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第108回

262〜264話

2021.08.26更新

読了時間

  「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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8‐1 人の進退には天命がある


【現代語訳】
万章が問うて言った。「ある人が言っています。『孔子は衛の国では(君主お気に入りの)腫物(しゅぶつ)医者のところに泊まり(身を寄せ)、斉の国では(君主お気に入りの宦官(かんがん))瘠環のところで泊まった(身を寄せた)』と。これは本当ですか」。孟子は答えた。「いや、そんなことはない。物好きな人間のつくり話だ。孔子は衛においては、賢大夫の顔讐由の家に泊まった(身を寄せた)。(衛の霊公の寵臣であった)弥子の妻は、(孔子の高弟であった)子路の妻と姉妹であった。弥子は子路に言ったという。『孔子が私の家に泊まると(身を寄せてくだされて自分を頼ってくれれば)、衛の卿の大臣に推薦できますのに』と。子路はこの言葉を孔子に伝えたところ、孔子は言った。『人間には、天命があるのだ』と。このように、孔子は進んで仕えるにも礼にはずれないようにし、退いて去るにも義からはずれないようにした。だから、地位を得るとか得ないとか、そういうことについては、天命があるのだとされたのである。このことからわかるように、もし腫物医者のところや瘠環の家に泊まり(身を寄せ)、仕官への手がかりを得ようとしたならば、それは義もなく、天命もないことになる。だからありえないことなのだ」。

【読み下し文】
万章(ばんしょう)問(と)うて曰(いわ)く、或(ある)ひと謂(い)う。孔子(こうし)衛(えい)に於(お)いては廱疽(ようしょ)(※)を主(しゅ)(※)とし、斉(せい)に於(お)いては侍人(じじん)(※)瘠環(せきかん)を主(しゅ)とす、と。諸(これ)有(あ)りや。孟子(もうし)曰(いわ)く、否(いな)、然(しか)らざるなり。事(こと)を好(この)む者(もの)(※)之(これ)を為(な)すなり。衛(えい)に於(お)いては顔讐由(がんしゅうゆう)を主(しゅ)とせり。弥子(びし)(※)の妻(つま)は、子路(しろ)の妻(つま)と兄弟(けいてい)(※)なり。弥子(びし)、子路(しろ)に謂(い)いて曰(いわ)く、孔子(こうし)我(われ)を主(しゅ)とせば、衛(えい)の卿(けい)得(う)べきなり、と。子路(しろ)以(もっ)て告(つ)ぐ。孔子(こうし)曰(いわ)く、命(めい)有(あ)り、と。孔子(こうし)は進(すす)むに礼(れい)を以(もっ)てし、退(しりぞ)くに義(ぎ)を以(もっ)てす。之(これ)を得(う)ると得(え)ざるとは、命(めい)有(あ)りと曰(い)う。而(しか)るに廱疽(ようしょ)と侍人(じじんせ)瘠環(きかん)とを主(しゅ)とせば、是(こ)れ義(ぎ)無(な)く命(めい)無(な)きなり。

(※)廱疽……腫物医者。「廱」も「疽」も腫物(はれもの)の意。ここから転じて腫物医者とされている。これに対して人名であるという説もある。
(※)主……主人公としてその家に泊まること。その家の客となって泊まること。身を寄せること。
(※)侍人……宦官。宦官とは「昔、東洋諸国、特に中国で、後宮に仕えた去勢された男の役人」である(『岩波国語辞典』岩波書店)。日本以外の東アジアや西欧でもあった。有名な人では司馬遷や鄭和などがいる。君主に寵愛を得て、大きな権力を握った人もあった。ここでの瘠環もそうであったようだ。
(※)事を好む者……物好きな人間。
(※)弥子……衛の霊公の寵臣弥子瑕。
(※)兄弟……ここでは姉妹のこと。現代の日本でも姉妹や男と姉、妹のことを兄弟と言うことがある。

【原文】
萬章問曰、或謂、孔子於衞主癰疽、於齊主待人瘠環、有諸乎、孟子曰、否、不然也、好事者爲之也、於衞主顏讎由、彌子之妻、與子路之妻兄弟也、彌子、謂子路曰、孔子主我、衞卿可得也、子路以吿、孔子曰、有命、孔子進以禮、退以義、得之不得、曰有命、而主癰疽與侍人瘠環、是無義無命也。

 

