだから、自分の中にすべて閉じ込めておきなさい」と。自由が大事だと口にしながら、私たちは自由ではないのです。けれども囚われていたものから解放され、自分の所属する文化から抜け出たとき、恐怖に囚われている自らの姿が見えてきます。
ロゼットがある施設を訪れた際のことです。そこはケアを受け入れない認知症高齢者がたくさんいました。介護士たちは口々にこう言います。
「いいことをしようとしているのに、高齢者は叫んで嫌がって反抗する。だから心が痛んでつらい」
誰もが「自分たちは不幸だ」と思っています。不思議なことに自分たちのつらさについて話はしても、高齢者のつらさについては誰も語りません。その施設には3年間、まともに保清できない人がいました。ケアは毎回戦いです。しかしロゼットは、その人と楽しくシャワーの時間を楽しみました。介護士は皆驚いていました。そこでロゼットが言います。
「メソッドを教えますから大丈夫ですよ。あなたがたが日々抱えているつらさの原因を解消する技術をご紹介します」
でも彼らは決して受け取ることをしません。これは不思議な現象です。彼らはつらいと言い、不幸だと嘆いています。問題は深刻だと頭を抱えています。事態の解決を望むならば、現状を変える知識と方法を受け取ってもおかしくありません。でも、彼らはいまの不幸な状況を手放そうとしないのです。
こういった反応はその施設に限った話ではなく、ケア業界に広く認められる傾向だと長年の経験から感じています。なぜでしょうか? 意外に思われるかもしれませんが、そうした拒絶の背景には宗教が関係しています。ケアはキリスト教によってつくられたという歴史が、そうした考えを生んでいるのです。
■無意識に息づく宗教的価値観
ケアをはじめたのは修道院でした。担い手は修道女で、彼女たちは身寄りのない人、病人といった誰も世話したがらなかった人たちのケアをしていました。彼女たちが看護という職種をつくったと同時に、いまの私たちを抑制する文化もつくりました。宗教者によってつくられたため、ケアの本質はあくまで奉仕です。
「もう21世紀なのだ。そんな過去の遺産とは無縁だ」。そんなふうに私たちは過去の文化と関係なく生きているように思っています。けれどもルーツのない人がこの世に存在しないように、誰しも過去を背負っているのです。それがある文化圏の中で支配的な力を持っていたりします。
ケア業界においては奉仕や慈善という成り立ちが潜在的なモデルとして今日まで影響を及ぼしています。それにしても、なぜ修道女は見放された病人たちを集めてケアをしたのでしょう。それは天国へ行くためです。誰もが躊躇するような苦難の道、逆境を生きてこそ天国へ行けるからです。自己犠牲と苦しみが必須なのです。だから、自分から与えはしても相手からは何も受け取りません。
そういう信仰がベースになってつくられたため、いつの間にかケアする人は「苦境に置かれていなければ、本来の意味での業務をまっとうしていない」と思ってしまい、仕事の価値が苦難や困難に置かれるようになります。無意識のうちにその文化に馴染んでしまうのです。
看護師や介護士などケアする立場の人は、認知症の高齢者といった、家族でさえも世話をすることをあきらめてしまった、見放された人々へケアを行う素晴らしい人たちです。しかし、たいへんであることに意義を見出す文化に慣れてしまうと、私が「ユマニチュードでは患者さんを介助するのに10歳程度の子供の力があれば大丈夫ですよ。拘縮なら5歳くらいの力で解消できます」と言っても受け入れ難くなります。自分の信じている苦難や困難の価値観を壊してしまうことを怖れるからです。
その一方、これまでの慣習から離れ、ユマニチュードを実践するようになった看護師がよく口にするのは、「ケアが楽しみになる」「仕事が楽しい」といった苦しみとは無縁の言葉です。
■力を失うことで弱者に力を振るう
神に仕え、天国へ行くため、自分を犠牲にして見放された人に奉仕する。苦難や困難、逆境が看護の世界の成り立ちにあります。無意識の中で私たちは、その考えに囚われています。自覚されてもいないのです。認知症の高齢者のような、誰もが世話をしたがらない人を相手にすること自体に価値があるとすれば、苦難を解消するような技術を、「受け入れ難い」と思うのも頷ける話です。
1936年に発行されたフランスの看護専門誌には、「神の加護を受けた看護師たちにとって、単調で簡素で、誰もやりたがらない手仕事を行うことに価値がある」と書かれています。フランス人の看護師はこれを「時代遅れ」と笑います。日本人も「それはヨーロッパのことで自分たちとは関係ない」と一笑に付すでしょう。けれども近代的な看護は欧米から世界に伝えられ、その根っこにはやはりキリスト教の犠牲の精神があります。
いわば、日本の看護文化も、フランスと同じ考えを共有しています。その中で、最も大きな価値は自己犠牲です。かつては神に仕えていましたが、今日では自分の人生を仕事に捧げることに目的が置かれています。ポルトガルでは1960年まで看護師は結婚してはいけないというルールがありました。同じようなことは日本にもあります。ごく最近まで、病院の看護部の許可がなければ看護師は出産ができないことがあったのです。
表向きには「人手が足りないから、いま産んでもらっては困る」という理由かもしれません。しかし本質的には、24時間患者のために身を捧げる存在ではなくなることへの罰でしょう。修道女が子供を宿すという過ちを犯したのと同じ扱いです。大げさに聞こえるでしょうか。しかし、現実を見ると、そうも言っていられません。苦難なくしてケアはありえないという考えで築かれた文化が、無意識のうちに個人に自己犠牲を迫り、それに慣れていくうちに、個人が自由に考え、行動する力を失っていくのです。
私たちが「力を失った」という失意の状態に陥ったとき、次に何が起きるでしょうか。その代償として自分より弱い立場の者に対して力を振るおうとしはじめるのです。ケアの世界でいえば、看護師よりも弱い立場なのは患者です。一方的に与える関係もまた、力を振るうことの表れなのです。私は、このシステムを変革しようと思っています。看護師が本当に力を持つとき、患者から、優しさや愛情を受け取ることを自分に許可します。そして自分が思うことを言えるようになります。過去の遺産や慣習にただ従うことから解放され、自由になれるのです。
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