第32回
76〜77話
2021.05.10更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
「目次」はこちら
2‐4 志に気は従うものだが気も養っておく必要がある
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。公孫丑は、さらに聞いた。「ぜひともお尋ねしたいのですが、先生の心を動揺させないこと(不動心)と、告子の心を動揺させないことは、どう違うのか、お話してくださいませんか」。孟子は言った。「告子は、人の言葉が理解できないことがあっても、無理に自分の心で理解しようとしてはいけない。心で理解できなくても、それを自分の気にまで及ぼしていらだたせたり、ついに心まで乱すようなことがあってはならないと言っている。後者の『心で理解できなかったら、それを気にまで及ぼさない』というのはいいが、前者の『言葉が理解できなかったら、無理に自分の心で理解しようとしてはいけない』というのは良くない。そもそも、人の持っている志というのは、人の気を率いていくものである。気というのは、人の体に充満しているものである。だから志が至るところに、気は従うものなのである。それゆえ、志は堅持するべきだし、その気を乱暴に扱うようなことがあってはならないと言っているのだ」。すると公孫丑は質問した。「さきほど先生は、志が至るところに、気は従うものである、とおっしゃったのですが、そのうえに志を堅持して、その気を乱暴に扱うことがあってはならないとはどういうことでしょうか(志に気は従うのだから、志を堅持していれば気を乱暴に扱うことにはならないのではないか)」。孟子は答えた。「志が一つのことに向けられていると、気もそれに従っていくものである。また逆に、気が一つのことでいっぱいのときは、気が志を動かすこともあり得るのだ(だから用心をし、乱暴に扱うことはいけない)。例えば、歩いてつまずくと、その拍子に、二、三歩走ってしまうのは気のはたらきのせいである。だから気を養って大事にしていないと、気によって心が動揺してしまうこともあり得るのである」。
【読み下し文】
曰(いわ)く、敢(あえ)て問(と)う、夫子(ふうし)の心(こころ)を動(うご)かさざると、告子(こくし)の心(こころ)を動(うご)かさざると、聞(き)くことを得(う)べきか。告子(こくし)は曰(いわ)く、言(げん)に得(え)ざれば(※)、心(こころ)に求(もと)むる(※)こと勿(な)かれ。心(こころ)に得(え)ざれば、気(き)に求(もと)むる(※)こと勿(な)かれ、と。心(こころ)に得(え)ざれば、気(き)に求(もと)むること勿(な)かれとは、可(か)なり。言(げん)に得(え)ざれば、心(こころ)に求(もと)むる勿(な)かれとは、不可(ふか)なり。夫(そ)れ志(こころざし)は、気(き)の師(すい)なり。気(き)は体(たい)の充(じゅう)なり。夫(そ)れ志(こころざし)至(いた)り、気(き)次(つ)ぐ。故(ゆえ)に曰(いわ)く、其(そ)の志(こころざし)を持(じ)し、其(そ)の気(き)を暴(ぼう)する(※)こと無(な)かれ。既(すで)に志(こころざし)至(いた)り、気(き)次(つ)ぐと曰(い)い、又(また)其(そ)の志(こころざし)を持(じ)し、其(そ)の気(き)を暴(ぼう)すること無(な)かれと曰(い)う者(もの)は、何(なん)ぞや。曰(いわ)く、志(こころざし)壱(もっぱ)らなれば則(すなわ)ち気(き)を動(うご)かし、気(き)壱(もっぱ)らなれば則(すなわ)ち志(こころざし)を動(うご)かせばなり。今(いま)夫(そ)れ蹶(つまず)く者(もの)の趨(はし)るは、、是(こ)れ気(き)なり。而(しか)して反(かえ)って其(そ)の心(こころ)を動(うご)かす(※)。
(※)言に得ざれば……人の言葉が、理解できなければ。自分の言葉が理解できなければ、とする説もある。
(※)心に求むる……自分の心で理解する。本心の善悪を詮索すると解する場合もある。
(※)気に求むる……気にまで及ぼして、気をいらだたせる。
(※)気を暴する……気を乱暴に扱う。
(※)反って其の心を動かす……気を養って大事にしていないと心が動揺してしまう。なお、幕末の志士たちを描いた映画やテレビでは、昔「浩然の気を養いに行く」と唱して(都合良く言い合って)、色街などに出かける姿が見られた。昭和三十年代までもよく使われる言葉であった。その意味が子どもの私にはよくわからなかったが、この孟子の一文でよく理解できた。「浩然の気」は次の項に出てくるように孟子の言葉で「お金にも、権力にも、異性の色気にも負けない」ような、決して動揺することのない、先に孟子が述べた「千万人といえども我ゆかん」のような強くて大きな気のことである。たとえ志がしっかりしていても、気を乱暴に扱っていると、例えば、ハニートラップにかかったりして、志や心までが影響を受けてしまうことがある。だから「浩然の気を養いに行く」のであった。なるほど、うまい言い方で自己正当化していたものだ。ただ、今も行われている中国のハニートラップ戦術に、日本も何らかの対策をするのは急務であろう。孟子が教えるように、せっかくの志も気の迷いで危険にさらされることがある。
