第57回
136〜137話
2021.06.14更新
「超訳」本では軽すぎる、全文解説本では重すぎる、孟子の全体像を把握しながら通読したい人向け。現代人の心に突き刺さる「一文超訳」と、現代語訳・原文・書き下し文を対照させたオールインワン。
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3‐4 人は役割分担で生きられる
【現代語訳】
〈前項から続いて〉。(滕の文公は、孟子の話を聞いて助法をやろうと思い)畢戦という近臣を孟子のところにやって、井田の法のことを詳しく問わせた。孟子は言った。「あなたの君は、まさに仁政を行おうとし、あなたを選んであなたに学ばせ、やらせようとしています。あなたは必ずこの大役を努力して果たさなければなりません。さて、仁政というのは、必ず土地の境界を正しくするところから始まります。境界が正しくないと、井田が均しくなくなります。そこから納められる穀物も、そこから出される家臣たちの禄もおかしくなります。ですから昔から暴君や欲深く腹黒い役人たちは、必ず境界をいい加減に決めてごまかそうとします。境界が正しく決められれば、田を分け、禄を制定することも、居ながらにして正しく決められます。滕の国は、領土は狭いものの、なかには君子となり、官に就いて政治を行う者も出てくるし、また野人というべき農業に従事する者もあるでしょう。君子がいなければ野人を治める者がいないし、野人がいなければ君子を養うこともできません。このように両方とも大切な存在ですので、どうか郊外では九分の一の税率として助法を行い、城内は十分の一の税率である徹法を行って、民自らが納めるようにしてください」。
【読み下し文】
畢戦(ひつせん)をして井地(せいち)を問(と)わしむ。孟子(もうし)曰(いわ)く、子(し)の君(きみ)、将(まさ)に仁政(じんせい)を行(おこな)わんとし、選択(せんたく)して子(し)を使(せし)む。子(し)必(かなら)ず之(これ)を勉(つと)めよ。夫(そ)れ仁政(じんせいは必(かなら)ず経界(けいかい)(※)より始(はじ)む。経界(けいかい)正(ただ)しからざれば、井地(せいち)均(ひと)しからず。穀禄(こくろく)(※)平(たい)らかならず。是(こ)の故(ゆえ)に暴君(ぼうくん)汙吏(おり)(※)は、必(かなら)ず其(そ)の経界(けいかい)を慢(まん)(※)にす。経界(けいかい)既(すで)に正(ただ)しければ、田(でん)を分(わ)かち禄(ろく)を制(せい)すること、坐(ざ)して定(さだ)むべきなり。夫(そ)れ滕(とう)は壌地(じょうち)褊小(へんしょう)(※)なれども、将(は)た(※)君子(くんし)たり、将(は)た野人(やじん)たり。君子(くんし)無(な)くんば野人(やじん)を治(おさ)むる莫(な)く、野人(やじん)無(な)くんば君子(くんし)を養(やしな)う莫(な)し。請(こ)う野(や)は九(きゅう)が一(いつ)にして助(じょ)し、国中(こくじゅう)は什(じゅう)が一(いつ)にして自(みず)から賦(ふ)せしめん。
(※)経界……境界。
(※)穀禄……納められる穀物。そこから出される禄。
(※)汙吏……欲深くて腹黒い役人。
(※)慢……いい加減。「漫」と同じ。「あなど」る、とか「ゆるがせ」にすると読む人もある。
(※)壌地褊小……領土が狭い。
(※)将た……また。「はた」と読み、亦の意味。「将(ま)た」と読む人もある。本項で孟子は、税制を論じている。確かに統治側の都合の良い論のようではあるが、時代的な制約からはしかたないところもあろう。そのなかでも、上に立つ者(統治側、君子側)と一般人の役割分担も強調している。一般論にしてみれば、世の中みんな一定の役割を果たしており、また、他人の存在で何とか生きられるものだということを述べていると解される。吉田松陰も尽心(上)第一章の解説のところではあるが、次のように述べている。「凡(およ)そ人(ひと)一(いち)日(にち)此(こ)の世(よ)にあれば一日(いちにち)の食(しょく)を食(くら)い、一日(いちにち)の衣(ころも)を着(き)、一日(いちにち)の家(いえ)に居(お)る。何(なん)ぞ一日(いちにち)の学問(がくもん)、一日(いちにち)の事業(じぎょう)を励(はげ)まざるべけんや」(『講孟箚記』)。私はこれについて次のように述べた。「例えば、江戸時代、武士は命を賭けて戦い、国を守り国を治めていくのが役目である。そのために百姓から年貢をもらい食べていっている。だったら武士というものは、一日生きれば、その分の仕事と勉強をしなければ、ただ喰いしていることになるということだ」、「今でも人は他人の仕事による成果で、生きていられる。お互いさまだろう。しかしそうだったらお互いさまと言える以上(最低でも同等)の仕事と勉強をすべきではないか」(拙著『吉田松陰の名言100』 アイバス出版)。ここで孟子が言っているのは、このことも含まれていると解される。