8‐2 人は付き合う人を見ればその人がわかる


【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「孔子は、魯や衛の国でその意見は用いられず歓迎されなかった。そこで宋に向かったが、宋の司馬であった桓魋が途中で待ち伏せをして孔子を殺そうとする危難に遭遇した。そこで孔子は賤しい者の服に変装して宋を通り過ぎた。このとき孔子はひどい災難にぶつかったのである。(こういう災難のときでも孔子は、泊まるべきところはちゃんと選び、当時賢者として名高くて)陳周公の臣下となっていた司城貞子の家に身を寄せられた。私は、前からこのように聞いている。『朝廷に仕えている王の近臣の人物を観るには(人物の中身を判断するには)、その者が自分の家に泊める人物がどんな人かを観ればわかるし、遠方から仕官してくる者の人物がどんな人かを観るには、その人が身を寄せている人がどんな人物かを観ればわかる』と。もし孔子が、本当に腫物医者の家や宦官の瘠環の家に身を寄せることがあったとしたら、どこに孔子の価値があろうか(ありはしない)」。

【読み下し文】
孔子(こうし)魯(ろ)・衛(えい)に悦(よろこ)ばれず。宋(そう)の桓司馬(かんしば)(※)が将(まさ)に要(よう)し(※)て之(これ)を殺(ころ)さんとするに遭(あ)い、微服(びふく)(※)して宋(そう)を過(す)ぐ。是(こ)の時(とき)孔子(こうし)扼(やく)に当(あ)たれり。司城(しじょう)貞子(ていし)が陳侯周(ちんこうしゅう)の臣(しん)と為(な)れるを主(しゅ)とせり。吾(わ)れ聞(き)く、近臣(きんしん)を観(み)るには、其(そ)の主(しゅ)と為(な)る所(ところ)を以(もっ)てし、遠臣(えんしん)を観(み)るには、其(そ)の主(しゅ)とする所(ところ)を以(もっ)てす、と。若(も)し孔子(こうし)にして癰疽(ようしょ)と侍人(じじん)瘠環(せきかん)とを主(しゅ)とせば、何(なに)を以(もっ)て孔子(こうし)と為(な)さんや。

(※)司馬……軍務を司る官。ここの司馬は桓魋(かんたい)のことを言っているとされている。なお、『論語』にはこうある。「子(し)曰(いわ)く、天(てん)、徳(とく)を予(われ)に生(しょう)ぜしならば、桓魋(かんたい)、其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん」(述而第七)。
(※)要する……ここでは途中で待ち伏せをする。
(※)微服……賤しい者の服に変装すること。

【原文】
孔子不悅於魯・衞、遭宋桓司馬將要而殺之、微服而過宋、是時孔子當阨、主司城貞子爲陳候周臣、吾聞、觀近臣、以其所爲主、觀遠臣、以其所主、若孔子主癰疽與侍人瘠環、何以爲孔子。

 

9‐1 人の話を検証せずに信じてはいけない


【現代語訳】
万章が問うて言った。「ある人がこう言っています。『百里奚は、秦のいけにえの牛を飼育している者に、わずか羊の皮五枚で身を売り、(その者のために)牛飼いをしながら、秦の繆公に仕官する機会を求めた』と。これは本当のことでしょうか」。孟子は答えた。「いや、そうではない。それは物好きな人間のつくり話である。百里奚は虞の国の人であった。あるとき、晋国から垂棘の地で産出する玉と、屈の地で産出される良馬を贈り物にするから、(隣国の)虢の国を討つために、虞の国内を軍隊が通過することを認めてほしいと申し出てきたことがあった。そのとき賢人の宮之奇は虞の君を諫めたが、百里奚は諫めなかった。なぜなら虞公は諫めても思いとどまることはないということが、わかっていたからである。だから百里奚は国を去って秦に行ったのである。このときすでに彼は七十歳となっていた。(そんな年齢だというのに)もし、百里奚がまだ、いけにえの牛を飼いながら、秦の繆公に仕官する機会を求めることを恥と知らなかったようであれば、智のある者とはいえないだろう。だが、百里奚は、虞公を諫めても無駄であると知って諫めなかったのだから、彼は決して愚者ではない。そしてたまたま秦に登用されると、繆公がともに事を行うに足る人物だと知って、その宰相となったのは不智とはいえないだろう。秦の宰相となり、君を天下に有名にし、後世までその業績が伝わるようにするということは、不賢者にできることであろうか(できやしない)。自分から(牛飼いの奴隷として)身を売って、その君に用いられ、君の仕事を成させるなどということは、田舎の村で名声を好む者でさえしないことだ。そんなことを賢者たる百里奚がするわけがなかろう」。

