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第109回

265〜267話

2021.08.27更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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万章(下)

1‐1 懦夫も正しく立派な志を立てるようになる(伯夷の生き方)


【現代語訳】
孟子は言った。「伯夷は目に不正な色を見ず、耳に不正な声を聞かなかった。また、仕えるべき正しい君でなければ仕えず、治めるべき正しい民でなければ治めなかった。世のなかがよく治まっていれば、進んで仕え(政治を行うことにも加わるが)、世の中が乱れていると、退いて隠れてしまった。また横暴な政治を行う朝廷や横暴な民がとどまっているところには、いられなかった(我慢できなかった)。礼儀をわきまえない俗人と一緒にいることは、朝廷に出仕するときに着る衣冠装束を身につけた姿で、泥や炭でいっぱいの汚れたところに坐っているようなものだと、伯夷は思ったからである。(殷の)紂王が暴政を行って世のなかが乱れているとき、伯夷はこれを避けて北方の海辺に隠れ、天下が太平となるのを待った。このように潔白であったので、この伯夷の生き方を聞く者は、どんなに欲深な人も廉潔になり、なまけものも正しく立派な志を立てるようになるのである」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、伯夷(はくい)(※)は目(め)に悪色(あくしょく)(※)を視(み)ず、耳(みみ)に悪声(あくせい)(※)を聴(き)かず。其(そ)の君(きみ)に非(あら)ざれば事(つか)えず。其(そ)の民(たみ)に非(あら)ざれば使(つか)わず。治(おさ)まれば則(すなわ)ち進(すす)み、乱(みだ)るれば則(すなわ)ち退(しりぞ)く。横政(おうせい)の出(い)づる所(ところ)、横民(おうみん)の止(とど)まる所(ところ)、居(お)るに忍(しの)びざるなり。郷人(きょうじん)と処(お)るを思(おも)うこと、朝衣(ちょうい)朝冠(ちょうかん)を以(もっ)て、塗炭(とたん)に坐(ざ)するが如(ごと)くなり、と。紂(ちゅう)の時(とき)に当(あ)たり、北海(ほっかい)の浜(ほとり)に居(お)り、以(もっ)て天下(てんか)の清(す)むを待(ま)てり。故(ゆえ)に伯夷(はくい)の風(ふう)を聞(き)く者(もの)は、頑夫(がんぷ)(※)も廉(れん)に、懦夫(だふ)(※)も志(こころざし)を立(た)つる有(あ)り。

(※)伯夷……公孫丑(上)第二章十、九章一・三、尽心(上)第二十三章参照。
(※)悪色……不正な色。なお、淫(みだ)らな美女と解する説もある。
(※)悪声……不正な声。なお、淫らな音楽と解する説もある。
(※)頑夫……欲深な人。なお、頑固な人と解する説もある。
(※)懦夫……なまけもの。

【原文】
孟子曰、伯夷目不視惡色、耳不聽惡聲、非其君不事、非其民不使、治則進、亂則退、横政之所出、横民之所止、不忍居也、思與郷人處、如以朝衣朝冠、坐於塗炭也、當紂之時、居北海之濱、以待天下之淸也、故聞伯夷之風者、頑夫廉、懦夫有立志。

 

1‐2 先覚者としての強い自覚(伊尹の生き方)


【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「伊尹は次のように言ったという。『どんな君に仕えたとしても、我が君である(どんな君に仕えてもかまわない)。どんな民を治めても、我が民である(どんな民を治めてもかまわない)』と。だから伊尹は世のなかがうまく治まっていても進んで仕え、たとえ世のなかが乱れていても、また進んで仕えて事にあたった。そしてこうも言った。『そもそも天がこの世に民を生じさせるにあたっては、先に物事の事実を知った者に、後から知る者を教えるようにさせ、先に物事の道理を知った者に、まだ道理を知らない者を教えるようにするものである。私は、こうした天が生んだ民のなかにおける先覚者である。すなわち私は、この道つまり堯舜の道を、民に教え導くために生まれてきた』と。こうして伊尹は、天下の民、名もなき人々のなかで、一人でも堯舜の恩沢を受けられない人がいたとするならば、自分がそういう人を溝のなかに落としたかのように(苦しみに落としたかのように)考えたのである。このように、伊尹は天下の重い責任を自分が背負っているように感じたのだ」。