【原文】
使畢戰問井地、孟子曰、子之君、將行仁政、選擇而使子、子必勉之、夫仁政必自經界始、經界不正、井地不均、穀祿不平、是故暴君汙吏、必慢其經界、經界既正、分田制祿、可坐而定也、夫滕壤地褊小、將爲君子焉、將爲野人焉、無君子莫治野人、無野人莫養君子、請野九一而助、國中什一使自賦。
3‐5 物事を成功させるには実践においていろいろ工夫がいる
【現代語訳】
〈前項から続いて孟子は言った〉。「大臣(卿)以下の役人には、必ず祭祀の費用にあてるための圭田を五十畝与えます。また農夫の子弟で十六歳以上の未婚男子には二十五畝与えます。このように官民ともに厚く遇すれば、死者を葬るにも、引っ越すにも郷里から出ていくことはないでしょう。郷里の田地を八家が一井を共同にし、田畑への出入りも一緒に連れ立って行き、盗賊の防ぎや見張りも共同で助け合い、病気のときは互いに助け合い、人々は親しみ合うようになるでしょう。井田は、一里四方の土地を一井とします。一井は九百畝で、これを九つに分け真んなかの百畝を公田とします。周りの百畝ずつを八家の者がそれぞれ所有し、公田を八家で共同して耕作します。公田の仕事が終わると、自分たちの私田をそれぞれ耕作するのです。公田を先にし、私田を後にすることで、先の君主、役人と民との役割分担をはっきりさせ、税もきちんと納めるようにするためです。しかし、以上述べたことは井田法の大略です。これを本物の良い制度にしていく実践においてうまくいくかどうかは君主たる文公とあなたの肩にかかっているでしょう。ぜひとも成功させてください」。
【読み下し文】
卿(けい)(※)以下(いか)必(かなら)ず圭田(けいでん)(※)有(あ)り。圭田(けいでん)は五十畝(ごじっぽ)。余夫(よふ)(※)は二十五畝(にじゅうごほ)。死徙(しし)(※)郷(きょう)を出(い)づる無(な)く、郷(きょう)田(でん)井(せい)を同(おな)じくし、出入(しゅつにゅう)相(あい)友(とも)とし、守望(しゅぼう)(※)相(あい)助(たす)け、疾病(しっぺい)相(あい)扶(ふ)持(じ)せば、即(すなわ)ち百姓(ひゃくせい)親睦(しんぼく)(※)せん。方里(ほうり)にして井(せい)す。井(せい)は九百畝(きゅうひゃっぽ)。其(そ)の中(うち)は公田(こうでん)たり。八家(はっか)皆(みな)百畝(ひゃっぽ)を私(わたくし)、同(おな)じく公田(こうでん)を養(やしな)う。公事(こうじ)畢(おわ)りて、然(しか)る後(のち)敢(あえ)て私事(しじ)を治(おさ)む。野人(やじん)を別(わか)つ所以(ゆえん)なり。此(こ)れ其(そ)の大略(たいりゃく)なり。若(も)し夫(そ)れこれを潤沢(じゅんたく)せんは、則(すなわ)ち君(きみ)と子(し)とに在(あ)り。
(※)卿……大臣。なお、梁恵王(上)第一章二参照。
(※)圭田……祭祀用の費用にあてるための田畑。
(※)余夫……農夫の子弟で十六歳以上の未婚男子。
(※)死徙……死者を葬ることと引っ越し。
(※)守望……盗賊の防ぎや見張り。
(※)親睦……親しみ合う。昭和三十年代くらいまでの日本の田舎でも「親睦」という言葉はよく使われた。すでに『孟子』に使われていたのは、感慨深いものがある(この点、孟子の考えは最近まで日本でも生きていたこととも言える)。今の懇親会、飲み会みたいなものをさらに濃密な関係にした集まりである。旧日本軍が強かった一つの理由がその郷土の親睦関係を軍の組織に反映したものだったからだ。なお、孟子の主張する井田法は、詳しい実態はどうであったかなどよくわかっていない。また、現代の制度としてはとうてい実践は難しい。古代共産制みたいな雰囲気も感じる。ただ、孟子の主張の根底には、貧しさのために死んでいく庶民を、何とかして助けること、すなわち民の生活の安定そして教育の実践、人々の仲睦まじい日々を実現しようという熱い熱情があったのである。今を基準にして批判することはおかしいし、その心意は何かを見抜く態度が『孟子』を理解するカギとなろう。
【原文】
卿以下必有圭田、圭田五十畝、餘夫二十五畝、死徙無出郷、郷田同井、出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦、方里而井、井九百畝、其中爲公田、八家皆私百畝、同養公田、公事畢、然後敢治私事、所以別野人也、此其大略也、若夫潤澤之、則在君與子矣。
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