【読み下し文】
万章(ばんしょう)問(と)うて曰(いわ)く、或(ある)ひと曰(いわ)く、百里奚(ひゃくりけい)(※)は自(みずか)ら秦(しん)の牲(せい)(※)を養(やしな)う者(もの)に五羊(ごよう)の皮(かわ)に鬻(ひさ)ぎ(※)、牛(うし)を食(やしな)いて以(もっ)て秦(しん)の繆公(ぼくこう)(穆公)に要(もと)む、と。信(しん)なるか。孟子(もうし)曰(いわ)く、否(いな)、然(しか)らず。事(こと)を好(この)む者之(ものこれ)を為(な)すなり。百里奚(ひゃくりけい)は虞(ぐ)の人(ひと)なり。晋人(しんひと)垂棘(すいきょく)の璧(へき)と屈産(くつさん)の乗(じょう)とを以(もっ)て、道(みち)を虞(ぐ)に仮(か)り以(もっ)て虢(かく)を伐(う)つ。宮之奇(きゅうしき)は諫(いさ)め、百里奚(ひゃくりけい)は諫(いさ)めず。虞公(ぐこう)の諫(いさ)むべからざるを知(し)りて、去(さ)りて秦(しん)に之(ゆ)く。年(とし)已(すで)に七十(しちじゅう)なり。曾(すなわ)ち牛(うし)を食(やしな)うを以(もっ)て秦(しん)の繆公(ぼくこう)に干(もと)むるの汙(お)(※)たるを知(し)らざるや、智(ち)と謂(い)うべけんや。諫(いさ)むべからずして諫(いさ)めざるは、不智(ふち)と謂(い)うべけんや。虞公(ぐこう)の将(まさ)に亡(ほろ)びんとするを知(し)りて先(ま)ず之(これ)を去(さ)るは、不智(ふち)と謂(い)うべからざるなり。時(とき)に秦(しん)に挙(あ)げられ、繆公(ぼくこう)の与(とも)に行(おこな)う有(あ)るべきを知(し)るや之(これ)に相(しょう)たるは、不智(ふち)と謂(い)うべけんや。秦(しん)に相(しょう)として其(そ)の君(きみ)を天下(てんか)に顕(あらわ)し、後(こう)世(せい)に伝(つた)うべくするは、不賢(ふけん)にして之(これ)を能(よ)くせんや。自(みずか)ら鬻(ひさ)ぎて以(もっ)て其(そ)の君(きみ)を成(な)すは、郷党(きょうとう)の自(みずか)ら好(こう)する者(もの)も為(な)さず。而(しか)るを賢者(けんしゃ)にして之(これ)を為(な)すと謂(い)わんや。

(※)百里奚……百里は氏、奚は名。虞の人。秦の宰相。なお、『日本語大辞典』(小学館)によると、「楚に捕われていたとき、秦の繆公がその賢を聞き、羖羊(こよう)(黒い牡羊)の皮五枚で買い、宰相とした。百里奚はこれに応え、のちに繆公を春秋五覇の一人とした」とある。本章での孟子の説明だと、百里奚は虞王に諫言することもなく、秦に去ったという。これは、前に述べた(離婁(下)第四章参照)儒教の個人主義的論理からは肯定されている。しかし、日本的武士道は、素直には受け入れがたいところであったと思われる。ただし、吉田松陰はこれに対しては、何も述べていない。
(※)牲……牲は犠牲。いけにえのことを指す。
(※)鬻ぎ……身を売り。
(※)汙……ここでは恥。「汙」は「汚」と同じ。

【原文】
萬章問曰、或曰、百里奚自鬻於秦養牲者五羊之皮、食牛以要秦繆公、信乎、孟子曰、否、不然、好事者爲之也、百里奚虞人也、晉人以垂棘之璧與屈産之乘、假道於虞以伐虢、宮之奇諫、百里奚不諫、知虞公之不可諫、而去之秦、年已七十矣、曾不知以食牛干秦繆公之爲汙也、可謂智乎、不可諫而不諫、可謂不智乎、知虞公之將亡而先去之、不可謂不智也、時擧於秦、知繆公之可與有行也而相之、可謂不智乎、相秦而顯其君於天下、可傳於後世、不賢而能之乎、自鬻以成其君、郷黨自好者不爲、而謂賢者爲之乎。


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著者

野中 根太郎

早稲田大学卒。海外ビジネスに携わった後、翻訳や出版企画に関わる。海外に進出し、日本および日本人が外国人から尊敬され、その文化が絶賛されているという実感を得たことをきっかけに、日本人に影響を与えつづけてきた古典の研究を更に深掘りし、出版企画を行うようになる。近年では古典を題材にした著作の企画・プロデュースを手がけ、様々な著者とタイアップして数々のベストセラーを世に送り出している。著書に『超訳 孫子の兵法』『吉田松陰の名言100-変わる力 変える力のつくり方』(共にアイバス出版)、『真田幸村 逆転の決断術─相手の心を動かす「義」の思考方法』『全文完全対照版 論語コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 孫子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 老子コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』『全文完全対照版 菜根譚コンプリート 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文』(以上、誠文堂新光社)などがある。

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