第52回
123〜125話
2021.06.07更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
「目次」はこちら
11‐1 口だけではだめである。行動で十分に示すのが必要
【現代語訳】
孟子が(斉王にいよいよ見切りをつけて)、斉を去り本国に帰る途中で、昼という村に泊まった。すると、斉王のために孟子が去るのを止めようとする者があって、宿にいる孟子の前にすわり込んで話をした。しかし、孟子は返事もせず、脇息にもたれて寝たふりをしていた。さすがにその客は、面白くなくて言った。「私は、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して(身を清め)、一夜を過ごしてやってきて、話をさせてもらっている。なのに先生は寝たふりをして聞いてくださらない。もう二度と先生にはお会いしません」。すると孟子はやっと口を開いて言った。「まあ、座りなさい。私は、あなたに訳をはっきりと言おう。昔、魯の繆公は、(孔子の孫の)子思を尊敬し、子思のそばに人をつけ、自分の誠意を通じさせていたが、そのようにしなければ子思を引き留めることができないと心配したのである。また、(魯の賢者といわれた)泄柳と申詳の二人は、繆公のそばに彼らのとりなしをする人がいなければ安心して留まっていることができなかったという。あなたは、この年寄りのために、斉に留まることを述べた。しかし、あなたの行動は子思に対する心づかいにはまったく及んでいません(王を魯の繆公のようにさせる努力をしていない)。とすると、あなたのほうからこの年寄りを縁を絶とうとしているのか、それとも私のほうから縁を絶とうとているのかわかりそうなものです」。
【読み下し文】
孟子(もうし)斉(せい)を去(さ)り、昼(ちゅう)に宿(しゅく)す。王(おう)の為(ため)に行(こう)を留(とど)めんと欲(ほっ)する者(もの)有(あ)り。坐(ざ)して言(い)う。応(こた)えず。几(き)(※)に隠(よ)りて臥(ふ)す。客(きゃく)悦(よろこ)ばずして曰(いわ)く、弟子(ていし)斎宿(せいしゅく)して後(のち)敢(あえ)て言(い)う。夫子(ふうし)臥(が)して聴(き)かず。請(こ)う復(ふたた)び敢(あえ)て見(まみ)ゆること勿(な)からん。曰(いわ)く、坐(ざ)せよ。我(われ)明(あき)らかに子(し)に語(つ)げん。昔者(むかし)、魯(ろ)の繆公(ぼくこう)は子思(しし)(※)の側(かたわら)に人(ひと)無(な)ければ、則(すなわ)ち子思(しし)を安(やす)んずる能(あた)わず。泄柳(せつりゅう)・申詳(しんしょう)(※)は、繆公(ぼくこう)の側(かたわら)に人(ひと)無(な)ければ、則(すなわ)ち其(そ)の身(み)を安(やす)んずる能(あた)わざりき。子(し)(※)、長者(ちょうじゃ)(※)の為(ため)に慮(おもんばか)りて、子思(しし)に及(およ)ばず。子(し)、長者(ちょうじゃ)を絶(た)つか。長者(ちょうじゃ)、子(し)を絶(た)つか。
(※)几……脇息。ひじかけ。
(※)子思……孔子の孫。なお、子思は孔子の弟子の曾子に学び、孟子は子思の弟子に学んだとされる。だから子思はいわゆる孟子の尊敬するところの一人である。子思は長らく『中庸』の作者とされてきたが、最近は異論も多い。子思については離婁(下)第三十一章、万章(下)第六章、七章にも出てくる。
(※)泄柳・申詳……人物名だがよくわかっていない。申詳は孔子の弟子の子張の子という説もある。
(※)子……あなた。
(※)長者……年寄り。年上の者。ここでは孟子のことを指している。
【原文】
