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第137回

328話〜329話

2021.10.08更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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5‐1 礼物より礼儀を重んじる(自分の行動にしっかりとした根拠を持つ)

【現代語訳】
孟子が故郷の鄒にいたとき、(近くの国である任君の弟)季任が、兄に代わって任国の留守居役をしていたが、その季任が礼物を贈って交際を求めてきた。孟子は礼物を受けたが、答礼はしなかった。またあるとき、(斉の領内の)平陸にいたが、(斉の宰相であった)儲子が礼物を贈って交際を求めてきた。孟子はやはり礼物を受け取ったが、答礼はしなかった。その後、孟子は鄒から任に行ったとき、季子を訪問して答礼をした。しかし、平陸から斉の都に行っても儲子のところには訪問しなかった、(弟子の)屋蘆子は、先生に質問する種ができたと喜んで言った。「先生は任に行かれたときは、季子を訪問なさったのに、斉に行かれたときは、儲子を訪問されなかったのは、季子が国君の留守居役であるのに対し、儲子は単に宰相だったためですか」。孟子は答えた。「いや、そうではない。『書経』にこういうことが書いてある。『上の人に物をあげる享礼では、礼儀を手厚くすべきである(立派な礼物より礼儀を重んじるべきである)。礼儀が礼物に及ばないことを不享という。それは礼物に心がともなっていないからである』と。儲子の場合は、この享の礼が欠いていたからである」。これを聞いて屋蘆子は納得して喜んだ。ある人がこのことを屋蘆子に尋ねたので、屋蘆子は言った。「季子は国君の留守居役で孟子のいた鄒に行くことはできなかったが、儲子は平陸に行き出かけることができた。なのに行かなかったのは、礼に欠けるものであり、孟子は面会に行かなかったのである」。

【読み下し文】
孟子(もうし)鄒(すう)に居(お)る。季任(きじん)、任(じん)の処守(しょしゅ)(※)たり。幣(へい)(※)を以(もっ)て交(まじ)わる。之(これ)を受(う)けて報(ほう)ぜず(※)。平陸(へいりく)に処(お)る。儲子(ちょし)相(しょう)たり。幣(へい)を以(もっ)て交(まじ)(※)わる。之(これ)を受(う)けて報(ほう)ぜず。他日(たじつ)鄒(すう)より任(じん)に之(ゆ)き、季子(きし)を見(み)る。平陸(へいりく)より斉(せい)に之(ゆ)き、儲子(ちょし)を見(み)ず。屋蘆子(おくろし)喜(よろこ)びて曰(いわ)く、連(れん)(※)、間(かん)を得(え)たり(※)。問(と)うて曰(いわ)く、夫子(ふうし)任(じん)に之(ゆ)きて季子(きし)を見(み)、斉(せい)に之(ゆ)きて儲子(ちょし)を見(み)ざるは、其(そ)の相(しょう)たるが為(ため)か。曰(いわ)く、非(ひ)なり。書(しょ)に曰(いわ)く、享(きょう)は儀(ぎ)を多(おお)くす。儀(ぎ)、物(もの)に及(およ)ばざるを、不享(ふきょう)と曰(い)う。惟(こ)れ志(こころざし)を享(きょう)に役(えき)せざればなり。其(そ)の享(きょう)を成(な)さざる(※)が為(ため)なり、と。悦(よろこ)ぶ。或(ある)ひと之(これ)を問(と)う。屋蘆子(おくろし)曰(いわ)く、季子(きし)は鄒(すう)に之(ゆ)くことを得(え)ざるも、儲子(ちょし)は平陸(へいりく)に之(ゆ)くことを得(え)たりしなり。

(※)処守……留守居役。
(※)幣……礼物。
(※)報ぜず……答礼をしない。
(※)交……交際を求める。
(※)閒を得たり……質問する種ができる。これに対して朱子は、質問する機会を得たとする。
(※)連……屋蘆子の名。
(※)享を成さざる……享の礼が欠けていた。孟子の話は、吉田松陰の「君子(くんし)は何事(なにごと)に臨(のぞ)みても、理(り)に合(あ)うか合(あ)わぬかを考(かんが)えて、然(しか)る後(のち)是(これ)を行(おこな)う」(『講孟箚記』)と見ることもできる。一方では、〝へりくつ〟がとてもうまい人と批判的に言うこともできる(季子にも、すぐに答礼したのではないから)。

