第38回
90〜92話
2021.05.18更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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6‐1 人には皆忍びざるの心がある
【現代語訳】
孟子は言った。「人は皆忍びざるの心がある。先王にも、もちろん人に忍びざるの心があり、その心を国政に及ぼしていった。この忍びざるの心をもって、思いやりのある国の政治を行えば、天下を治めることは、あたかも手のひらに物を乗せて転がすようにたやすいものである」。
【読み下し文】
孟子(もうし)曰(いわ)く、人(ひと)皆(みな)、人(ひと)に忍(しの)びざるの心(こころ)(※)有(あ)り。先王(せんおう)人(ひと)に忍(しの)びざるの心(こころ)有(あ)り、斯(ここ)に人(ひと)に忍(しの)びざるの政(まつりごと)有(あ)り。人(ひと)に忍(しの)びざるの心(こころ)を以(もっ)て、人(ひと)に忍(しの)びざるの政(まつりごと)を行(おこな)わば、天下(てんか)を治(おさ)むること、之(これ)を掌上(しょうじょう)に運(めぐ)らす(※)べし。
(※)忍びざるの心……他人の不幸、他人の痛みを平気で見てられない心。同情心。孟子のいわゆる性善説から、人には皆忍びざるの心があるということになる。この忍びざるの心を、政治に生かしたのが先王たちであると孟子は見る。このように、徳による感化を近きより遠くに及ぼしていくのが儒教の伝統でもあった。
(※)之を掌上に運らす……手のひらに物をのせて転がすように。今でもこの孟子の「之を掌上に運らす」はよく使われ、「物事の、きわめて容易に行いやすいことをたとえいう」とされる(『故事ことわざの辞典』小学館)。
【原文】
孟子曰、人皆、有不忍人之心、先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣、以不忍人之心、行不忍人之政、治天下、可運之掌上。
6‐2 惻隠の心がないのは人間ではない
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「人には皆、忍びざるの心(他人の不幸や他人の痛みを平気で見ていられない心)がある。それは、次のようなことからもわかる。今、仮に、不意に幼児が井戸に落ちようとしているのを見たとすれば、誰でも皆、はっと驚きおそれ、惻隠の心を起こし、幼児を助けようとするはずだ。それは、助けることによって幼児の父母と付き合いを始めたいからではない。また同郷の人たちや友人たちから誉めてもらいたいためでもない。助けないことで自分の評価が悪くなることを恐れたためでもない。このようなことをよく観察してみると、人は生まれながらに惻隠の心を持っているものであって、この惻隠の心がないのは人間ではないといえる。同じように羞悪すなわち恥ずかしいという心、辞譲すなわち他人に譲る心、是非、すなわち善悪を見分ける心がないようなものは人間ではない」。
【読み下し文】
人(ひと)皆(みな)、人(ひと)に忍(しの)びざるの心(こころ)有(あ)りと謂(い)う所以(ゆえん)の者(もの)は、今(いま)人(ひと)乍(たちま)ち(※)孺子(じゅし)(※)の将(まさ)に井(せい)に入(い)らんとするを見(み)れば、皆(みな)怵惕(じゅつてき)(※)惻隠(そくいん)の心(こころ)(※)有(あ)り。交(まじ)わりを孺子(じゅし)の父母(ふぼ)に内(い)るる所以(ゆえん)に非(あら)ざるなり。誉(ほま)れを郷党(きょうとう)(※)朋友(ほうゆう)に要(もと)むる所以(ゆえん)に非(あら)ざるなり。其(そ)の声(こえ)を悪(にく)んで然(しか)るに非(あら)ざるなり。是(これ)に由(よ)りて之(これ)を観(み)れば、惻隠(そくいん)の心(こころ)無(な)きは、人(ひと)に非(あら)ざるなり。羞悪(しゅうお)の心(こころ)無(な)きは、人(ひと)に非(あら)ざるなり。辞譲(じじょう)の心(こころ)無(な)きは、人(ひと)に非(あら)ざるなり。是非(ぜひ)の心(こころ)無(な)きは、人(ひと)に非(あら)ざるなり。
(※)乍ち……不意に。たちまち。
(※)孺子……幼児。