孟子去齊、宿於晝、有欲爲留行者、坐而言、不應、隱几而臥、客不悦曰、弟子齊宿而後敢言、夫子臥而不聽、請勿復敢見矣、曰、坐、我明語子、昔者、魯繆公無人乎子思之側、則不能安子思、泄柳・申詳、無人乎繆公之側、則不能安其身、子爲長者慮、而不及子思、子、絕長者乎、長者絕子。
12‐1 嫌なことを言う人間は必ずいるもの
【現代語訳】
孟子は斉を去った。(斉の家臣である)尹士という男が、ある人に言った。「斉の王は、湯王や武王のような王者の英雄にはとてもなれない。それがわからずに斉にやってきたのなら、孟子は先の見えない者であったということになる。もし、王者になれないことを知っていて、それでも来たのなら、斉王からの恩沢(高い俸禄)にあずかろうと思ったのだ。それに加えて、千里もの遠いところからやってきて斉王に会ったものの、考えが合わないので斉を去るという。昼の村に三泊もしてやっと出発したというのは、ぐずぐずしていて未練がましい。私はその態度が気に入らない」と。そう言ったのを弟子の高子が孟子に告げた。
【読み下し文】
孟子(もうし)斉(せい)を去(さ)る。尹士(いんし)人(ひと)に語(つ)げて曰(いわ)く、王(おう)の以(もっ)て湯(とう)・武(ぶ)たるべからざるを識(し)らざれば、則(すなわ)ち是(こ)れ不明(ふめい)(※)なり。其(そ)の不可(ふか)なるを識(し)りて、然(しか)も且(か)つ至(いた)りしならば、則(すなわ)ち是(こ)れ沢(たく)を干(もと)むる(※)なり。千里(せんり)にして王(おう)に見(まみ)え、遇(あ)わざるが故(ゆえ)に去(さ)る。三宿(さんしゅく)して而(しか)る後(のち)昼(ちゅう)を出(い)づるは、是(こ)れ何(なん)ぞ濡滞(じゅたい)(※)なるや。士(し)は則(すなわ)ち茲(ここ)に悦(よろこ)ばず、と。高子(こうし)以(もっ)て告(つ)ぐ。
(※)不明……先の見えない。道理がわからない。
(※)沢を干むる……恩沢(高い俸禄)にあずかろうとする。
(※)濡滞……ぐずぐずすること。なお、「ためらい」と読む人もいる。
【原文】
孟子去齊、尹士語人曰、不識王之不可以爲湯・武、則是不明也、識其不可、然且至、則是干澤也、千里而見王、不遇故去、三宿而後出晝、是何濡滯也、士則茲不悦、高子以告。
12‐2 離れた人や国のことを悪く言わない
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。孟子は言った。「その尹士に、私の心はわかるまい。千里の遠くからやってきて、斉王に会ったのは、それが私の願い欲するところだったからだ。ところが、私の考えと王の考えが合わないので、斉を去るのは、どうして私の願い欲するところであろうか。私は、やむをえないことだからそうするのである。私は三泊して昼の村を出るけれども、それでも私の心は、まだ早すぎると思うくらいである。どうか、王よ、改めてほしい。王が考えを反省し、改めてくれるならば、必ず私を呼び戻すであろう。しかし、昼を出てからも、王は私を追ってこない。それで私も、もはやこれまでと、きっぱり決めて帰る気持ちになったのである。そうは言っても、私は王をだめだと見捨てるつもりはない。王はなお、善をなすことのできる人である。王がもし、私の考えを用いてくれれば、ただ斉の民が安らかになるだけではない。天下の民すべてが安らかに過ごせるようになるのだ。どうか、王よ。改めてほしい。今でも、私は毎日そう願うのである。私には、どうして、尹士のような小人物の言うようなことができるだろうか。君を諫めて、その意見が受け入れてもらわないと、かんかんに怒って顔にもその様子を見せる。そして、立ち去るとなると、(少しでも遠くに遠ざかろうと)日がある明るいうちにできるだけ遠くまで歩いて、日が暮れてやっと泊まるようなまねはできない」。尹士は、この孟子の言葉を聞いて、言ったという。「私はまことに小人物であった」。