【原文】
孟子居鄒、季任、爲任處守、以幤交、受之而不報、處於平陸、儲子爲相、以幤交、受之而不報、他日由鄒之任、見季子、由平陸之齊、不見儲子、屋廬子喜曰、連得閒矣、問曰、夫子之任見季子、之齊不見儲子、爲其爲相與、曰、非也、書曰、享多儀、儀、不及物、曰不享、惟不役志于享、爲其不成享也、屋廬子悅、或問之、屋廬子曰、季子不得之鄒、儲子得之平陸。

6‐1 目指すは同じ仁でもやり方はそれぞれある

【現代語訳】
(斉の弁士)淳于髠は言った。「名誉、功績を第一と考える人は、人のためになることをしようとします。これに対し、名誉、功績を後まわしに考える人は、自分の修養を考えている人です。先生は三卿の一人でありながら、名誉、功績も上がらず、上(かみ)は君を正しくできず、下(しも)は民を救うこともできないのに斉を去られます。仁者とは、元来そんなものですか」。孟子は言った。「低い地位にいて、それに満足し、自分の賢をもって不肖な人に仕えなかったのが伯夷である。五たび殷の湯王に就いたり、また五たび夏の桀王について、民を救おうとしたのは伊尹である。汚れた君でも憎まず、地位の低い小官であっても辞退せずに、とにかく世の人と調和していこうとしたのが柳下恵である。この三人のやり方は違っているが、その帰着するところは一つである」。淳于髠は聞いた。「その一つとは何ですか」。孟子は答えた。「それは仁である。君子たる者もこの三人のように、仁だけを目標とするのである。必ずしも同じ行動、やり方である必要はないのである」。

【読み下し文】
淳于髠(じゅんうこん)(※)曰(いわ)く、名実(めいじつ)(※)を先(さき)にする者(もの)(※)は人(ひと)の為(ため)にするなり。名実(めいじつ)を後(のち)にする者(もの)は自(みずか)らの為(ため)にするなり(※)。夫子(ふうし)、三卿(さんけい)(※)の中(うち)に在(あ)りて、名実(めいじつ)未(いま)だ上下(じょうげ)に加(くわ)わらずして之(これ)を去(さ)る。仁者(じんしゃ)は固(もと)より此(かく)の如(ごと)きか。孟子(もうし)曰(いわ)く、下位(かい)に居(お)り、賢(けん)を以(もっ)て不肖(ふしょう)に事(つか)えざる者(もの)は、伯夷(はくい)なり。五(ご)たび湯(とう)に就(つ)き、五(ご)たび桀(けつ)に就(つ)く者(もの)は、伊尹(いいん)なり。汙君(おくん)を悪(にく)まず、小官(しょうかん)を辞(じ)せざる者(もの)は柳下恵(りゅうかけい)なり。三子者(さんししゃ)は道(みち)を同(おな)じうせざれども、其(そ)の趨(すう)(※)は一(いつ)なり。一(いつ)とは何(なん)ぞや。曰(いわ)く、仁(じん)なり。君子(くんし)も亦(また)仁(じん)のみ。何(なん)ぞ必(かなら)ずしも同(おな)じからん。

(※)淳于髠……離婁(上)第十七章参照。
(※)名実……名誉、功績。
(※)先にする者……第一と考える人。
(※)自らの為にするなり……自分の修養を考えている。これに対し、自分の保身を考えていると解する説もある。ここでは前説を採ったが、『論語』の「古(いにしえ)の学者(がくしゃ)は己(おのれ)の為(ため)にす」(憲問第十四)を参考にした。
(※)三卿……よく内容はわからない。孟子が斉のいわゆる客卿であったことは、すでにあった。おそらくこのことであろう。
(※)趨……帰着するところ。

【原文】
淳于髠曰、先名實者爲人也、後名實者自爲也、夫子、在三卿之中、名實未加於上下而去之、仁者固如此乎、孟子曰、居下位、不以賢事不肖者、伯夷也、五就湯、五就桀者、伊尹也、不惡汙君、不辭小官者、柳下惠也、三子者不同道、其趨一也、一者何也、曰、仁也、君子亦仁而已矣、何必同。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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