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第93回

226〜228話

2021.08.04更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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19‐1 仁義の有無が鳥、けものと人間の異なる点である


【現代語訳】
孟子は言った。「人が禽獣(鳥、けもの)と違っている点は、ごくわずかである(仁義があるか、ないかの違いである)。一般の人は、そのわずかな差も捨て去りがちだが、君子は仁義をいつも失わないようにする。聖人の舜は、万物の道理を明らかにして、人倫すなわち人の道がどうであるかをよくわかっていた。舜のすべての行いは、仁義の心から自然に出てくるものであり、仁義が良さそうだからやってみる(手段として用いる)、というものではなかった」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、人(ひと)の禽獣(きんじゅう)に異(こと)なる所以(ゆえん)の者(もの)は幾(ほとん)ど希(まれ)なり。庶民(しょみん)は之(これ)を去(さ)り、君子(くんし)は之(これ)を存(そん)す。舜(しゅん)は庶物(しょぶつ)(※)を明(あき)らかにし、人倫(じんりん)を察(さっ)す(※)。仁(じん)義(ぎ)に由(よ)りて行(おこな)う、仁義(じんぎ)を行(おこな)うに非(あら)ざるなり。

(※)庶物……世の中の道理。あらゆる事物(万物)の道理。
(※)察す……よくわかる。心のなかでよく考えて検討し、理解する。「つまび(らかにして)」と読む人もいる。なお、離婁(上)第十五章の注釈で引用した『論語』の為政第二にも「察」という言葉が使ってあった。『孫子』の有名な書き出しでも使われているのはすでに紹介した。すなわち「孫子(そんし)曰(いわ)く、兵(へい)は国(くに)の大事(だいじ)なり、死生(しせい)の地(ち)、存亡(そんぼう)の道(みち)、察(さっ)せざるべからざるなり」(計篇)である。なお、「舜」以下を別章に立てる説もある(伊藤仁斎など)。

【原文】
孟子曰、人之所以異於禽獸者幾希、庶民去之、君子存之、舜明於庶物、察於人倫、由仁義行、非行仁義也。

 

20‐1 旨酒を憎んで善言を好む


【現代語訳】
孟子は言った。「(舜のあとを継いだ夏の)禹王は、旨い酒を憎み、善言を好んだという(旨い酒は身をそこない、国を亡ぼすことも起こす恐いものであるが、善言は身を起こし、国を良くしていくものであるため)。(夏に代わった殷の)湯王は、中庸の徳を実践し、賢人を、どこからでも、身分や順序など問わずに登用した。(殷の後に周を興こした)文王は、民を見ること傷ついた人をいたわるようであり、正しい道を行うことを望むのは、いまだ見ぬものを、なんとか見ようと乞い願うかのようだった。(暴政を行う殷の紂王を倒した周の)武王は、近親者だからといってなれて粗略に扱うことはせず、縁遠い人だからといって忘れて放っておくようなことはしなかった。(武王の弟であり、武王の子成王をうまく補佐した)周公は、以上三代の王(夏・殷・周の王)の良きところをすべて兼ね合わせて、四人の王(禹・湯・文・武)がなしたことを、今の自分もやろうと思った。そして、その四人の王が行ったことのなかに、今の時代と合わないことがあるときは、どうして合わせていくべきかを、天を仰いで思案をこらし、夜になっても考え通した。幸いにして良い考えを思いつくと、早くもそれを実行しようと、寝ないで座ったままでいて、夜が明けるのを待ったほどである」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、禹(う)は、旨酒(ししゅ)(※)を悪(にく)んで、善言(ぜんげん)を好(この)む。湯(とう)は、中(ちゅう)を執(と)り、賢(けん)を立(た)つること方(ほう)無(な)し(※)。文王(ぶんおう)は、民(たみ)を視(み)ること傷(きず)つけるが如(ごと)く、道(みち)を望(のぞ)むこと未(いま)だ之(これ)を見(み)ざるが而(ごと)し。武王(ぶおう)は、邇(ちか)きに泄(な)れず、遠(とお)きを忘(わす)れず。周公(しゅうこう)(※)は、三王(さんおう)(※)を兼(か)ね、以(もっ)て四事(しじ)を施(ほどこ)さんことを思(おも)う。其(そ)の合(がっ)せざる者(もの)有(あ)れば、仰(あお)いで之(これ)を思(おも)い、夜(よる)以(もっ)て日(ひ)に継(つ)ぐ。幸(さいわ)いにして之(これ)を得(う)れば、坐(ざ)して以(もっ)て旦(たん)を待(ま)つ。