【原文】
曰、敢問、夫子之不動心、與告子之不動心、可得聞與、告子曰、不得於言、勿求於心、不得於心、勿求於氣、不得於心、勿求於氣、可、不得於言、勿求於心、不可、夫志氣之帥也、氣體之充也、夫志至焉、氣次焉、故曰、持其志、無暴其氣、旣曰志至焉、氣次焉、又曰持其志、無暴其氣者、何也、曰、志壹則動氣、氣壹則動志也、今夫蹶者趨者、是氣也、而反動其心。
2‐5 浩然の気
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。公孫丑は聞いた。「失礼ながら聞きたいのですが、先生はどういう点で告子に優っているのでしょうか」。孟子は答えた。「私は、よく人の言葉を理解するし、よく浩然の気を養っている」。公孫丑は、さらに聞いた。「また、しいて教えていただきたいのですが、浩然の気とはどういうものですか」。孟子は言った。「説明は難しい。その気というのは、このうえなく大きく、このうえなく剛(つよ)くて、正しい道でもって養い、害することがなければ、広大な天地の間に満ちるようになっていく。この気は、義と道に配合されるものであって、義と道がなければ気は飢えてしまい、しぼんでいく。つまり、この気は、たくさんの義が集積することによって生じるもので、外にある義がちょっとやってくることで、できるようなものではない。自分の行いにやましいことがあれば、この気はすぐに飢えてしまう(だから告子の『恐れて心を乱すことをしない』という行いでは気を養うことはできないのだ)。これゆえ私は言うのだ。『告子は、いまだかつて義というものを知らない』と。なぜなら彼は義というものを、心のなかにあると思わず、心の外にあるものとしているからだ」。
【読み下し文】
敢(あえ)て問(と)う、夫子(ふうし)悪(いずく)にか長(ちょう)ぜる。曰(いわ)く、我(われ)言(げん)を知(し)る(※)。我(われ)善(よ)く吾(わ)が浩然(こうぜん)の気(き)(※)を養(やしな)う。敢(あえ)て問(と)う、何(なに)をか浩然(こうぜん)の気(き)と謂(い)う。曰(いわ)く、言(い)い難(がた)し(※)。其(そ)の気(き)たるや、至大至剛(しだいしごう)、直(ちょく)を以(もっ)て養(やしの)うて害(がい)すること無(な)ければ、則(すなわ)ち天地(てんち)の間(あいだ)に塞(ふさ)がる。其(そ)の気(き)たるや、義(ぎ)と道(みち)とに配(はい)す。是(これ)無(な)ければ餒(う)う。是(こ)れ集義(しゅうぎ)の生(しょう)ずる所(ところ)の者(もの)にして、義(ぎ)襲(おそ)うて之(これ)を取(と)るに非(あら)ざるなり(※)。行(おこな)い心(こころ)に慊(ここよろ)からざること有(あ)れば、則(すなわ)ち餒(う)う。我(われ)故(ゆえ)に曰(いわ)く、告子(こくし)は未(いま)だ嘗(かつ)て義(ぎ)を知(し)らず、と。其(そ)の之(これ)を外(そと)にするを以(もっ)てなり。
(※)言を知る……人の言葉を理解する。なお、『論語』の最終話には、「言(げん)を知(し)らざれば、以(もっ)て人(ひと)を知(し)る無(な)きなり」、とある。
(※)浩然の気……本項で孟子が説く気。短く要約してみると「道義をもととして何事にも屈しない気、であり、その気が非常に盛んな精気となって天地の間に満ち満ちているほどになっていることをいう」となろう(あくまでも要約である)。なお、南宋の文天祥はこの孟子の「浩然の気」から、「正気」という考え方を述べる。「正気」については拙著『全文完全対照版 菜根譚コンプリート』前集三十七章の注釈を、「浩然の気」については同後集三十八章と七十六章の注釈参照。
(※)曰く、言い難し……説明は難しい。「曰く、言い難きなり」とも読む。この「曰く、言い難し」は、有名な成句ともなっている。一般には、「簡単には説明しにくいと言うほかならないの意」とされる(『故事ことわざの辞典』小学館)。
(※)義襲うて之を取るに非ざるなり……外にある義がちょっとやってきて、できるようなものではない。本文の「義」の字を省く人もある。そうすると、「外から取ってきた借り物ではない」などと訳することになる
【原文】
敢問、夫子惡乎長、曰、我知言、我善養吾浩然之氣、敢問、何謂浩然之氣、曰、難言也、其爲氣也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之間、其爲氣也、配義與道、無是餒也、是集義所生者、非義襲而取之也、行有不慊於心、則餒矣、我故曰、告子未嘗知義、以其外之也。
感想を書く