第35回
84〜85話
2021.05.13更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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2‐12 孔子のすばらしさ
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。(公孫丑は)聞いた。「しいてその異なるところを伺いたいものです」。孟子は答えた。「孔子の弟子である宰我、子貢、有若は、その智によって聖人を知ることができる人たちである。人物としては聖人たちより多少劣っているが、好きな人物(尊敬する師)に対してお世辞を使うようなことはしない。その宰我は言った。『私から先生(孔子)を見れば、昔の聖王とされた堯・舜にもはるかにまさっておられる』と。また、子貢は言った。『その人が定めた礼を見れば、その人の行った政治がわかるし、その人が残した音楽を聞けば、その人の徳がどんなものだったかがわかる。百代の後から百代前の王者を比較してみても間違えることはない。(孔子が残した礼楽には、孔子がどれだけすばらしい人物であったかが示されている)ゆえに、人が生まれて以来、孔子のような人物はいないことがわかる』と。さらに有若は言った。『およそ同類といっても、大きな差があるのは人間ばかりの話ではない。例えば、麒麟とほかの地を走る獣たち、鳳凰とほかの空を飛ぶ鳥たち、太山とほかの丘と蟻塚、黄河や大海とほかの雨でできた水たまりのようなものである。聖人とほかの民も同類である。そのなかで、孔子は同類のなかから抜き出ていることはもちろん、聖人のなかでも抜き出ておられる。人が生まれて以来、孔子ほど徳の盛んな聖人はいないのである』と」。
【読み下し文】
曰(いわ)く、敢(あえ)て其(そ)の異(こと)なる所以(ゆえん)を問(と)う。曰(いわ)く、宰我(さいが)・子貢(しこう)・有若(ゆうじゃく)は、智(ち)を以(もっ)て聖人(せいじん)を知(し)るに足(た)る。汙(お)なる(※)も其(そ)の好(この)む所(ところ)に阿(おもね)るに至(いた)らず。宰我(さいが)は曰(いわ)く、予(よ)(※)を以(もっ)て夫子(ふうし)を観(み)れば、堯(ぎょう)・舜(しゅん)に賢(まさ)ること遠(とお)し、と。子貢(しこう)は曰(いわ)く、其(そ)の礼(れい)を見(み)て而(しか)して其(そ)の政(まつりごと)を知(し)り、其(そ)の楽(がく)を聞(き)いて而(しか)して其(そ)の徳(とく)を知(し)る。百世(ひゃくせい)の後(のち)より、百世(ひゃくせい)の王(おう)を等(とう)するに、之(これ)に能(よ)く違(たが)うこと莫(な)きなり。生民(せいみん)より以来(いらい)、未(いま)だ夫子(ふうし)有(あ)らざるなり、と。有若(ゆうじゃく)は曰(いわ)く、豈(あに)惟(ただ)民(たみ)のみならんや。麒麟(きりん)の走獣(そうじゅう)に於(お)ける、鳳凰(ほうおう)の飛鳥(ひちょう)に於(お)ける、太山(たいざん)の丘垤(きゅうてつ)(※)に於(お)ける、河海(かかい)の行(こう)潦(ろう)(※)に於(お)ける、類(るい)なり。聖人(せいじん)の民(たみ)に於(お)けるも、亦(また)類(るい)なり。其(そ)の類(るい)より出(い)で、其(そ)の萃(すい)に抜(ぬ)く。生民(せいみん)より以来(いらい)、未(いま)だ孔子(こうし)より盛(さか)んなるは有(あ)らざるなり、と。
(※)汙なる……人物が多少劣る。本項で孟子は、弟子たちはお世辞をつかわないだろうと言うが、どうか。『荘子』は儒教、つまり孔子を批判している書だが、それを見ると孔子をかなり低く見ているふしがある。逆にそれだけ弟子たちの孔子を尊敬する態度と孟子の孔子熱愛がわかる文章である。
(※)予……宰我の名。『論語』にも「宰予(さいよ)、昼(ひる)寝(い)ぬ」(公冶長第五)として、孔子にあきられるところがある。なお、ここでは孟子は、宰我も智の人として評価しているが、吉田松陰は、宰我と孟子の弟子の公孫丑を「道を信ぜざる人」と酷評している。
(※)丘垤……「丘」はおか。「垤」は蟻塚。
(※)行潦……雨でできた水たまり。
【原文】
曰、敢問其所以異、曰、宰我・子貢・有若、智足以知聖人、汙不至阿其所好、宰我曰、以予觀於夫子、賢於堯・舜遠矣、子貢曰、見其禮而知其政、聞其樂而知其德、由百世之後、等百世之王、莫之能違也、自生民以來、未有夫子也、有若曰、豈惟民哉、麒麟之於走獸、鳳凰之於飛鳥、泰山之於丘垤、河海之於行潦、類也、聖人之於民、亦類也、出於其類、拔乎其萃、自生民以來、未有盛於孔子也。
3‐1 覇者ではなく王者を目指す
【現代語訳】
孟子は言った。「その持つ力でもって天下を押さえつけて支配していながら、仁ある政治を装っているものは覇者である。覇者は、どうしても大国を有することが必要となる(大国でなければ力で支配することができない)。これに対し、徳をもって仁ある政治を行う者は王者である。王者は、大国を有しなくてもよい(徳で人を心服させることができるならば大国でなくともよい)。殷の湯王はわずか七十里四方の国、周の文王は百里四方の国から王者となった。力ずくで人を服させても、人は心からは服さない。ただ力で負けるから、やむなく服しているのである。これに対し、徳をもってして、人を服させているのは、心から喜んで、誠に服しているのである。ちょうど孔子の弟子たち七十人が孔子に心服しているようなものである。『詩経』にも、『西から東から、また南から北から、人々は集まり、(武王の)徳を慕い思って、心服しない者はいなかった』、とあるのは、こうした王者の有り様を言っているのである」。
【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、力(ちから)を以(もっ)て仁(じん)を仮(か)る者(もの)は覇(は)たり。覇(は)は必(かなら)ず大国(たいこく)を有(たも)つ。徳(とく)を以(もっ)て仁(じん)を行(おこな)う者(もの)は王(おう)たり。王(おう)は大(だい)を待(ま)たず。湯(とう)は七十里(しちじゅうり)を以(もっ)てし、文王(ぶんおう)は百里(ひゃくり)を以(もっ)てす。力(ちから)を以(もっ)て人(ひと)を服(ふく)する者(もの)は、心服(しんぷく)に非(あら)ざるなり。力(ちから)贍(た)らざればなり。徳(とく)を以(もっ)て人(ひと)を服(ふく)する者(もの)は、中心(ちゅうしん)悦(よろこ)びて誠(まこと)に服(ふく)するなり。七十子(しちじっし)の孔子(こうし)に服(ふく)するが如(ごと)きなり。詩(し)に云(い)う、西(にし)よりし東(ひがし)よりし、南(みなみ)よりし北(きた)よりし、思(おも)うて(※)服(ふく)せざる無(な)し、と。此(これ)の謂(いい)なり。
(※)思うて……(武王の)徳を慕い思って。
【原文】
孟子曰、以力假仁者霸、霸必有大國、以德行仁者王、王不待大、湯以七十里、文王以百里、以力服人者、非心服也、力不贍也、以德服人者、中心悦而誠服也、如七十子之服孔子也、詩云、自西自東、自南自北、無思不服、此之謂也。
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