(※)旨酒……旨い酒。美酒。周の安王から秦の始皇帝にいたるまでの約二百五十年間の「国策」「国事」などを記した『戦国策』に、禹の言葉として「後世(こうせい)必(かなら)ず酒(さけ)を以(もっ)て其(そ)の国(くに)を亡(ほろ)ぼす者(もの)有(あ)らん」というのがある。確かに、殷の紂王が「酒池肉林」(『史記』)で国を滅ぼした。
(※)方無し……どこからでも、身分や順序など問わず。一般には朱子の説明を採り、「身分の貴賤親疎の種類を問わない」と解されている。
(※)周公……周公旦。文王の子、武王の弟。孔子が理想とした人。『論語』でも周公についての、いくつか有名な箇所がある。例えば、「子(し)曰(いわ)く、甚(はなはだ)しいかな。吾(わ)が衰(おとろ)うや。久(ひさ)しいかな、吾(わ)れ復(ま)た夢(ゆめ)に周公(しゅうこう)を見(み)ず」(述而第七)や「子(し)曰(いわ)く、如(も)し周公(しゅうこう)の才(さい)の美(び)有(あ)るも、驕(おご)り且(か)つ吝(やぶさ)かならしめば、其(そ)の余(よ)は観(み)るに足(た)らざるなり」(泰伯第八)などである。
(※)三王……夏・殷・周の三代の王(夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王)のこと。

【原文】
孟子曰、禹、惡旨酒、而好善言、湯、執中立賢無方、文王、視民如傷、望衜而未之見、武王、不泄邇、不忘遠、周公、思兼三王、以施四事、其有不合者、仰而思之、夜以繼日、幸而得之、坐以待旦。

 

21‐1 『春秋』は孔子の大義名分


【現代語訳】
孟子は言った。「(周が盛んなころは王者が諸国を巡狩して、その際に諸国の詩をとり集めて、民情をよく見ていたが)、周が衰えて王者の巡狩もなくなり、諸国の詩を取り集めて民情を見ることもなくなってしまった。このままではまずいと考えた孔子は、『春秋』をつくられた。晋では『乗』、楚では『檮杌』、魯では『春秋』と呼ばれるこれらの書は、いずれも歴史のことを書いたものである。そして、孔子のつくった『春秋』は、主として斉の桓公、晋の文公のことが書かれている。『春秋』の文章は魯の史官が記載したが、孔子はそれに正しい道を示す立場からの筆を加えている(意味を加えている)のだ。孔子は言った。『そこにある大義名分については、私、丘が(自らが)、密かに手を加えたものである』と」。

【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、王者(おうじゃ)の迹(あと)熄(や)んで詩(し)亡(ほろ)ぶ。詩(し)亡(ほろ)びて、然(しか)る後(のち)春秋(しゅんじゅう)作(おこ)る。晋(しん)の乗(じょう)、楚(そ)の檮杌(とうこつ)、魯(ろ)の春秋(しゅんじゅう)は、一(いつ)なり。其(そ)の事(こと)は則(すなわ)ち斉桓(せいかん)・晋文(しんぶん)。其(そ)の文(ぶん)は則(すなわ)ち史(し)(※)。孔子(こうし)曰(いわ)く、其(そ)の義(ぎ)(※)は則(すなわ)ち丘(きゅう)窃(ひそ)かに之(これ)を取(と)れり、と。

(※)史……記録をつかさどる史官。
(※)義……ここでは、大義名分を指す。なお、後の世の『春秋』の研究は、ここの孟子の説により、孔子が言う大義は何であるかについてのものが主たるテーマとされた。

【原文】
孟子曰、王者之迹熄而詩亡、詩亡、然後春秋作、晉之乘、楚之檮杌、魯之春秋、一也、其事則齊桓・晉文、其文則史、孔子曰、其義則丘竊取之矣。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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