【読み下し文】
伊尹(いいん)(※)は曰(いわ)く、何(いず)れに事(つか)うるとして君(きみ)に非(あら)ざらん、何(いず)れを使(つか)うとして民(たみ)に非(あら)ざらん、と。治(おさ)まるも亦(また)進(すす)み、乱(みだ)るるも亦(また)進(すす)む。曰(いわ)く、天(てん)の斯(こ)の民(たみ)を生(しょう)ずるや、先知(せんち)をして後(こう)知(ち)を覚(さと)さしめ、先覚(せんかく)をして後覚(こうかく)を覚(さと)さしむ。予(われ)は天民(てんみん)の先覚者(せんかくしゃ)なり。予(われ)将(まさ)に此(こ)の道(みち)を以(もっ)て此(こ)の民(たみ)を覚(さと)さんとするなり、と。天下(てんか)の民(たみ)、匹夫(ひっぷ)匹婦(ひっぷ)、堯舜(ぎょうしゅん)の沢(たく)を与被(よひ)せざる(※)者(もの)有(あ)るを思(おも)うこと、己(おのれ)推(お)して之(これ)を溝中(こうちゅう)に内(い)るるが若(ごと)し。其(そ)の自(みずか)ら任(にん)ずるに天下(てんか)の重(おも)きを以(もっ)てすればなり。

(※)伊尹……公孫丑(上)第二章十、万章(上)第六章三参照。本項は万章(上)第七章二に似た文章が出ている。
(※)与被せざる……受けられない。万章(上)第七章二では、「被」だけになっている。意味に違いはないと思われる。

【原文】
伊尹曰、何事非君、何使非民、治亦進、亂亦進、曰、天之生斯民也、使先知覺後知、使先覺覺後覺、予天民之先覺者也、予將以此衜覺此民也、思天下之民、匹夫匹婦、有不與被堯舜之澤者、若己推而內之溝中、其自任以天下之重也。

 

1‐3 あなたはあなた、私は私(柳下恵の生き方)


【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「柳下恵は、良くないとされた君でも仕えることを恥としなかった。また低い役職でも辞退しなかった。どんな場合でも、自分の才能を発揮することを惜しまず努力し、必ず自分の信じる道を行って志を曲げなかった。それで人に捨てられても怨まず、困窮しても心配することはなかった。田舎の俗人たちといても楽しそうであり、そこから去るのも忍びないようであった。そして、『あなたはあなた、私は私。私のそばで、(無作法に)服を脱いでも、裸になっても私を汚すことはできないのだ』と言った。だから、こうした柳下恵の生き方を聞く者は、どんなに心が狭く度量のない人も、(感化されて)心が寛大になり、どんなに軽薄な人も、(感化されて)思いやりのある人になるのである」。

【読み下し文】
柳下恵(りゅうかけい)(※)は、汙君(おくん)を羞(は)じず。小官(しょうかん)を辞(じ)せず。進(すす)んで賢(けん)を隠(かく)さず、必(かなら)ず其(そ)の道(みち)を以(もっ)てす。遺佚(いいつ)せられて怨(うら)みず、扼窮(やくきゅう)して憫(うれ)えず、郷人(きょうじん)と処(お)り、由由然(ゆうゆうぜん)として去(さ)るに忍(しの)びざるなり。爾(なんじ)は爾(なんじ)たり、我(われ)は我(われ)たり。我(わ)が側(かたわら)に袒裼(たんせき)裸裎(らてい)すと雖(いえど)も、爾(なんじ)焉(いずく)んぞ能(よ)く我(われ)を浼(けが)さんや、と。故(ゆえ)に柳下恵(りゅうかけい)の風(ふう)を聞(き)く者(もの)は、鄙夫(ひふ)(※)も寛(かん)に、薄夫(はくふ)(※)も敦(あつ)し。

(※)柳下恵……公孫丑(上)第九章二参照。本項とほぼ似たことが書かれている。
(※)鄙夫……心が狭い度量のない人。つまらない人。
(※)薄夫……軽薄な人。

【原文】
柳下惠、不羞汙君、不辭小官、進不隱賢、必以其衜、遺佚而不怨、阨窮而不憫、與鄕人處、由由然不忍去也、爾爲爾、我爲我、雖袒裼裸裎於我側、爾焉能浼我哉、故聞柳下惠之風者、鄙夫寛、薄夫敦。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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