(※)怵惕……はっと驚き恐れる。
(※)惻隠の心……他人の苦痛や不幸に同情し、悼む心。「惻隠」あるいは「惻隠の情」は現代の日本でも使われている。例えば、「あわれみ、悼むこと。同情すること」(『岩波国語辞典』岩波書店)とされる。
(※)郷党……同郷の人たち。一応、「郷」はだいたい一万二千五百戸(党の五十倍)、「党」はだいたい五百戸の村落とされている。なお、『論語』にも郷党第十という篇がある。
【原文】
所以謂人皆、有不忍之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心、非所以内交於孺子之父母也、非所以要譽於郷黨朋友也、非惡其聲而然也、由是觀之、無惻隱之心、非人也、無羞惡之心、非人也、無辭讓之心、非人也、無是非之心、非人也。
6‐3 惻隠の心は仁の端なり
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「人の不幸をあわれむという惻隠の心は、仁の端すなわち萌芽である。自分の不義、不正を羞じ憎む羞悪の心は、義の萌芽である。他人に譲るという辞譲の心は、礼の萌芽である。善悪を見分けるという是非の心は、智の萌芽である。人にこの四端があるのは、ちょうど人に両手両足の四体があるのと同じである。この四端がありながら、仁義礼智の行いが良くできないというのは、自分をないがしろにする者である。また、我が君主に、仁義礼智の行いが良くできないと言うのは、君主をないがしろにして見くびった者である。自分に四端がある者は皆、これを拡大して充実させ、仁義礼智の徳を完全にしていくべきである。そうすれば、四端は燃え出した火、水が出始めた泉のようになる(火はどんどん燃えひろがり、水はどんどん満ちあふれていく)。これを拡大して充実していけば、天下四海も安らかに治め保つこともできるようになるが、もし、拡大せずに放っておけば、父母に仕えるということさえ満足にはできないだろう」。
【読み下し文】
惻隠(そくいん)の心(こころ)は、仁(じん)の端(たん)(※)なり。羞悪(しゅうお)の心(こころ)は、義(ぎ)の端(たん)なり。辞譲(じじょう)の心(こころ)は、礼(れい)の端(たん)なり。是非(ぜひ)の心(こころ)は、智(ち)の端(たん)なり。人(ひと)の是(こ)の四端(したん)有(あ)るや、猶(な)お其(そ)の四体(したい)有(あ)るがごときなり。是(こ)の四端(したん)有(あ)りて、而(しか)して自(みずか)ら能(あた)わずと謂(い)う者(もの)は、自(みずか)ら賊(そこな)う者(もの)なり。其(そ)の君(きみ)能(あた)わずと謂(い)う者(もの)は、其(そ)の君(きみ)を賊(そこな)う者(もの)なり。凡(およ)そ我(われ)に四端(したん)有(あ)る者(もの)は、皆(みな)拡(ひろ)めて之(これ)を充(みた)すことを知(し)らん。火(ひ)の始(はじ)めて燃(も)え、泉(いずみ)の始(はじ)めて達(たっ)するが若(ごと)し。苟(いやしく)も能(よ)く之(これ)を充(み)たさば、以(もっ)て四海(しかい)を保(やす)んずるに足(た)るも、苟(いやしく)も之(これ)を充(み)たさざれば、以(もっ)て父母(ふぼ)に事(つか)うるに足(た)らず。
(※)端……萌芽。めばえ。朱子などは、この萌芽、めばえという見方に対し、緒、いとぐち、と見る。すなわち仁などの完全な徳が存在していて、その端が表れたとする。孟子は、端を拡充していくことで、これが育っていくと述べているので、素直な見方をすると萌芽、めばえと解する方が自然に思う。なお、ここで孟子は「仁」、「義」、「礼」、「智」を四徳として挙げている。後の漢代に入ると、董仲舒(とうちゅうじょ)がこれに「信」を加えて、いわゆる“五常説”へと発展していく。
【原文】
惻隱之心、仁之端也、羞惡之心、義之端也、辭讓之心、禮之端也、是非之心、智之端也、人之有是四端也、猶其有四體也、有是四端、而自謂不能者、自賊者也、謂其君不能者、賊其君者也、凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始逹、苟能充之、足以保四海、苟不充之、不足以事父母。
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