第55回
130〜132話
2021.06.10更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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2‐2 先例を変えることは容易ではない
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。然友が鄒から帰って、孟子の言葉を報告した。そこで太子(後の文公)は、三年の喪に服することを決めた。一族の老臣や役人たちは皆、不賛成でこれに反対して言った。「我が本家である魯国の先君も三年の喪は行わず、我が先君もこれを行わなかったのです。それをあなたの代になってこれらに反するのは良くないと思います。それに古い記録にも、『喪祭は先祖に従う』とあります」。太子は言った。「いや、これは私一人の考えではない。さる方から教えを受けてやることなのだ」。そして、然友に言った。「私はこれまでずっと学問もしてこなかった。好んで馬を走らせ回り、剣を振り回していた。おかげで、今や老臣および役人たちは、私のことを信用していない。このままではこのたびの親の大葬の儀もあやしくなってくる。どうしたらいいか、お前はもう一度私のために、孟子のところに行って聞いてくれないか」。
【読み下し文】
然友(ぜんゆう)反命(はんめい)す。定(さだ)めて三年(さんねん)の喪(も)を為(な)す。父兄(ふけい)(※)百官(ひゃっかん)(※)皆(みな)欲(ほっ)せずして曰(いわ)く、吾(わ)が宗国(そうこく)(※)魯(ろ)の先君(せんくん)之(これ)を行(おこな)う莫(な)く、吾(わ)が先君(せんくん)も亦之(またこれ)を行(おこな)う莫(な)きなり。子(し)の身(み)に至(いた)りて之(これ)に反(はん)するは、不可(ふか)なり。且(か)つ志(し)(※)に曰(いわ)く、喪祭(そうさい)は先祖(せんぞ)に従(したが)う、と。曰(いわ)く、吾(わ)れ之(これ)を受(う)くる所(ところ)有(あ)るなり。然友(ぜんゆう)に謂(い)いて曰(いわ)く、吾(わ)れ他日(たじつ)未(いま)だ嘗(かつ)て学(がく)問(もん)せず。好(この)んで馬(うま)を馳(は)せ剣(けん)を試(こころ)む。今(いま)や父兄(ふけい)百官(ひゃっかん)、我(われ)を足(た)れりとせざるなり。恐(おそ)らくは其(そ)れ大(だい)事(じ)を尽(つ)くす能(あた)わざらん。子(し)我(わ)が為(ため)に孟子(もうし)に問(と)え。
(※)父兄……ここでは老臣や一族の長老たちを意味する。
(※)百官……役人たち。ほとんどの官史。
(※)宗国……本家の国。魯も滕も、周の王室から分かれているが、王室を本家と言うのは、はばかりがあったと見られ、兄の周公が立て、魯をその弟が立てた滕は、宗国と呼んだようだ。
(※)志……ここでは古い記録のこと。
【原文】
然友反命、定爲三年之喪、父兄百官皆不欲曰、吾宗國魯先君莫之行、吾先君亦莫之行也、至於子之身而反之、不可、且志曰、喪祭從先祖、曰、吾有所受之也、謂然友曰、吾他日未嘗學問、好馳馬試劔、今也父兄百官、不我足也、恐其不能盡於大事、子爲我問孟子。
2‐3 君子の徳は風。何事も自分次第
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。然友はまた鄒に行って孟子に問うた。孟子は言った。「なるほど、そうですか。しかし、喪礼などというのは、他人に求むものではなく、自分の心のつくし方の問題です。孔子は次のように言っています。『君が亡くなられると、太子は政治を一切、筆頭家老に任せて、自分は粥をすすり、顔は悲しみのために黒ずみ、定まった場所で哭礼をする。そうするとほとんどの役人たちも、感動するようになり悲しむことでしょう』と。このように、上に立つ君子の徳、人柄は風のようであり、下にいる小人の徳、人柄は草のようなものです。草はこれに風が吹き加えられると、必ずなびくものです。ですからすべては太子の行動にかかっているのです」。
【読み下し文】
然友(ぜんゆう)復(ま)た鄒(すう)に之(ゆ)きて孟子(もうし)に問(と)う。孟子(もうし)曰(いわ)く、然(しか)り。以(もっ)て他(た)に求(もと)むべからざる者(もの)なり。孔子(こうし)曰(いわ)く(※)、君(きみ)薨(こう)ずれば、冢宰(ちょうさい)(※)に聴(まか)せ、粥(かゆ)を歠(すす)り面(おもて)は深墨(しんぼく)、位(くらい)に即(つ)きて哭(こく)す(※)。百官(ひゃっかん)有司(ゆうし)、敢(あえ)て哀(かな)しまざる莫(な)し、と。之(これ)に先(さき)んずればなり。上(かみ)好(この)む者(もの)有(あ)れば、下(しも)必(かなら)ず焉(これ)より甚(はなはだ)しき者(もの)有(あ)り。君子(くんし)の徳(とく)は、風(かぜ)なり。小人(しょうじん)の徳(とく)は、草(くさ)なり。草(くさ)之(これ)に風(かぜ)を尚(くわ)うれば(※)、必(かなら)ず偃(ふ)す。是(こ)れ世子(せいし)に在(あ)り。