【読み下し文】
曰(いわ)く、夫(か)の尹士(いんし)は悪(いずく)んぞ予(われ)を知(し)らんや。千里(せんり)にして王(おう)に見(まみ)ゆるは、是(こ)れ予(わ)が欲(ほっ)する所(ところ)なり。遇(あ)わざるが故(ゆえ)に去(さ)るは、豈予(あにわ)が欲(ほっ)する所(ところ)ならんや。予(われ)已(や)むことを得(え)ざればなり。予(われ)三宿(さんしゅく)して而(しか)る後(のち)昼(ちゅう)を出(い)ずるも、予(わ)が心(こころ)に於(お)いて猶(な)お以(もっ)て速(すみ)やかなりと為(な)す。王(おう)庶(こい)幾(ねがわ)くは之(これ)を改(あらた)めよ。王(おう)如(も)し諸(これ)を改(あらた)めば、則(すなわ)ち必(かなら)ず予(われ)を反(かえ)さん。夫(そ)れ昼(ちゅう)を出(い)でて、而(しか)も王(おう)予(われ)を追(お)わざるなり。予(われ)然(しか)る後(のち)に浩(こう)然(ぜん)(※)として帰(き)志(し)有(あ)り。予(われ)然(しか)りと雖(いえど)も豈(あに)王(おう)を舎(す)てんや。王(おう)由(な)お用(もっ)て善(ぜん)を為(な)すに足(た)れり。王(おう)如(も)し予(われ)を用(もち)いば、則(すなわ)ち豈(あに)徒(ただ)斉(せい)の民(たみ)安(やす)きのみならんや。天下(てんか)の民(たみ)挙(みな)安(やす)からん。王(おう)庶(こい)幾(ねがわ)くは之(これ)を改(あらた)めよ。予(われ)日(ひ)に之(これ)を望(のぞ)めり。予(われ)豈(あに)是(こ)の小丈夫(しょうじょうふ)(※)の若(ごと)く然(しか)らんや。其(そ)の君(きみ)を諫(いさ)めて受(う)けられざれば、則(すなわ)ち怒(いか)り、悻悻然(こうこうぜん)(※)として其(そ)の面(めん)に見(あらわ)れ、去(さ)れば則(すなわ)ち日(ひ)の力(ちから)を窮(きわ)めて、而(しか)る後(のち)に宿(しゅく)せんや。尹士(いんし)之(これ)を聞(き)きて曰(いわ)く、士(し)(※)は誠(まこと)に小人(しょうじん)なり。
(※)浩然……水が流れてとどまらないように、きっぱりと決めた心持ちで帰るようすを意味している。なお、「浩然の気」については、公孫丑(上)第二章五参照。
(※)小丈夫……小人物。
(※)悻悻然……怒っている様子。
(※)士……尹士のこと。なお、吉田松陰は、孟子が斉を去ることを述べた文章は五章ほどあるが、どれも一言の怨み、怒りはなく、斉王を批判した言葉もないとする。そのうえで「交(まじわり)既(すで)に絶(た)つるに至(いた)りて、悪声(あくせい)を出(だ)すことあらんや」と述べている(『講孟箚記』)。孟子が斉を去ったのは、前三一二年とされる。決断の理由は前にも出てくる燕の取り扱いについてであろう。孟子の考えは斉王の受け入れるところとならなかったのである。燕はその後、昭王(斉を怨んでいた)の下で「隗(かい)より始(はじ)めよ」という人材集め策が功を奏し、楽(がっ)毅(き)を将軍として、宣王の子の湣(びん)王(おう)の時代に斉を攻撃し、七十余城を奪っている。その楽毅も、ここでの孟子と同じような言葉を残しているが、松陰はこの言葉も愛したという。
【原文】
曰、夫尹士惡知予哉、千里而見王、是予所欲也、不遇故去、豈予所欲哉、予不得已也、予三宿而出晝、於予心猶以爲速、王庶幾改之、王如改諸、則必反予、夫出晝、而王不予追也、予然後浩然有歸志、予雖然豈舎王哉、王由足用爲善、王如用予、則豈徒齊民安、天下之民擧安、王庶幾改之、予日望之、予豈若是小丈夫然哉、諫於其君而不受、則怒、悻悻然見於其面、去則窮日之力、而後宿哉、尹士聞之曰、士誠小人也。
感想を書く