(※)孔子曰く……ここでは、孔子の言葉を紹介しているが、『論語』ではこうある。「君(きみ)薨(こう)ずれば、百官(ひゃっかん)は己(おのれ)を総(すべ)て、以(もっ)て家宰(ちょうさい)に聴(き)くこと三年(さんねん)なり」(憲問第十四)。また、続く言葉も『論語』からの引用である。『論語』では、こう言っている。「君子(くんし)の徳(とく)は風(かぜ)なり、小人(しょうじん)の徳(とく)は草(くさ)なり。草(くさ)は之(これ)に風(かぜ)を上(くわ)うれば必(かなら)ず偃(ふ)す」(顔淵第十二)。この「君子の徳は風」は、孔子、孟子が述べたこともあって、格言として世界的に有名となった。意味は、「在位の君子が徳によって民を教化すれば、人々は風によって草がなびくように従う」とされている(「故事ことわざの辞典」 小学館)。
(※)冢宰……筆頭家老。現在でいう総理大臣。
(※)位に即きて哭す……定まった場所で哭礼をする。なお、「哭」は大声で泣くことだが、ここの表現を見ると、儀式としても定着していたようだ。『論語』にも、次のようなことが書かれている。「顔(がん)淵(えん)死(し)す。子(し)、之(これ)を哭(こく)して働(どう)す」(先進第十一)。「慟」とは、哭よりもいっそう悲しみ嘆くことである。日本語では今も「慟哭(どうこく)」は号泣する意味でよく使われている。
(※)尚うれば……加うれば。先に紹介したように「『論語』では「上」の字が使われているが、これも読みは「くわ」としているのが普通である。
【原文】
然友復之鄒問孟子、孟子曰、然、不可以他求者也、孔子曰、君薨、聽於冢宰、歠粥、面深墨、即位而哭、百官有司莫敢不哀、先之也、上有好者、下必有甚焉者矣、君子之德風也、小人之德草也、草尙之風必偃、是在世子。
2‐4 自分の正しい信念に結局人は従うようになる
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。然友が国に帰って孟子の言葉を復命した。太子は言った。「そのとおりだ。これは、まったく自分がやり尽くすかどうかの問題である」。そして、三年の喪を行うことを決め、葬式の前五ヵ月間は仮小屋にとじこもって、政治向きの命令や戒告も出さなかった。それを見た役人たちや一族の者たちも、太子の考えを了解した。本葬になると、あちこちから(古式にのっとった太子の喪の礼がうわさを呼んで)これを見に来た。太子のやつれきった顔、悲しみに満ちた哭泣を見て、弔問に来た人たちも、大いに感服した。
【読み下し文】
然友(ぜんゆう)反命(はんめい)す。世子(せいし)曰(いわ)く、然(しか)り。是(こ)れ誠(まこと)に我(われ)に在(あ)り(※)。五月(ごげつ)廬(ろ)に居(お)り、未(いま)だ命(めい)戒(かい)有(あ)らず。百官(ひゃっかん)族人(ぞくじん)、可(か)とし謂(い)いて知(し)れり(※)と曰(い)う。葬(ほうむ)るに至(いた)るに及(およ)び、四方(しほう)来(き)たり之(これ)を観(み)る。顔色(がんしょく)の戚(いた)める、哭泣(こくきゅう)の哀(かな)しめる、弔(ちょう)する者(もの)大(おお)いに悦(よろこ)ぶ。
(※)我に在り……自分がやり尽くすかどうかの問題である。吉田松陰は、これは孔子の『論語』で言うところの「仁(じん)を為(な)すは己(おのれ)に由(よ)る」(顔淵第十一)と同じことを、孟子は言っているとする(『講孟箚記』)。
(※)可とし謂いて知れり……太子の考えを了解した。この文は、読み方が難しく、文章に誤記があったともされている。いずれにしても、太子の信念を通すその真心を見てまわりの人々も理解し、従うようになったということであろう。こうして文公は三年の喪を真面目にやったまれな人物となった。なお、日本でも幕末の有名な剣士、斎藤弥九郎は、学問の師の藤田東湖(とうこ)に感化されて三年の喪を行ったことを吉田松陰は述べている。もちろん藤田東湖の教えは、孔子、孟子の説を信奉したものであったろう。
【原文】
然友反命、世子曰、然、是誠在我、五月居廬、未有命戒、百官族人、可謂曰知、及至葬、四方來觀之、顏色之戚、哭泣之哀、弔者大悦。
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